第59話 置き去りの理由

 影人と妹さんとの面会が決まった。

 面会日は日曜日にすることにした。放課後も考えたが、先方の都合もあるのと、休日にした方が時間を気にせずゆっくりと話し合えるだろうということで。


 私と海羽が鍔競り合ったあの電波妨害料亭のような高級店では相手も委縮してしまうかもしれないので、今回は天堂グループ傘下のチェーンの喫茶店にした。


 そうして準備を手早く進めていく中で……私は、海羽に頼んで妹さんと連絡をつけた。面会日よりも一足早く、私が彼女と会うために。

 海羽は私の行動に対して珍しく、深くは追及してこなかった。

 いつもなら一言二言、余計な口を挟んでくるくせに。

 そうした無言の気遣いが海羽らしいと、最近思えるようになった。


 そして私の無理なお願いを、妹さんは聞いてくれた。

 元々、影人を引き取っていたという私とも話をしてみたかったらしい。

 とりあえず会場は、日曜日に使う会場と同じ喫茶店にした。

 その方が向こうも幾分か、当日の緊張も和らぐかと思ったからだ。

 勿論、店内には私の護衛を配置してあるけれど。


 指定した時間の三十分ほど前についた私は(早く着きすぎた)、アイスカフェオレを注文して待つことにした。もう夏休みも終わったけれど、外はまだ暑さが残っている。アイスで丁度いい。


(お店のアイスカフェオレなんて久しぶりね……いつもは影人が作ってくれるし)


 アイスカフェオレも、そしていつも飲んでいる紅茶も。

 最近は、影人以外の使用人が淹れてくれる。だけど……影人が淹れてくれた時の味とは違う。美味しいけれど、いつもとは違う味。


「…………………………もしかしたら、もう飲めなくなるかもしれないのね」


 それから、指定した時間のきっかり十五分前に――――彼女はやってきた。

 元々、調査結果には軽く目を通していたので、写真で彼女の顔は見ていた。


 肩ぐらいの長さに揃えられた黒い髪。小柄な体はやや自信が無さげに丸まっていて、ぶつかりそうになったお客さんに慌てて謝っていた。

 学校を終えた後、ここに来てくれたのだろう。鳳来桜ほうらいおう学園中等部の制服に身を包んでいる。

 彼女は私の視線に気づいたのか、おそるおそるといった様子で近づいてきた。


「あ、あの……天堂星音さん、でしょうか……?」


「ええ。あなたは、朝実光里あさみひかりさん……で、いいのよね?」


「は、はいっ。朝実光里、です」


 ぺこり、という音が出そうなぐらい丁寧に頭を下げる光里さん。

 見たところ内気そうな感じもする彼女としては、私が思っている以上に緊張しているのかもしれない。


「遠慮せず座って。立ったままじゃ、お話もできないし」


「あ、ありがとうございますっ!」


 きっと、失礼のないように、と思っているのだろう。

 あまり音を立てないように椅子を引きながら、席に座ろうとして――――


「ひゃああっ!」


 ――――椅子を足に引っ掛けて、そのまま床に倒れた。

 ついでにテーブルの上に置いていた私のアイスカフェラテまで巻き込んで、思いっきり制服にぶちまけてしまっている。


「ちょっ、大丈夫!?」


「ご、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! 天堂さんの飲み物、零しちゃって……!」


「そんなことは気にしないでいいわ。それより、あなたの方が大変じゃない」


 鳳来桜ほうらいおう学園の制服は白鳥のような上品で優雅な白が特徴だ。けれど、今やアイスカフェラテをかぶって土砂で濁った川のような色になってしまっている。

 一応、ハンカチを取り出して出来るだけ拭ってみたけれど、ハンカチの一枚や二枚じゃどうにもならなさそうだ。


「あ、あのっ、ハンカチが……!」


「気にしないで。ていうか、これじゃ全然拭き取れていないし……このままじゃシミになっちゃうわね。これ、明日も着ていくものでしょう?」


「い、いえっ。大丈夫です……気になさらないでください」


「大丈夫じゃないでしょ、どう見ても。……ちょっと待ってて」


 近場にいた護衛に視線で合図を送る。すると、私の意図を察した護衛の一人がやってきた。


「制服、うちで預かってもいいかしら?」


「ふぇ……?」


「このままじゃシミになっちゃうでしょ。今日中に洗って返しておくから」


「で、でもっ……」


 遠慮がちなのは私相手にあまり借りを作りたくないからだろうか。

 それとも自分に自信が無いからこそ、借りを作ることを苦手としているのか。

 或いはその両方か。


「その代わり、お茶を一杯ご馳走してくれるかしら。それで貸し借り無しってことにするのはどう?」


「う……そ、そういう、ことなら……」


 これぐらいが落としどころだろう。

 これが乙葉や海羽なら「つべこべ言わずに寄こしなさい」と言って引っぺがすところだけれども、彼女相手にそんなことをするわけにもいかない。本題に入る前にあまり立場に上下を作りたくもないし。


「ま、とりあえず飲み物を頼みましょ。私は同じのをおかわりするから、決めちゃって」


「あ、すみませんっ! えっと、えーっと……!」


「ゆっくり決めていいから、そんなに慌てないで」


 光里さんはメニュー表とにらめっこした後、オレンジジュースを注文した。

 注文したドリンクはすぐに届き、彼女がそれで喉を潤すのを眺めてみる。


「…………」


 こうやって実物を眺めていると、顔立ちは悪くない。

 何なら写真で見るよりも可愛らしい子だ。内気と呼べるような大人しい雰囲気だって、彼女の清楚な印象を引き立てているようにすら思える。


(それに、どことなく影人の面影があるような……目とか特に)


 実際に会ってみると、影人とこの子が兄妹であるということを肌で実感する。


「……はふぅ」


 オレンジジュースを飲んだ後、安心したように息を吐く光里さん。

 思わず愛くるしい子猫が頭の中を過った。


「落ち着いた?」


「は、はいっ。あのっ……ご迷惑、おかけいたしました……」


 深々と頭を下げる光里さん。さっきから妙に謝り慣れているように思えるのは、気のせい……じゃ、ないのでしょうね。この様子だと、普段からよく謝ったりしていそうだ。


「わたし、昔からとろくて……転んだりすることも、しょっちゅうで」


「へー……影人とは真逆ね」


 と、言ってから、思ったことがそのまま口から零してしまったことに気付く。

 しまった。迂闊すぎたかもしれないと思ったけれど、私の危惧をよそに光里さんはこの場に来て初めて、表情をぱっと明るくさせる。


「兄さんは、どんな感じなんですかっ?」


「影人が私の前で転んだりしたところなんて、あまり見たことはないわ。どちらかというと、転びそうになる前に助けてくれるって感じ?」


「ですよねですよねっ。わたしもよく、兄さんに助けてもらいました。転びそうになると支えてくれて、転んじゃうとすぐに駆けつけてくれてっ」


 影人と過ごしたのは、今よりずっとずっと昔の、とても小さな子供だった頃のはず。だけどその時の記憶を、思い出を、光里さんはキラキラとした目で語っていた。


「昔から面倒見がよかったんです。わたし、ずっと助けてもらってて……だからかな。結構、女の子からモテてました。『男の子は乱暴だけど、影人くんだけは違うよね』って」


「うっ。その頃から既に……」


 予想はしていたけれど、まさか過去にも泥棒猫がいるなんて……!

 いや、泥棒子猫? いやいや、それどころか時間的には向こうの方が先なわけで……えっ!? もしかして私が泥棒猫になるってこと!? そんなの絶対に認めない!


「そっかぁ……兄さん、変わってないんですね……少し安心しました」


 ほっとする光里さん。その顔にはもう、さっきまでのようなおどおどとした雰囲気は感じられない。どうやら影人の話をしているうちに、本人の気持ちもほぐれたらしい。


「……っ。ご、ごめんなさいっ。わたし、勝手にペラペラと……」


「気にしないで。昔の影人のことが聞けて、私も楽しかったから」


「そ、そう言ってくれると、助かります、です……」


 恥ずかしそうに俯きながら、頬を微かに赤く染める光里さん。

 とても愛らしく見えてしまうのは、影人の妹だからなのか、それとも私がこの兄妹に弱いだけなのか。


「あの……えっと。それで、どうして、わたしを呼び出したんですか……?」


「…………先にあなたと、お話してみたかったの」


 ここにきてまだ、ハッキリとした理由を言葉にすることが出来ていない。

 胸の中でぷかぷかと浮いている朧げな気持ちを手繰り寄せて、端っこから形にしていく。


「あなたに、訊いてみたかったの。昔の影人のことや、あなたが影人のことをどう思っているのか」


 どうしてそんなことを訊きたがるのか。

 好奇心? 興味本位? 違う。どれも違う。


「どうして……影人は家族に捨てられたのか」


 多分、必要だからだ。私の心の行く先を決めるために。


「…………兄さんは、昔から頼りになる人でした」


 そうして、私の一方的なお願いに断るそぶりすら見せず、光里さんはぽつぽつと話し始めてくれた。


「とてもしっかりしていて、いつもわたしを守ってくれて。家のこともよくお手伝いしていました。それで友達と遊ぶ時間がなくなっても、文句なんて一つも言わなくて……今は天堂さんの家で使用人として働いてるって聞いて、違和感なく受け入れられたぐらいです」


 光里さんの口から語られていくのは、私の知らない影人。

 だけど不思議と、私の知っている影人でもあった。


「兄さんはわたしにとってのヒーローでした。いつも助けてくれる。守ってくれる。優しくしてくれる。なんでも出来て、なんでもこなしてしまう、ヒーロー。わたしは、そんな兄さんが大好きでした。幼い頃の記憶はもうあまり覚えていなくても、兄さんとの思い出は今も、強く心に焼き付いています」


 胸に手を当てて、きゅっと小さく握りしめる光里さん。

 彼女の中にはきっと言葉通りに、影人との思い出が、日々が、今も尚、温かく燃え盛り心の中を照らしているのだろう。


「だけど、兄さんがそうなったのはきっと……そうならなくちゃいけなかったからだと思います」


「確か、あなたと影人のお父様は…………」


 天堂家の調査結果で見た情報が、頭の中に浮かぶ。

 私が何を言いいたいのかを察したのだろう。光里さんは静かに頷いた。


「……ご存じかもしれませんが、多額の借金を抱えていました。元々は大手商社に勤める営業マンだったらしいのですが、会社をクビになってからはお酒とギャンブルに溺れるようになって、お母さんにも黙って借金を重ねて……」


 天堂家と四元院家の調査報告によれば、社内抗争に巻き込まれてしまった結果らしい。その過程で友人にも裏切られたようで、精神的なショックが大きかったのだろう。酒に溺れ、ギャンブルに溺れ、目の前の現実から逃避し続けた。

 光里さんが小学校に入った頃には、既にそんな状況だったらしい。


「わたしの記憶の中にいるお父さんは、いつもお酒ばかり飲んで、お母さんにもあたるような人で……わたしが怖くて泣きそうになる度に、兄さんはいつも抱きしめてくれました。抱きしめながら、お父さんも可愛そうなんだって。信じてた人から裏切られて、傷ついてるんだって言って、悲しそうに笑って……」


 当時の影人はまだ幼かったはずだ。それでも、きっと、大まかには事情を把握していたのだと思う。自分の父親が抱いた傷の深さを、悟っていたのだと思う。


「だから代わりに自分が頑張るんだって言ってました。いつも暗い顔をしているお母さんの手間をかけさせないように家事もいっぱい手伝って、わたしの面倒も見てくれて……家族に尽くして、くれていました」


 影人は聡い子だったからこそ、年相応ではなく年齢以上の人間になる必要があったのだろう。だけど自分が頑張って何とかしなければならない、自分が頑張ればなんとか繋ぎとめられると、年相応にして身の丈以上の願いを抱いてしまったのかもしれない。


「……だけど、その家族は消えた。家に影人だけを残して」


 尽くした家族は、影人だけを切り捨てて蒸発した。

 影人は切り捨てられた。奉仕してきた自分の家族に。


「……子供をどちらか片方を残すことを言い出したのは、当時のお父さんでした。今でも、覚えています。夜逃げした後に、あの人が……言ったこと」


 光里さんは声を震わせながら、背中を丸めて項垂れる。

 ここにはいない自分の兄に対して懺悔をするように、首を垂れる。


「『影人なら一人でも大丈夫だ』って。『光里と違って手間がかからないから平気だ』って」


 ああ……そう。そういう、ことだったのね。


 影人に妹がいると知ってから、ずっと理由が気になっていた。

 どうして影人だけを残していったのか、その理由が。


 私の影人えいとはとても優秀な使用人だ。

 仕事の合間を縫って勉強して、上位の成績を常に維持している。しかも人に教えるのが上手い。

 スポーツだって出来る。元々、お父様に厳しく鍛えられたというのもあって、腕っぷしだって並の軍人や傭兵が束になっても敵わないぐらい……らしい。

 眉目秀麗というのだろう。顔立ちも整ってるし、夜色の瞳も綺麗だし。身長だってあるし。振る舞いだって紳士的だし。他の女の子が夢中になるのも分かる――――


 ――――だから、切り捨てられた。


 影人は家族のために奉仕するために、尽くすために、早熟にならざるを得なかったのに。

 早熟して、能力が高いからこそ、一人だけ置き去りにされた。


 一人でいても大丈夫だから。

 一人でなんでも出来てしまうから。

 一人で生きていけると判断されたから。


「……結局、ほどなくして両親は離婚しました。母は再婚して今は新しいお義父さんと一緒に暮らしています。お父さんは借金だけを残してわたしたちの前からも姿を消しましたが、新しいお義父さんが借金を肩代わりしてくれて……今は、こうして暮らしていけています」


 話を聞いていると、随分と懐の大きいお義父さんだ。

 その人物も調査資料を読む限りは、優秀な人物であるらしい。経済状況も悪くはない。光里さんが鳳来桜ほうらいおう学園に通えていることがその証拠だ。


「……あなたも、大変だったのね」


「いえ……兄さんに比べれば……」


 彼女としても負い目があるのだろう。

 自分だけ両親に選ばれてしまったことの負い目が。


「わたし……もう、兄さんには会えないと思っていました。探しても見つからなくて。見つけられなくて。もう、兄さんのことは諦めた方がいいって、心のどこかで思いかけていて……だから、奇跡だと思いました。海羽先輩という人が兄さんと同じ名前の人と関りがあるって聞いて、それが実際に兄さんだと知った時は……」


 光里さんは顔を上げる。目を合わせる。

 私から決して逸らさず、逃げ出さず。自分に自信が無いはずの子が、真っすぐに。

 私を、見ている。


「わたし、兄さんに会いたいです。そして叶うなら……兄さんと、一緒に暮らしたいです。また、離れ離れになってしまう前に……」


「また? どういう意味?」


「お義父さんが転勤することになったんです。一応、昇進ということらしいのですが、行き先が海外で……」


「海外……そこに、影人も一緒に?」


「兄さんが……望んでくれるなら、ですけど」


 昇進で海外転勤。光里さんのお義父さんは、やっぱり相当優秀なのだろう。


「分かってます。身勝手だって。兄さんにもこっちでの生活があるのに。でも……それでもわたしは、兄さんと一緒に暮らしたいです。今度はわたしが、傍で兄さんを支えたいんです」


 強い。強い、決意だった。

 影人が一人置き去りにされて、自分だけが連れて行ってもらえたと自覚してから、今に至るまで、彼女はずっと後悔してきたのだろう。

 当時の光里さんに何かが出来たとは思えない。責任を追及するべきは大人、特に父親の方であり、彼女に罪も責任も無いはずだ。

 しかし、彼女は自分を責めてきたのだろう。影人のことを思って涙を流したこともあったのだろう。そんな彼女の涙を拭ってやれる場所。そこが影人の、本来いるべき場所。


(……家族。影人の居場所)


 記憶を失う前の影人は、どうしただろう。

 ……家族に会おうとしたのかも分からない。ただ、きっと、私の元から離れようとはしなかったはずだ。

 もしかしたら、自惚れに聞こえるかもしれないけれど。私には確信がある。影人の主としての、確信。それぐらい影人の忠誠心が高いことを、私自信が一番よく知っている。


 けれど今の影人は、記憶を失っている。

 使用人としての夜霧影人ではなく、普通の高校生としての夜霧影人になっている。


 影人自身がどちらを選ぶのかは分からないけれど。

 今の影人がどちらを選ぶのかは定かではない。


「……天堂さん。もしも兄さんがいいよって言ってくれるなら、わたしたちが家族に戻ることを……許して、くれますか?」


 どちらの方が幸せなのかは分からない。分からないけれど、影人が幸せになれる道があるのなら、私はその方向に、影人を送り出してやるべきだ。


「……ええ。勿論よ」


 たとえそれで、影人と離れ離れになってしまうとしても。

 私と影人の関係が、変わってしまうとしても。


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