第4話「教育とは、自惚れた無知から惨めな曖昧さへの道である」

2000年3月27日


施術は、アーヴィン自身が行う予定だった。だが、直前にその成功率の高さを聞きつけた第一研究室の大場教授が、彼に代わって施術した。大場教授は「自らの研究室の一研究員が、自分を差し置いて成果を挙げること」を嫌ったのだ。


当然の如くアーヴィンは怒った。

だが、彼にとってこの研究所内で教授に歯向かうことは天に唾吐くことに等しい。


彼の価値基準において、それは許されざることだった。


彼のもとに手術終了の知らせが届いたのは、彼のすべての指から爪が半分ほど噛み千切ってからだった。

報せを聞くや否や、手術後のマリアが休んでいるであろう病室へ脱兎の如く駆けだす。

そうして相対した彼女は、ベッドの上でいつも通りの笑顔を見せた。


「そんなに慌ててどうしたの、アーヴィン。」

「マ、マリア・・・。調子は、どうだい。すまない、急な、用事で。手術に、参加できなかっ・・・た・・・。」

「大丈夫だよ。少し怖かったけど、アーヴィンががんばってくれた成果だって思ったら大丈夫だった!」


にこにこ微笑みながら、胸部中心の手術跡を慈しむようにさするマリア。

その仕草に胸が張り裂けそうになる。


「よしよし」

ふと、マリアがアーヴィンの黒髪を撫でる。

よほど思いつめた顔をしてしまっていたのだろう。

マリアの顔から笑みは消え、不安を隠し切れない様子となっていた。


そして、彼女の手が――ほんの僅かではあるが――震えていることに気付く。


きっと、本当は怖かったのだろう。彼女はその恐怖を隠し、僕を包み込んだ。

なんて、尊い。それに比べて僕は。保身のことしか考えていなかったのは、自分もじゃないか。


済まない、済まないと、子供のように泣き出してしまう。

子供のように嗚咽しながら泣きじゃくるアーヴィンが泣き疲れて眠りに落ちるまで、マリアはその髪を撫で続けていた。


---


2000年4月10日


二週間後。マリアの能力発動実験は、研究所の中で最も耐衝撃性の高い実験室で行われた。


「定刻だ。『AG細胞の発動実験』を始める!」

まるで我が物のように実験開始を告げる大場教授。

何も知らない人間からすれば、彼がこの研究の責任者だと勘違いするだろう。


――僕の、いや、マリアと僕の、僕たちの研究なのに。

掌に食い込む爪の痛みに気付きながらも、アーヴィンは拳を握りしめる力を緩めることはできない。


「ではマリアくん。早速だが自分の腕が一本増えたことを想像してくれたまえ。増える場所はどこでもいい。肩でも腰でも、もちろん尻でもな。」

カカカ、と嫌味な笑い声を上げる大場。周りの研究員たちも合わせて笑う。


――こんな、こんな人間たちの視界に、マリアを入れたくない。

余りの憎らしさに視界がチカチカする。奥歯の軋む音が聞こえる。


「マリアくん、どうして動かないのかね。お手洗いは先に済ませておけ、と言ったではないか。」

信念の隙間を縫って大場の軽口が脳に割り込み、広がる。


――マリア、なぜずっと黙っているのだろうか。君はいまどんな表情をしているのだろうか。

彼女への汚辱に瞳から涙が零れ落ちそうになった、その瞬間。


「待ってよ。」

マリアの声が実験室に響く。

顔を上げたアーヴィンが見たのは、想像したどれとも違うマリアの凛とした表情だった。


「どうして、あなたが実験を取り仕切ってるの。」

「やめたまえ。君はこの方がどなたか知っているのか。アーヴィンよりもはるかに経験の多い、第一研究室の大場教授だ。失礼な口を利くんじゃない。」と、研究員のひとりが諌める。


「君は勘違いしているようだが――。ここは遊び場ではない、研究所だ。教授である私が責任をもって実験するのが、アーヴィン君の望む結果に繋がるのだよ。」

「だけど、これはアーヴィンががんばってきた研究だよね。だったら、アーヴィンが仕切るべきだと思うんだ。だから――」

「あぁ、いい。いい。では、当の本人に聞いてみようではないか。アーヴィン、これは君が望んだことだと言ってやりなさい。」

研究員たちと、マリアの視線が、アーヴィンに集まる。


アーヴィンは、葛藤する。


僕にとって、大切なものはなんだ。

ここで大場に歯向かえば、顔を潰された彼は彼の全権限を以って僕の権限を剥奪するだろう。そうすれば、研究の成功など夢のまた夢だ。だが、また僕は保身に走るのか。僕を庇ったマリアの気持ちはどうなる。


・・・いや。僕は何を考えているんだ。所詮彼女は、ただの被験者だ。それなのに、いつの間にか情にほだされ、被験者に執着し、あまつさえ教授に逆らって所内での立場さえ失おうとしている。


すぅ、と、思考が冷めていくのを感じる。

「ええ、おっしゃる通りです。大場教授。これは僕の望んだことです。」

自分でも驚くほど、すんなりと言葉が流れ出た。


「アー…ヴィン…。どうして…。」

かつて聞いたことがないほど、悲痛な声を漏らすマリア。


「聞いただろう、マリアくん。これが彼の答えだよ。」

「まさか彼が、『君の言う通りだ。僕がこの実験を取り仕切る。』などのたまうと考えていたのかね。色恋沙汰に頭を染めすぎではないか?」

はははは、と嘲笑する研究員たち。

マリアは俯き、凍ったように動かない。


さて、と大場が空気を締め直す。

「そんな反抗的な態度を取る被験者のために、こんな仕組みを導入したのだよ。」

言い終わるや否や、手に持っていた4つほどボタンがついた機械――何かのリモコンのような――のボタンを押す大場。


次の瞬間、マリアの首輪から「バチン!」という破裂音を伴った電流が迸る。

「あ゛ッ……!!」


声にならない悲鳴を上げるマリア。

よほど強力な電流だったのだろう、その体が一瞬中から浮いたように見えるほど、体全体を跳ね上げる。


「この所内で、たかだか被験者ごときが、この僕に、逆らうなんて。」

何度も何度も、繰り返しボタンを押す大場。マリアは天を仰いだままその体を幾度も跳ね上げられ、倒れることすらできない。


「君の、躾が、不十分なのでは、ないのかね!」

大場は鬼の如き形相で言葉を言い終わるや否や、手元の機械をアーヴィンの顔目がけて投げつけた。

――と、次の瞬間。


「アーヴィン!」

マリアの声が響き、視界が白く染め上げられるほど、眩い光に包まれた。


眩んだ目が視力を取り戻したアーヴィンが目を開くと、厚さ20cmはあろうかという強化ガラスが『直径200cm大の正円を空けられて』いた。その部分だけ分解されたような削られ方だ。


そして、まるでアーヴィンを守るかのように、彼に覆いかぶさった状態でマリアが気を失っていた。

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