第6話「許しとは、踏まれた菫の花が踵に放つ香りである」
その後の実験は、最悪の一途を辿った。奥多摩研究所の中でも『最も性能の高い個体』として扱われたマリアは、大場教授の指示のもと首枷を付けられ、所外に逃走しないように図られた。
継続的な発動実験の結果、最大3分間ではあるが『真っ白な天使の姿』――その姿は開発コード:エンジェリックと名付けられた――の安定した発動は可能となった。
しかしマリア以外の成功例は依然として現れず、引き続き「物量を単体で凌駕するため」単体性能向上を図る目的で、発動実験は続けられた。
それは凄惨たるもので、マリアが日々消耗していることは、アーヴィンの目から見ても明らかであった。
アーヴィンとマリアの面談は、日を追うごとに少なくなっていった。
アーヴィンは、マリアの前ではできる限り『優しいままのアーヴィン』であろうとしたし、一方で大場教授の前では『教授に忠実な所員』であろうとした。
かつてないほど充実していた、マリアと対峙する自分。自分の人生の中核となっていた、研究者としての自分。
相反する二人の自分に、アーヴィンもまた、日々摩耗していた。
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2000年7月13日
「疲れているようだね、アーヴィン。精神安定剤を服薬していると聞いたが、大丈夫かね。」
教授席に深く腰掛けた大場教授がアーヴィンに問いかける。
「少し不眠でして。それより本日のご用は?」と、アーヴィン。
「能力開発研究機関の大手スポンサーである七瀬様から、洞口教授の『GG細胞』の本格採用を考えていると打診があったよ。」
「な・・・。それは、ほぼ内定ですか?」
自らの存在価値を否定されたような衝撃を受けるアーヴィンは、狼狽を隠し切れない。
「ほぼ内定だ。戦術が一辺倒な『AG細胞』では、いくら単体性能が強力でも攻略されてしまうであろう、という予測に基づいた判断だよ。」
まるで人ごとのようにのたまう大場。だが、その目は穏やかではない。
確かに、七瀬への報告書ではそのように捉えられても仕方がない、とアーヴィンは考える。そして、それに対する対応策も、彼の頭には描いてあった。
――おそらく大場はそれに気付いているのだ。「隠し玉があるならば、出せ」と。
僕は、どうする。
ここまで彼女を追い詰めたのだ。もう、以前のように本心から笑顔で話せることはない。
一歩踏み出してしまったのだ、全ては手遅れだ。
自分に言い訳をするように、自分を踏み留める原因を丁寧に踏み潰す作業をする。
「・・・『AG細胞』に、戦術の幅を持たせればいいわけですよね。」
「ああ、そうだ。」と、大場教授。
「『DV細胞』を、『AG細胞』の力で浄化させます。これにより、『DV細胞』の持つ戦術を得ることが可能になります。」
「なるほど。『欲望』で発動するかの細胞を、『願い』という欲望で発動させる訳だな。」
目を輝かせ、ふむ、ふむと自分を納得させるように考え込む大場。
「よろしい。では早速、実験を始めるがいい。」
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マリアの部屋にアーヴィンが訪れると、彼女は窓から覗く山の木々を眺めているところだった。
微かな月明かりに照らされた横顔を、まるでこの世のものではないと錯覚してしまう。
「マリア。」
アーヴィンが呼びかけると、彼女は少し笑みを浮かべながら、見惚れているような目をこちらに向ける。
「アーヴィン。どうしたの、今日は面談の日じゃないよ?」
君はここまで酷い目にあってもまだ、僕に笑顔をくれるのか。
そうだ、マリアが僕に嫌悪感を抱くなんて、なんてことを考えていたんだ。彼女はこういう子じゃないか。
喉の奥から熱いものがこみあげてくる。そして、咄嗟に胸を突いて言葉が出る。
「・・・今夜は、月が綺麗だね。まるでそのまま君が連れていかれそうだったよ。」
「えー、なにそれ。」
何故か少し頬を赤らめ、くす、と笑うマリア。
本当になんだろう。僕はなにを口走っているんだ。
「このまま、二人で他に誰もいないところへ、行きたいな、なんて。考えていたんだ。」
変わらぬその笑みに、安堵した心から溢れる言葉が止まらない。
「・・・どうしたの?疲れちゃったのかな。おいで、よしよししてあげるから。」
ほら、と広げられた両腕に、思わず身を預けたくなる。
――僕は何を考えているんだ。傷つけた相手に、傷つけたことで傷ついた僕の傷を癒してもらうのか。
自分の醜さに吐き気がする。
そうだ、と思い出したようにポケットに入れておいたネックレスをマリアに手渡す。
スワロフスキーのクリスタル・ネックレスだ。新たな実験を受け入れてもらうために、少しでも印象を良くしようと打算的に手配したものだった。だが、今は純粋に彼女の笑顔が見たかった。
「プレゼントだよ、マリア。今日は、君が研究所にきてから1年目だろう。」
「え、いいの?・・・嬉しい・・・。」
慈しむように、クリスタルを眺めるマリア。その瞳はきらきらと、輝いている。
「ありがとう。大切にするね。」
『・・・マリア、僕と一緒に研究所を出ないか。二人でどこか遠くへ、逃げよう。』
そんな言葉が脳裏を逡巡する。だが、それを口にすることができない。
そして、束の間、黙り込んでしまった後―――マリアが口を開いた。
「次の実験のお話、聞かせてくれる?」
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