もう一度だけ話せたら、本当のことを言って欲しい

岩月すみか

call 1. いなくなった母さんへ (全14話)

1人目 花井霧香 (1)

 棺の中は空だった。


 坊主のお経が響く小さな葬儀場で花だけが敷かれた、遺体のない棺桶を霧香きりかは飽きもせずじっと見つめていた。

 

 今日、母の葬儀が終わった。

 自宅へ戻っても喪服から着替えることはせず、花井霧香はないきりかは仏壇の前でぼんやりとしていた。せめて家族葬だけでも、と娘の提案を受けて勢いのままに始めてしまった母の葬儀はあっけなかった。自宅にある唯一の和室では、先程火を消したばかりの焼香が仏壇の上で白い煙をあげている。


 煙の向こう側には霧香の母親の遺影が飾られていた。もっとも母の遺影なんて誰も用意していなかったから急ごしらえで見繕った古い写真を引き伸ばして無理やり遺影としただけだ。仏壇に飾られているのは遺影の他に、普段は買わない高級なフルーツが二、三点。

 母がそれらのフルーツを好んでいたかどうかさえ定かではない。そもそもあの人に好きなものなんてあったのだろうかと霧香は思う。あの人は実の娘である霧香すら捨てて勝手にいなくなって勝手に死んだ。この世にあの人が少しでも好きだと思うものが残されていたなら、失踪したままそれきりなんてことにはならなかったのではないか。


 椿恵美つばきえみ

 霧香の旧姓でもある椿という苗字を持つその人は七年前に失踪したきり、ついに帰ってこなかった。

 家族が突然いなくなるとやらなければならない手続きがいくつかある。そのうちの一つとして、裁判所に失踪宣告の申し立てをするというものがある。母がいなくなってすぐに申し立てをした時、裁判所で霧香は次のような説明を受けた。


「お母様が失踪されてから七年が経ちますと、お母様は亡くなられたものとして戸籍上では扱われることになります」


 厚い眼鏡をかけ糊の効いたワイシャツに身を包んだ職員は、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をした。あの時、自分はそんなことなんてことないとばかりに、


「はい、承知しております」


なんて言ったものだ。

 今になって,自分は一体あの時何を承知していたのだろうと疑問に思う。母が失踪して七年が絶った今、死亡届の提出を終え、形だけの葬儀を済ませたというのにまだ母が死んだことを霧香は承知できずにいる。


 失踪して法律上死んだことになった母の葬儀には遺体も骨壷もなかった。あるのは急拵えの遺影だけ。

霧香は自宅の仏壇の前で母の遺影を見つめたまま数十分、意味もなく手の中にある数珠を擦り合わせていた。


「……本当にもう死んだのかしら」


 ジャラジャラと数珠が擦れる音に混じって問うてみるも、遺影から返されるのは凍りついた笑顔ばかりで何もない。

 葬儀を終えた今になっても、霧香は母が死んだのだという実感を持てないでいた。


 リビングへ行くと娘の真綾まあやが喪服のままソファに転がっていた。何やら熱心に携帯電話を覗き込んでいる。喪服を脱いでから寛ごうという発想はなかったようだ。霧香とていまだに着替えていないのだから人のことを言えた義理ではない。が、相手が娘となるとつい注意をしたくなるのが親の性というものだ。


「まぁちゃん、着替えてからにしなよ」

「お母さんはさ」


 携帯電話を激しくタップしながら真綾が言った。アプリでもしているのだろうか。


「もう一回、おばあちゃんと話したい?」

「え?」


 言ってすぐ、ああ、もしもの話かと思い直す。大学生になり、ずいぶん大人になったものだと思っていたがやはりまだまだ子どもだ。

 死者と話すなんてもしもの話を大学生の娘にふられるなんてと思いながら、霧香はキッチンへ向かった。よく蒸した茶器に茶葉を数杯入れる。それから水を入れた薬缶にコンロの火をくべてから、娘に尋ねられたことをなんとなく考えてみた。


「そうね、話せるなら話したいかな」

「ふうん、そっか。じゃあ頑張るわ」


 またも携帯電話の画面から目を逸らすことなく一心不乱にタップを続ける真綾は呟いた。頑張るって何を? と尋ねたものの、それ以上は答えてもらえない。


 真綾はたまに不思議なことを言う。遺体もないのに葬儀をしても、と二の足を踏んだ自分に


「でもわたし、ちゃんとおばあちゃんが死んだんだっていう区切りが欲しい。おばあちゃんが死んだのに遺体がないからって何にもなしは嫌」


とはっきり言ったのも彼女である。そう言われた時、霧香は少しだけ嬉しかった。遺体もない、消息もわからない母のことを気にかけてくれる存在が自分の他にもいるということにホッとした。


 遺体がなくとも葬儀はすべきという娘は頼もしく見えたのに、もしも死んだ母と話せるならなんて尋ねてくる彼女は幼く見えた。親からしたら、いくつになっても子どもは子どものままなのかもしれない。


 あの人はどうだったのだろうと、茶葉に薬缶の湯を注ぎながら考える。霧香が真綾を我が子、と思うのと同じように自分を我が子として大切に思っていたのだろうか。


 ひとしきり考えた後、バカげた空想だと、霧香は沸いた疑問をお茶と一緒に飲み干した。真綾が妙なことを言うからつい引きずられてしまった。

 きっと日が経てば、もう母に疑問を投げかけることも話をすることさえもできないのだと思い知るだろう。その日が来るまで自分はぼんやり茶でも飲んでいればいいのだ。もともと母と自分とはそれほど折り合いの良い親子ではなかったのだから。


 ところが、何日経とうが母が死んだのだという実感はいつまで経っても霧香の中には湧いてこなかった。それどころか日に日に本当は母は生きているのではないか、死亡届を出してしまったが母がまだ生きていたらあの届けはどうしたらいいのだろうか、と考えるようになった。


 自分でもおかしいとは思う。失踪してから七年も経った母が生きているはずがない。財布と鍵だけは母の家から無くなっていたが、通帳はそのままになっていた。きっと失踪間際、母が持ち出したのだろう。それにしたって薄い財布の中身は七年という月日を支えるにはあまりに心許ない。


 いやでも、もしかしたら。

 だがしかし、そんなはずは。


 遺体のない葬儀を終えて数週間後。

 霧香は自分の心の揺らぎを誰にも打ち明けることなく、夕飯の支度をしていた。すると、ネギを刻む音に混じってバタバタと慌ただしい音がした。


 リビングの扉から真綾が姿を現した。息を切らし頬を紅潮させた真綾は半ば叫ぶようにネギを刻む霧香へ向けて言った。


「見つかった! これでおばあちゃんと喋れる!」

「……はぁ?」


 うるさいなと怪訝な顔をしてみせるも真綾は構わずどすどすと足音荒く近づくと霧香に向けてずいっと携帯電話の画面を見せた。そこには、


『亡くなられた方ともう一度お話ししたい方。ご依頼承ります。

 ただし、死因は自死に限ります。

TEL. ×××× - ×× - ××××』


と記載されていた。

 霧香は訳がわからずネギ臭い手で携帯電話を受け取ると画面を見つめたまま唖然とした。

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