第8章 お嬢様と使用人編
第63話 天の星と青い羽搏き
影人は家族のもとに戻った。
私が命じた通りに。
影人が使っていた使用人の部屋を覗いてみると、彼がそこにいた痕跡は何もなくなっていた。霧のように、何も残すことなく消えてしまった。元々、あまり物を持つような人でもなかったから当然かもしれない。
「…………」
何もない空っぽの部屋。そこにいたはずの人が、いない部屋。
「べ、別に? ただちょっと、離れるだけよ。一生会えなくなるわけじゃないんだし……」
なんて、言いながら。
既に何度も何度も、こうして影人の使っていた部屋を覗いている。
我ながら未練がましい。
学園でも上手く話せていない。このままだと海外に行ってしまうのに。
顔を合わせると、何を話せばいいのか分からなくなる。
影人の顔を、真っすぐに見れなくなってしまう。
喧嘩したわけでも、喧嘩しているわけでもないのに。
「お嬢様。そろそろお時間です」
「……ええ。今、行くわ」
いつもなら私についているのは影人だけれど、今では及川がその後任に収まった。
彼女も優秀だ。生活するにあたって、不便はない。
世の中はきっとそんなものだ。誰かがいなくなっても、代わりに誰かが収まる。
「この後の予定は、何だったかしら」
「旦那様の名代として、会食に参加していただくご予定です」
「ああ……そういえば、そうだったわね」
お父様もお母様も仕事で忙しい。
だからたまに、私がこうして会食に出たりすることもある。
今回みたいな突発的に組まれた会食だと、特に私の出番が多い。
いつもなら面倒だし家にこもって資料を読み漁るか研究開発を進めていたいと駄々をこねているところだけど、今はそんな気にもなれない。
及川と共に車に乗って、先方の指定したお店へと向かう。
奇しくもそこは、先日海羽と利用した個室スペース付きの料亭だった。
わざわざ貸し切りにして電波妨害までかましてきたのは記憶に新しい。
最近、訪れたばかりの見知った場所なので気分としては多少、楽だ。
勿論、先方はそんな事情を知る由もないでしょうけれど……。
(……そういえば。私、まだ先方の資料を受け取ってなかったわね)
いつもなら影人が会食相手の資料を渡してくれる。
影人が任務で家にいない時は、別の者が資料を持ってきてくれるはずだ。
だけど私は今回、会食相手の情報をもらった覚えがない。
(及川のミスかしら? まあ……たまには、そういうこともあるわよね)
正直、今の私は誰かのミスを指摘できるような状態でもないし。
体調不良などで突発的に事前資料にない参加者が増えることは珍しくもない。
先方が誰であろうと、ある程度は対処できる自信がある。
「……?」
ふと。社内の窓から見る周りの景色に、違和感を覚えた。
前に海羽の指定した料亭までの道順も景色も記憶している。
だけど今、車が走っている場所は前回までの道順とは違う。
スマホで軽く検索をかけてみたけれど、通行止めや渋滞といった情報は入っていない。料亭までの近道というわけでもない。
明らかに。意図的に。目的地とは異なる道を走っている。
「及川。どこに向かっているの?」
「事前にお約束していた場所です」
「とぼけないで。別の場所へと向かっていることぐらい解ってるのよ」
「いいえ。予定通りですよ」
つまり。私に伝えていた目的地は、最初からフェイクだったというわけだ。
この場合、天堂家の一人娘としては裏切りも視野に入るだろうけれど、私の勘が『違う』と告げている。自慢じゃないけれど、この手の勘は外したことがない。
及川の声も穏やかだし、物騒なことじゃない……と、思いたい。
「ご不安にさせてしまいましたか」
「……まあ。そうね」
「お嬢様にしては、弱気な返事ですねぇ。いつもならそこは『は? 不安? この私が?』とか言うところでしょうに」
「うーわ、むっかつくその声真似。零点よ」
「あはっ。きびしー」
ちょっとくだけたところがあるのも、いつもの及川だ。
洗脳の類を受けているわけでもなさそう。
「ご不安にさせてしまい、申し訳ありません。確かに事前に伝えていた目的地とは違いますが、ヘンなところに行こうってわけじゃありませんから。……ここに影人がいれば、お嬢様を安心させられたんですけどね」
「…………」
痛いところを突いてくる。
確かに……傍に影人がいたのなら、私はきっと欠片ほどの不安を抱かずに済んだのだろう。
「あなたを信用してないわけじゃないわ。ただ……私は……」
「分かってますよ」
労わるように、及川は私の言葉を敢えて遮った。
「分かってますから。そんな顔しないでくださいよ」
「そんな顔って……」
「ここ最近のお嬢様、ひっどい顔してますよ」
「あなたねぇ。仮にもご主人様に向かって『ひっどい顔』はどうなの?」
「だって実際にひっどい顔なんですもん」
自覚はあるけど。というか、他の人にも言われたし。
「使用人のみーんな心配してます。中には仕事が手につかなくなってる人だっているんですから」
「それは大袈裟じゃない?」
「大袈裟じゃありませんよ。お嬢様はみんなから慕われてますから。それに、ご主人様がくらーい顔をしていると、犬っころは心を乱されちゃうもんなんです」
「犬っころなら、勝手に散歩コースを外れないで欲しいわね」
「そこはほら、駄犬ってことで」
「自分で言う?」
そもそも本当にただの駄犬だったら、私の傍に置かれるはずがない。
だからまあ、こうして及川が動いてるということは、何かしら意図や目的があるということで。
「まあ、いつもとは違う散歩コースを楽しんでくださいよ。心をかき乱された駄犬のね」
「……仕方がないから、付き合ってあげるわ。飼い主としてね」
諦めたように、窓の外をぼんやりと眺める。
過ぎ去って移り変わる景色の内側。窓ガラスに映る自分の顔は。
(確かに……『ひっどい』かも)
窓ガラスには、私は不幸ですみたいな面をした、気に食わない女が映っていた。
迷いと後悔に揺れるような、天堂星音とは似ても似つかない自分の顔が。
「お嬢様。見たい配信あるんですけど、いいですか?」
「職務中とは思えない人の発言ね。まあ、いいけど」
「ありがとーございます」
送迎車に備え付けているタブレットに手を伸ばした及川は、配信サイトを開く。
どうやら同時配信を行っている音楽系の特番らしい。
及川にしては珍しい気がする。どちらかというと彼女が好んで見るのは格闘技の試合や、格闘選手のドキュメンタリーだし。
「……見るならイヤホンぐらいつけなさいよ」
「いいじゃないですか。一緒に見ましょうよ」
音量のボリュームを気持ち高めにしているタブレットから、司会者が場を盛り上げつつ、番組に出演するアーティストを紹介していた。
『それでは、ここでスペシャルゲストをお呼びしましょう!』
観客の注意を意識した完璧な間の取り方。
司会者のベテランの技で彩られた前振りを以て、そのスペシャルゲストなる人物が会場に現れる。
『――――羽搏乙葉さんです!』
「…………え?」
窓ガラスから視線が外れ、及川の手元のタブレットに吸い寄せられた。
リアルタイムで同時配信しているその特番には、確かに、私のよく知る友人の姿が映っている。
これまで活動休止していたはずの歌姫が姿を現したことで、配信のコメント欄もお祭り状態だ。
『……皆さん、こんにちは。羽搏乙葉です。これまで突然の活動休止でご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません』
淡々と言葉を紡ぐ乙葉。わたしの知っている乙葉とは、雰囲気が違う。アーティストとしての彼女が、そこにいた。
『本日はこの場を借りて、皆様にご報告させていただきたいことがございます』
乙葉は息を整え。静謐な決意を滲ませながら、真っすぐに前を見据える。
『……わたし、羽搏乙葉は、本日より活動を再開することになりました』
その宣言にコメント欄の勢いが跳ね上がる。
特番会場の観客だけでなく、共演者のアーティストたちまでもが声を上げて興奮を露わにしていた。
「どうして……」
乙葉の活動再開時期については、耳に入ってきていた。
本来の活動再開予定はもう少し先だったはず。
それがどうして、急に……。
『今日はこの場で、新曲を披露させていただきたいと思います』
乙葉の宣言に、会場やコメント欄の熱気が更に高まる。
世界的に有名なアーティスト、『歌姫』・羽搏乙葉の新曲。
一切の誇張抜きで、世界の誰もが待ち望んでいたものだ。
『曲名は――――「天の星と青い羽搏き」』
その、タイトルに。
いつか三人で夜に語り合った時間を、思い出す。
――――別に一番歌が上手い人がセンターじゃなきゃいけないなんて決まりはないでしょ。ちなみにグループ名は『天堂星音と愉快な泥棒猫たち』ね。
――――『ブルーフェザー』は、いかがでしょう。
――――……思ったよりそれっぽいのが出てきた。
――――直訳すると……青い羽ってところかしら?
――――青ブルーは海をイメージしていますのよ。
この曲名の意味を理解できるのは、あの時、あの場にいた私たち三人だけ。
これは……乙葉からのメッセージだ。
世界に対して向けたものじゃない。
世界中の、乙葉の曲を待ち望んでいた人に向けたものじゃない。
たった二人だけに向けた、メッセージ。
……ううん。今だけは、きっと。
私に向けた、メッセージだ。
☆
ステージの上から、わたしの歌を聴きに来た人たちの視線を、眼差しを、一身に浴びて受け止める存在だった。
みんな羽搏乙葉という存在を、たった一つの星のように眺めている。
わたしも誰かを見上げたことがある。お母さんだ。
お母さんみたいな魔法の歌を、わたしも歌えるようになりたい。
そう思いながら、わたしはこれまでシンガーとして活動していた。
でも――――死んでしまった人には届かない。
絶対に届くはずのない、この世に存在しない星を見上げてばかりだった。
なんとなくだけど。わたしはもう、生きている間は誰かを見上げることはないのかもしれないと感じていた。
尊敬するシンガーもアーティストもいるし、わたしより実力があると認められる人もいる。だけど、わたしは彼ら彼女らを追い越せないと思ったことはない。
どれだけ素晴らしいトップアーティストでも、手が届かない星だと感じたことは、一度もない。
わたしが見上げる星はもう、この世界にはなくて。
この世界に存在する星は、わたし独りだけで。
真っ暗な闇の中に浮かんで、ふわふわと当てもなく彷徨うだけの、冷たい気持ちになった。
今なら分かる。これが寂しいという気持ちなんだって。
寂しいと理解できたのは、あの二人がいたからだ。
影人。そして――――天堂星音。
誰も届かない、独りぼっちだと思っていた宇宙の中で輝く星。
真正面から競える相手。わたしと同じ場所で輝く人。
わたしの、友達。
星音がいたから、わたしは独りだということを自覚した。
寂しいという気持ちを知ることが出来た。
負けたくないっていう気持ちを、初めて抱いた。
いつも堂々として、自分の感情を惜しげもなくぶつけられる星音のことを、羨ましく思った。
同じ場所にいると思っていた星は、いつしか見上げるものになっていた。
はじめてだった。
対等な友達も。お母さん以外の、憧れも。
そのはじめての感覚に、甘えていたんだと思う。
甘い綿菓子みたいな宇宙に溺れて、揺蕩っていたんだと思う。
見上げることに甘んじて、星音を一人にしてしまっていた。
たった独りで、真っ暗な闇に浮かぶ寂しさを、わたしは知っているはずなのに。
――――……わたし、星音のことが羨ましかった。
――――自分の感情を、惜しげもなく相手にぶつけられる星音が……キラキラ輝いて見えてた。空に輝く星みたいに。
――――
悲しい。それだけで、終わらせてはいけなかった。
きっと、あの時、わたしは部屋から出て行くべきじゃなかった。
もっとちゃんと星音の心に踏み込むべきだった。
わたしは、踏み込まなくちゃいけなかった。
そうしなかったのは、壊れることを恐れたから。
はじめて出来た遠慮のない友達。
同じ場所で輝く星に、亀裂を入れたくなかったから。
壊れて、砕けて、失ってしまうのが、嫌だったから。
失ってしまうぐらいなら、星の光がくすんでしまってもいいと……思って、しまった。
自分のそんな弱さに気付いたのは、学園の中で俯いている星音を見てから。
お互いに言葉も交わせずにいる星音と影人を見てから。
(……わたしは。いつも、そう)
後になって気づいてばかり。
気づくことが遅くなってばかり。
わたしの中にある自分の気持ちにすら、後になって気づいて。
(でも……まだ、間に合う。間に合わせてみせる)
自分の気持ちを友達に届けるために。
わたしは、わたしが持つ一番の武器を使う。
なりふり構わない。どんな手を使ってでも、自分の気持ちを押し通す。
そのための意志を、わたしは近くで見てきたから。
(……星音。歌に込めるね)
わたしは魔法使いになりたかった。
お母さんみたいな、魔法使いに。
お父さんを歌で笑顔にできる魔法使いに。
(わたしの気持ち……わたしの叫び……全部を、歌に込める)
そして、わたしはその夢をもう叶えている。
――――俺からすれば、乙葉さんは魔法使いですよ。
叶えていると、気づかせてくれた人がいる。
(……だって、わたしは魔法使い。私の歌は、人の心を動かす魔法の歌だから)
届け。
見上げた先に独りで浮かぶ、あの孤独な星に。
もう独りにしない。見上げない。
友達のいる場所に、わたしは行く。
(……だから。俯く
言葉よりも深く、突き刺してみせる。
(……わたしならできる。そうでしょ? 影人)
だから、届け。
(……星音。寂しいなら、寂しいって、言って)
届け。
(……もっとワガママになって。自分の気持ちにを殺さないで)
届け……!
(……影人に戻ってきてほしいって、言って!)
☆
言葉よりも深く突き刺さる。叫びよりも強烈に心を抉る。
こんなの反則だ。世界的なアーティストが、たった一個人に向けて歌に込めたメッセージを発している。
世界を虜にする歌を、一個人に先鋭化させて、深々と突き刺してくる。
防ぎようがない。嫌でも、分からせられる。
タブレットを取り上げて電源を消してしまえばそれで済むのに。
そうすることが出来ない。それだけの力が、乙葉の歌にはあった。
結局、乙葉が歌いきるまで、わたしは彼女の歌を聴いていた。
「……及川。いつの間に乙葉とグルになってたの?」
「人聞き悪いこと言わないでくださいよ。それに、グルになってたのは、あたしだけじゃありませんしねぇ」
タイミングを見計らったように、スマホに着信音。
表示されていた名前は、乙葉の新曲。その曲名の意味と、さっきの歌に込められていた意味を理解できる、私以外の唯一の人物だ。
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