第8話「アダムはリンゴを食べたかったのではなく、禁じられていたから食べたのだ」
その日以降のマリアの取り乱し方は酷かった。報告書作成や各所への説明に追われるアーヴィンに代わって、マリアの保護を行っていた担当の研究員――神野という若い研究員だった――からの報告によると、常に涙を流して彼の死を悼んだという。
「あの人にもお父さんやお母さんがいた。」
「あの人は愛を求めていた。私はその命を奪った、救えなかった。」
そう泣き喚いていたと、聞いた。
アーヴィンは、とてもではないがマリアと面会する気にはなれなかった。その役目を神野研究員に託して、自らは研究成果の取りまとめに没頭した。
一方で、『天使が上級DV細胞能力者を一方的に屠った』という事実に対して、研究所内やパトロンは高い評価を下した。
2000年10月13日
実験の一週間後、かつてないほどの笑みでアーヴィンを研究室に迎え入れた大場教授。
「よくやってくれた。先日の定期報告会で、パトロンから『GG細胞』の採用を再検討のテーブルに戻し、『AG細胞』の採用を検討すると連絡を貰ったよ。」
「直々に報告書を読んだ七瀬様から、数億を超える資金援助を追加された。」
「すべては弛まぬ君の努力の成果だねぇ。私も優秀な所員を部下に持って光栄だ。」
大場教授の一言一言が、罪悪感に駆られていたアーヴィンを研究員としての立場に引き戻す。
「ありがとう、ございます・・・。」
「被験者のことで胸を痛めているんだろう。君も辛かろうが、それは人生における障害だ。」
俯くアーヴィンに対して、心を覗き込むように言葉を吐く大場。
かつての僕だったら唾棄すべき言葉だったろう、とアーヴィンは考える。
だが、今はその言葉だけが救いだった。
「あのDV細胞による機能拡張――、まさかあんな残酷な事態になるとは。僕も心を傷めているんだよ。」
大場は明らかに薄い言葉を連ねる。
「はい、まさか細胞そのものが意志を持ち、戦闘に適した人格として被験者と融合するとは。」と、アーヴィン。
「だが、これは革新的だ。量産に成功すれば、戦闘ノウハウがない人間でも熟練の兵士として活動できる。」
大場の言うことは心理だった。この実験から得たことは、発動と共に戦闘ノウハウを人格に『インストール』し、一般市民を熟練の兵士へ強制的に『変身』させられる技術。
この実験の最終目的である、『国民総兵士化』にうってつけの技術だった。
「これが成功すれば、僕のポストを君に明け渡す日も近いかもしれないね。そして、君のお爺様やお父様の悲願の実現でもある。」
「君には、期待しているよ。」
アーヴィンは、止まらない。
いつしか彼は、この実験を完遂することのみが、マリアとの約束された幸せな未来を迎える唯一の方法だと思い込む。
そして、二度目以降の『DV細胞変換、及びAG細胞の機能拡張実験』が開始された。
2000年11月3日『嫉妬』の浄化実験。
マリアは翠に染まり、大槌を持つ慈愛の天使に変化した。
神野研究員から、マリアの消耗がひどいと報告を受ける。
「もうすぐだ。もう少しだけ我慢してくれ、マリア。」
2000年12月8日『暴食』の浄化実験。
マリアは紅に染まり、炎槍を構えた誓約の天使に変化した。
神野研究員から、マリアが食事を摂らなくなったと報告を受ける。
「実験が終わったら、君を解放できる。すぐに次の被験者を見つける。」
2001年1月12日『怠惰』の浄化実験。
マリアは金に染まり、大剣を携えた規律の天使に変化した。
神野研究員から、マリアの意識が遠いことがあると報告を受ける。
「ここで実験を中止すれば、僕の過去も、君の苦しみも無駄になるんだ。」
2001年2月15日『憤怒』の浄化実験。
マリアは蒼に染まり、晶翼を持つ慈悲の天使に変化した。
神野研究員から、マリアが部屋から出なくなったと報告を受ける。
「君ならわかってくれる。君なら、僕の思いやりに気付いてくれる。」
2001年2月26日『強欲』の浄化実験。
マリアは白に染まり、光掌を持つ救恤の天使に変化した。
神野研究員から、マリアと話が噛み合わないことがあると報告を受ける。
「すべてが終わったら、君に愛してると伝えよう。そして、一緒に暮らそう。」
2001年3月16日 最後の『傲慢』の浄化実験。
マリアは銀に染まり、細剣を携えた正義の天使に変化した。
神野研究員から、マリアから面談を拒否されたと報告を受ける。
「君の姓を名乗ろう。アーヴィン・ローライト。それが僕の新しい名前だ。」
「僕は、君のために―――。」
2000年度末には揃えねばならないパトロン向けの実験結果報告書。そこに間に合わせるために、次々とこなさねばならない実験。次の実験準備と実験完了報告書が入り乱れ、アーヴィンは多忙を極めていた。
だが、彼にとってこの多忙さが、マリアに対する罪悪感を薄める薬にもなっていた。
――そして、全ての報告書の提出を終え、後はパトロンの最終結果発表を待つだけとなったころには、最後にマリアと面会してから半年が経過していた。
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2001年3月30日
全ての実験と報告を完了させた僕は、『AG細胞』の採用を確信した状態で、マリアに会うことを決意した。
連日の疲労は残っているものの、ふらつきながらも彼女のいる個室に向かう。
「あぁ、マリア・・・。ようやく、君に会える・・・。」
安堵感から、時折倒れこみそうになる。
僕は今、研究者としているのだろうか。それとも、一人の人間として君に会いたいのだろうか。
それもすべて、君に会えばわかる。
そして、彼女の待つ個室のドアをノックする。
「・・・はい。」
返ってきたのは、怯えるような、彼女のか細い声。
「僕だ。アーヴィンだ。」
「アー・・・ヴィン・・・。ごめんね、今は会いたく、ない・・・。」
一瞬で、冷や水を浴びせられた気持ちになる。僕はなにを考えていたんだ。
彼女を傷つけて、実験に巻き込んだ責任者は僕じゃないか。
「・・・済まない。君にした仕打ちを考えれば、当然のことだね。」
「違うの。違う。ごめんね。私は、アーヴィンに嫌われたくない・・・。」
想定していなかった返事に、脳内に疑問符が並ぶ。
「どうしたんだい、マリア。君が僕のことを嫌う理由があっても、僕が君を嫌う理由にはならないよ。」
「この扉を、開けてくれ。」
1分ほどたっぷり無音を置いて、マリアの個室の扉が、開く。
そして彼女の姿を見た僕の時間は―――止まった。
「マリア・・・なのか・・・?」
彼女の姿は、15歳ほどの少女の姿へ変化――若返ると表現するのが適当だろうか―――していた。
「ごめん、言い出せなくて。ごめんね・・・。」
「な・・・まさか・・・。『天使』の力の・・・副作用・・・。」
わなわなと震える手が、彼女に触れることを拒む。
「まさか!冗談だろう。君はマリアの妹か誰かかい。」
「アーヴィン・・・。」と、悲痛な声を漏らすマリアによく似た少女。
「そうだ、僕と今まで話した話、この場で言えるかい。一緒に行ったレストランの名前や、僕がプラネタリウムを見せた時に教えた、好きな星の名前。それが言えたら、僕だって信用せざるを得ない。」
「ごめんね、アーヴィン。私、記憶も、どんどん消えてるんだ。あなたが大切な人だ、ってことはわかるの。でも、あなたと過ごした日々を思い出せない。」
「バカな。たちの悪い悪戯はやめてくれ。マリアはどこだ。」
脳は状況を理解していた。だが心がついていかない。思わず少女の両肩を掴む。
「声もよく聞こえない。匂いもわからない。ごはんも味がしない。こうして触れてもらっても、あなたの温もりすらわからない。・・・そして、世界から色が消えちゃった。」
『DV細胞を利用した天使の能力』の代償は、五感と、記憶、そして肉体――。そんな推論が、頭を過る。
「マリア・・・なのか・・・。本当に・・・。」
「ごめん、アーヴィン。ごめん。」
「どうして・・・黙っていたんだ。こんなち、致命的な、ふく、副作用があることを・・・。」
「アーヴィン・・・・・・?」
「・・・ふざけるな。」
あれだけ時間と金を費やして行った研究が、全て無駄になった。
研究所から追放されるかもしれない。自分を支えていたすべてが、足元から崩れていく。
「ふざけるな!なぜ話さなかった!」
激昂し、マリアを怒鳴りつける。彼女の身に起きたことに対しての憐憫の意などには構っていられない。
「ごめん・・・なさい・・・。」
「だ、だから頭の悪い人間は嫌いなんだ!学歴もなく、怠惰に毎日を過ごして!」
彼女を効率的に傷付けるための言葉を模索する。連日の多忙さや周囲のプレッシャーから抑圧されていたフラストレーションが解放されてしまう。
「そんなに僕を苦しめたかったか。そんなに僕が憎かったか。これで実験は失敗だよ!君の思う通りの結果になったよ。満足かい!」
「違う、違うの、アーヴィン!」
水晶のように大きな瞳から涙を溢し、必死に僕に何かを伝えようとするマリア。
だが、そんなものすべて知ったことではない。
「お前なんて、お前なんてただの人殺しだ!何が天使だ!何が―――」
「もう、やめて!」
どん、とマリアに突き飛ばされた。それは、普段の彼女を知っている僕には信じがたかった。
その力は余りに非力だったが、まったく想定外の出来事に、尻もちをつく。
「私、死んでも良かった。」
ぽつり、と彼女が呟く。
意味が分からない。あっけに取られていると、彼女が言葉を続ける。
「ごめんなさい。明日には、出ていく。だから。」
「もう、許してください。」
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