第3話「真実が靴を履いている間に、嘘は世界を半周する」

 アーヴィンにとって、この半年間の面談は刺激的な毎日だった。同年代の女子と話をすることすら珍しかったし、ましてや二人きりになることなんてほとんどなかった。


マリアは、花を見ればきれいだと言い、目に入るものであれば小さな虫まで慈しみ、誰に対しても分け隔てなく無償の愛情を振りまく。


綺麗だとか大切だとか、そんな感情はなんの利益にもならない。最初はそう斜に構えていた彼も、嬉しいときは屈託なく笑い、悲しいときは涙を見せる彼女に徐々に惹かれていた。


いつも面談室に籠りきりでは退屈だろうと、アーヴィンの権限で街に降りて高級フレンチをマリアにふるまった時は、ガチガチに緊張してナイフを7回も落とした彼女を見て腸捻転になるのではというほど声を上げて笑った。

研究所の設備をこっそりと拝借して自作のプラネタリウムを見せた時は、頬を紅潮させて目をきらきらと輝かせる彼女の横顔から目を離せなかった。

研究のためという名目でマリアの故郷の花を取り寄せた時は、面談の時間を待ち詫びてしまい時間を前倒ししたほどだ。


すべては実験の成功のために必要なことだ、と彼は彼自身の振る舞いに疑問を持っていなかった。


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2000年2月7日


「やぁアーヴィン。あれから子守はどんな調子だい。」

 いつも通り書類管理室を訪れたアーヴィンをからかうように迎えたのは、書類管理官の加賀だ。その表情には「浮いた話のひとつでも寄越せ」と書いてある。


「マリアのことか。もう半年近く交流しているが、純真無垢が服を着て歩いているのかと錯覚しそうだよ。よくあの純粋さを残したまま18年も生きてきたものだ。」

「いくら18だって言っても、あの子も女だよ。異性の前で悪いところは見せたくないもんさ。」と、加賀。


「特にアーヴィン君は同年代の異性なんか交流がないですからね。コロッと騙されてるのかもよ。猫の皮のかぶりものにね。」

加賀は両手を頭の上で立たせ、猫耳を模してニャンニャンと鳴いてみせる。


「おいおい。被験者に情が湧いたとでも言いたいのかい。」

「いや、若者らしい顔をするようになったなと。嬉しいのさ。」


 加賀の知る彼は、少なくともこんな優しい顔は見せる人間でなかった。国のためと呪文のように唱え続けて、普通の青春を送りたかった自分を誤魔化し続けるような。そんな不器用な人間だったはずだ。


彼を変えたのは間違いなくマリアだろう、と加賀は考える。被験者として研究所に招かれてから半年しか経っていないにもかかわらず、既に職員の殆どと顔見知りになっており、その愛想の良さから評判は高い。


彼女に対する印象は、もちろん"猫の皮を被った女"ではない。”自然体で聖母のようなホスピタリティを持つ少女”だった。

彼女は幼少期を孤児院で過ごし、自分より幼い子たちを保護する立ち位置にあった――と、盗み見た報告書に書いていた―――らしい。両親と早くに死別したアーヴィンには彼女から受ける愛情は初めて感じる感覚のはずだ。


 そもそも僕は、とご高説を語り始めた彼の発言を遮り、思い出したように加賀が口を開く。

「・・・そういえば、この間の爆発事故。例の『特殊細胞』絡みでしょう。」

アーヴィンの表情が少し曇る。

「書類管理官様は耳が早いね。あれは第三研究室の洞口教授の失敗だよ。うちが提供したサンプルをベースに増殖力の高い細胞へと改造し、自律増殖型の兵士を量産しようとした結果さ。」

「あちゃー。『三研』、まずいもの作っちゃったね。いつかパンデミックでも起こしそうだ。」

洞口教授は手柄を急ぐからなあ、と加賀。


「ただ、規律を慮らないならば、『自己増殖を繰り返して自立行動のできる兵士』となる。このままだと正式採用はあちらの方が速いかもね。」

「だからこそ、マリアちゃんをそろそろ実戦投入した方がいいんじゃニャいの?」


もちろん、アーヴィンが心の底で彼女を実験に巻き込むことを拒み始めていることはわかっていた。

だが、それは等しく彼の価値基準の大半を占めているもの――実験の成果――に対してネガティブな影響を与えることにも繋がる。

ここで彼女を本格的に実験に組み込むことを打診すれば、彼はどんな反応をするのだろう。


一瞬驚いたように目を見開いたアーヴィンは、隠すように表情を戻し、自分に言い聞かせるように呟く。

「そうだな・・・。第六研究室の高岡教授は『欲望』をベースにした実験を始めている。このままでは『一研』の立場も危ういか。うん、やむをえない。頃合いだな。今日話してくることにするよ。」

苦虫でも噛み潰したような難しい顔をしたまま、部屋を去るアーヴィン。


 一人になった加賀は、その言葉が彼の耳に入っていないことを承知の上、呟く。

「気付いてる?あんた、『やむをえない』って言ったんだ。被験者に抱いちゃいけない感情だよ。」


「普段あんたたちがどんな会話をしてるか聞いてみたいね。」


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2000年2月7日


 アーヴィンとマリアの面談が行われている部屋。丸テーブルを挟んで椅子が二つ。周りはガラス張りの壁に囲まれており、その中には細胞分裂速度の研究のために世界各国から取り寄せられた花々が植栽されている。半年前までは研究目的のための部屋だったが、アーヴィンに連れられたマリアがいたく気に入って以来、実質二人専用の面談室となっていた。


「私ずっとこんなことしてて大丈夫なの?」

机に突っ伏し、椅子からぶら下がった両脚をブラブラさせながらマリアが口を尖らせている。


「はは、確かにそう感じるのは無理もない。何も知らない人から見れば、君は毎日僕と駄弁ってご飯を食べて、温かいベッドで眠っているだけの、無職だ。」と、アーヴィン。

「だってだって、そうしろってみんなが言うから──」


駄々を捏ねだした彼女を、人差し指を立てた右手で制したアーヴィンは言葉を続ける。

「それも、今日で終わりだ。君は『新型』の実験に適していると判断できた。今日から『特殊細胞』の浄化プロジェクトに参画してもらう。」

「とくしゅさいぼう」確認するように返すマリア。


「この用いた実験に成功すれば、例えば傷口の超回復や、人の暮らしを豊かにするための力が、人々の手に入る。」

「『特殊細胞』の話は軽く話したと思うけど、今回はその中でも人体に害のないものを選りすぐったものを用いる。この被験者として、君に協力してほしい。」


その言葉に偽りはなかった。

実験の成功のためだけでなく、アーヴィンにとってマリアが悪意に呑まれる姿は見たくなかったし、彼女の身に危害が及ぶことは避けたかった。


そのために、マリア専用に改造した悪意の少ない特殊細胞『AG細胞』を開発した。

従来の術式である脊椎への適用でなく、胸部に対して行う新術式を提唱した。

マリアが異を唱えた場合、それらのリスク回避策をひとつひとつ説明するつもりだった。だが。


「大丈夫だよ。」と、マリアは間髪入れず答える。

「・・・怖くないのかい。」

「自分の体が変わっちゃうかもしれないのは怖いけど・・・、アーヴィンがついてるんでしょう。きっと大丈夫だよ!」


いつもと同じ屈託のない笑顔に、アーヴィンは胸を痛める。

同時に、脳裏を過(よぎ)る、同士でもあるがライバルでもある教授の面々。

そして、パトロンである老人たちの顔。


ここで止まるわけにはいかないんだ。仕方がない。と、自らに言い聞かせるように逡巡した後、いつも通り口角を吊り上げてマリアに微笑みかける。


「では、よろしく頼むよ。」

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