第62話 親友の言葉
海外転勤まで、俺は朝実家で暮らすことが決まって――――引っ越しはスムーズに行われた。引っ越しといっても、元々俺の部屋には物が少なかったので、特に業者を呼ぶ必要もなかったし。
ここ最近はあまり顔を合わせてくれなかったお嬢だけれど、引っ越しの当日には見送りに来てくれた。
「……じゃあ。元気でね」
「……はい。元気に、します」
お世話になりました、とは言えなかった。
さよなら、という言葉が口からは出なかった。
お嬢も元気で、とすら口に出来なかった。
もしかしたら向こうには失礼に映ったかもしれないけれど、お別れの言葉だけは言いたくなかった。
普段の任務とは違う。使用人ではなくなって、お嬢の傍を離れることすら、耐えがたいというのに。
お別れの言葉まで口にしたくは無かった。
(これは……天罰、なのかもな)
お嬢から家族のもとに戻れと命じられた時、ショックじゃなかったといえば嘘になる。
俺はお嬢から捨てられてしまったのかと。
お嬢はもう、俺のことが要らないのかと。
お嬢はもう、傍には居てくれないのかと。
でも俺に傷つく権利なんてない。
あの時の俺は、迷っていた。このまま記憶が戻っていないように振舞って、真っ白な自分としてやり直すことを。
今度こそ普通の夜霧影人になって、お嬢との出会いをやり直す。
お嬢を利用していたことも全て忘れたまま、胸を張って彼女の傍に居る。
そんな、浅ましい考えに揺れていた。
(バカだな……自分から離れようとしていたくせに……実際、離れなさいと言われて、ショックを受けるなんて……)
お嬢を騙し続けようとしていた。
そんな俺に、ショックを受ける権利なんて、ないんだ。
……今になっても記憶が戻ったことを打ち明けられていないから、騙していることに変わりはないか。
(まあ、別に……もう二度と会えなくなるわけじゃないし……)
実際、引っ越しをしてからも学園に行けば普通に会えた。
別々の家から学園に通って。教室に入って挨拶をして。他愛ない会話をして。
主と使用人としてではなく、ただの同級生として過ごした。
正しく、俺が求めていた普通の高校生みたいに。
俺は母さんや光里から捨てられていたわけじゃなかった。
今では新しいお義父さんもいる。
満ち足りた家庭だ。求めていた光景だ。
「わたし、嬉しいです。兄さんと一緒に過ごすことができて」
そんな新しい家には、どこにも欠落がない。
欠けたところのない団欒。
これならきっと、俺の心の中に生じていた欠陥は埋まっていくはずだ。
「今からでも、兄妹の時間を取り戻すことが出来て」
なのに……どうしてだろう。
どうしてこんなにも、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになるのだろう。
少し暮らせば慣れると思ったあの家にも慣れない。
不満なんてどこにもない。ないはずなのに。
どうしてこんなにも、心がざわついているのだろう。
「お前、なーんか最近、すんげぇ陰鬱な顔してね?」
首を傾げながら、購買で買ってきたサンドイッチを一齧りする雪道。
パンと具材をよく噛んで飲み込んだ後、紙パックのジュースで口の中に潤いを与えていた。
「海外に行くんだろ? せっかくの新天地での新生活だってのにさぁ」
「ああ……そう、だな」
そういえば、まだ雪道にも言い出せていないな。
記憶が完全に戻ったこと。
「…………雪道。俺ってさ、どんなやつだった?」
「それ、前にも訊いたろ。とんでもなく鈍いやつだ」
「周りに対して鈍くて、自分に対しても鈍い。そんなやつ……だっけ」
「そ。だけどまあ、最近のお前は特に鈍いな」
サンドイッチを食べ切った雪道は、包み紙をまとめてくしゃくしゃと丸める。
「引っ越してから、明らかに調子悪いぞ。お前。そんで、それは周りも気づいてる。お前の妹も含めてな」
「う……」
どうやら心配をかけてしまっていたらしい。そして心配をかけていることにすら気づけなかった。それが恥ずかしい。
「お前の天堂さんに対する忠誠心は、半端なものじゃねぇ。それこそ、お前の生活すべてが天堂さんのためにあったし、お前はそれを誇りに思ってた」
最後に紙パックのジュースを飲み干して、雪道は近くのゴミ箱へと足を運ぶ。
「オレ、お前のそーいうとこ、実は結構気に入ってたんだよな。天堂さんのことを第一に考えてるからこそ、お前がオレにかける言葉には嘘が無かったから。天堂家とのコネクション目当ての、媚丸出しの安っぽい言葉とかがなくてさ。……だから、お前にはなんでも話せた。天気がどうとか、女の子の連絡先がどうとか、牛丼屋の新メニューがいけるとか、そーいう何の得にも利益にもならない、くだらねぇ話ができた」
そして丸めた包み紙や空になった紙パックのジュースを、まるごとゴミ箱に入れる。
「だからオレにも、なんでも話してくれよ。天堂さんには話せないこと。くだらねぇことも、みっともねぇことも。今なら、愚痴のゴミ箱になってやるぜ」
「雪道…………」
そうだ。俺の知る風見雪道という男は、こういうやつだったな。
俺にとっても気を許せる相手で。いつだってこうやって、心置きなく言葉を交わすことが出来た。なんでも話すことが出来た。
「…………実は」
気が付けば、俺は話していた。
お嬢にすら話していないこと。いや、お嬢だからこそ、話せないことを。
自分の心が抱える欠落。
一人になることへの恐怖。
一人になりたくないがために、お嬢に仕えたこと。
それはお嬢を利用していたということ。
そのことが後ろめたくて、負い目を感じていたこと。
負い目も何もかも忘れて普通になりたかったこと。
「俺が今、こうして家族の傍にいるのは……天堂さんに命令されたからってわけじゃない。俺はきっと、家族のことも利用しているんだ。自分が普通の人間になるために。普通になって、何の負い目もなく天堂さんの隣に立つために……」
「かもな。天堂さんに仕えるためなら、お前はそれぐらいのことは考える。それが、オレの知ってる夜霧影人だ。だけど……それって何か問題があるのか?」
「え?」
「無償の愛はいいことだ。見返りもなく相手を助けることは美徳だ。……でも、打算的な行動が悪かと言われれば、違うと思う。そもそも人間なんて多かれ少なかれ、打算があって動くもんだろ」
天堂家とのコネクション目当てに近づいてくる人間が多かったと語る雪道にしては、意外な言葉だった。そんな俺の感想が顔に出ていたのだろう。雪道は苦笑しながら続ける。
「打算にも色々あるってことだよ。たとえば、好きな男子に振り向いてもらいたくてデートに誘う……っていうのも、言ってしまえば打算的な行動だろ? 無償の愛じゃない。そいつにとっては好きな人とデート出来るって利益がある。でもそれって悪いことか?」
「……いや」
「だろ? むしろお前が潔癖すぎんのよ。天堂さんに仕える者として、立派じゃなきゃいけないって考えは分かるけどさ。天堂さんだって、普段から打算的な行動をとってるんだ。あんまり難しく考えなくてもいいんじゃないの?」
やっぱり俺には、友達を見る目があったらしい。
こんな風に力強く断言してくれる風見雪道が親友で、本当によかった。
「でも……だったら、俺はどうしてこんな気持ちになってるんだろうな……」
胸に手を当てる。形のない、見えないものに触れるために。
「引っ越してからずっと変なんだ。今の俺は、自分の欲しがっていたものを手に入れたはずなんだ。家族との再会。普通の高校生としての自分。満ち足りた家庭……それなのに、今は胸の中にぽっかりと穴が開いたような気分になる。もう胸を張って、天堂さんの隣に立てるはずなのに」
夢を叶えたようなものだというのに。
欠落よりも大きな、大きな穴がぽっかりと空いている。
「お前は、ほんっっっとうに、自分のことに対しても鈍いよなぁ。そんなもん、決まってるだろ?」
呆れたように肩を竦めて、雪道はまたも断言する。
「寂しいからだよ」
「寂……え?」
「だ・か・ら。天堂さんと離れ離れになって寂しい、って思ってんだよ。お前は。海外だもんな。今までみたいに簡単には会えなくなるし、物理的な距離も半端じゃなく遠くなる」
「さびしい……って、子供かよ」
「じゃあ、子供なんだろ?」
雪道は、にやっと、それこそ悪戯っ子のように笑ってみせた。
「つーか、子供じゃん? オレたちまだ高校生だぜ。それにお前、ずーっと天堂さんの傍にいたもんな。それがいきなり他人になっちまうんだから、寂しくて当然だろ」
不思議なことに、雪道の言葉がするすると入り込んでくる。
空っぽの、底の無い穴だと思っていた胸の内を、親友の言葉一つ一つが満たしていく。
「家族のところに行けって、天堂さんからの命令なんだろ? それを律義に守ったはいいけど、やっぱり寂しい。オレにはそう見える」
「寂しい、か……」
言われた『寂しい』という言葉が、ストンと落ちる。
あるべき場所にピースがはまったような感じ。
「命令を律義に守るのがオレの知ってる『天堂家使用人・夜霧影人』って男だ。まあ、でも? 今のお前は、天堂家使用人の夜霧影人じゃないし、記憶もないんだっけ? だったら、やれることもあるんじゃねーの?」
「……雪道、お前。もしかして、気づいてたのか? 俺の記憶が――――」
「何の話だ? 記憶喪失の夜霧影人くん」
「…………いや。ありがとな」
俺の名前は
天堂家というお金持ちの家に仕えている使用人。
その家の一人娘である天堂星音というお嬢様に仕えている。
だけど。
今の俺は、『天堂家使用人・夜霧影人』じゃない。『記憶喪失の男・夜霧影人』だ。
記憶を失った今の俺だからこそ、出来ることもある。
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