第58話 お嬢、あの日を語る
俺が天堂さんから、自分の家族についての話を聞いたのは、その日の放課後。天堂家の屋敷に戻ってからだった。学園で話さなかったのは、俺のプライバシーを配慮してのことなのだろう。
そうして俺は、天堂さんの部屋に招かれた。
テーブルを挟むようにして椅子が二つ。そして、温かい紅茶も二つ、既に用意されていた。
「……話すわ。あなたの家族のこと。私とあなたのこと」
そう、前置きして。天堂さんは話し始めた。話してくれた。俺の家族のこと。俺がどうして、天堂家にいるのかを。
――――どうやら俺は、親に捨てられたらしい。
両親は妹を連れて蒸発して、俺だけが家に取り残されていたのだそうだ。
それを聞いて、俺はテーブルの席に用意されていた温かい紅茶を口に含んだ。
喉が渇いていたわけじゃない。天堂さんの話を聞いて、ただ無意識に温かい飲み物を欲したのだ。
「……私があなたを拾ったのは、雪の日だったわ」
俺が紅茶を飲んでいるところを見て、天堂さんはポツリと言った。
その言葉は、天から小さな結晶を指から零すようだった。
「一人で外を出て、ふらふらしているあなたを見て……私から声をかけたの」
「……どうして、声をかけてくれたんですか?」
「あなたの眼が、印象的だったの」
彼女の蒼い――――サファイアのような、澄み切った空のような瞳に。
空に包み込まれた俺の眼が、彼女の瞳には映っていた。
「全てを失ったような眼が」
「……………………」
全てを失った……きっと、その通りだ。
当時の俺はまだ小学校低学年程度。家族は世界にも等しいものだったのだろう。
それが突然、全て消えた。俺だけ残して世界が消えた。
「自慢じゃないけれど、私は全てを持ってるわ。世間一般で言うところの、全てをね」
天堂さんは角砂糖をつまんで紅茶に落とす。
「得ることはあっても、失うことを経験したことはなかった。……そりゃあ、時間とか寿命とか、古くなった玩具とか使わなくなった教科書だとか。そういうものは失ってはいたのでしょうけれどね。本当に大切なものを失ったことなんて、無かったわ」
落とされた砂糖はあっという間にに溶けて消えて、紅茶の中の一部となった。
「だからかしら。世界を失ったようなあなたの眼が、とても印象的に映ったの。傲慢よね、ほんと」
天堂さんのカップには、まだ一口もつけられていない紅茶で満たされていた。
透き通る紅茶は、カップの底を薄暗くも映す。満たされているけれど、俺にはそのカップの底がどこか空虚に見えた。
「あなたに興味を持った私は、こう話しかけたの」
――――何を失くしたの?
そうだ……あの雪の日の天堂さんは、俺にそう声をかけてきたんだ。
「そして、あなたはこう答えた」
――――全部。
(ああ、そうだった……俺は、全部を失くしたと、天堂さんに答えたんだ)
あの時の俺の世界は、全てが灰色だった。
一面の雪で真っ白だった世界は、灰を被ったかのようだった。
モノクロの世界だった。彩りを失った世界だった。
その中で、この子は……輝いて見えた。
灰色の世界など関係なく。俺の喪失感など知ったことではないとばかりに輝く、金色の髪。蒼い瞳。
否が応でも目を惹きつけられた。
親がいきなり蒸発して。家族が消えて。世界を失って。
全部を喪失し、全てがどうでもいいはずだったのに。
いっそ、雪に埋もれて死んでも良かったのに。
そう思っていたのに。俺は、あの時に現れた金色の天使に、目を奪われた。
天使は、言った。
――――全部失くしたなら、私が分けてあげる。
そう、言って。手を差し伸べてくれたんだ。
「全てを持つ私は、喪失を有していなかった。だから当時の私は、あなたを欲しがった。ちょっとした興味と、傲慢な好奇心で」
「嬉しかったです」
気が付けば、口をついて言葉が出てきた。
「俺は、俺に何かを分け与えてくれる人の存在が、嬉しかった」
そのことは覚えている。
天堂さんが俺に分けてあげると言ったその時になってようやく、寒さを自覚した。
顔が冷たくなっていることに気付いた。吐息が白くなっていることを思い出した。
「……何か思い出した?」
「あの日のことを、少し」
「じゃあ、その後のことは?」
「俺は……天堂さんが差し出してくれた手を取って、天堂家に引き取られました」
天堂さんの父親は自分も似たような経験があると言って、俺を引き取ってくれた。
そもそも天堂家自体、身寄りのない子供や少しワケアリな子を引き取ることは、さほど珍しくなかったことらしいので、その辺りの手続き的なものは慣れた様子だった。
屋敷に居る使用人の中には俺と似たような境遇の人もいれば、天堂家の支援を受けて自立した人もいる。とはいえ、お嬢が直接拾ってきた子供は、俺が初めてだったらしいけれども。
天堂家の人たちは、俺のことを家族のように受け入れてくれた。
望むなら家族を探すとも言ってくれたし、養子にしてもいいと言ってくれたし、家で家族を待っていたいなら支援もすると言ってくれた。そして、それ以外の選択肢も用意してくれた。
破格の待遇だったと思う。当時、俺はまだ小学校低学年だったから。そういった選択肢の意味が理解出来るまで、ゆっくりしてもいいと言ってくれた。
そうして俺は、家族は探さなくてもいいと言った。
なんていうか。体から家族を探してどうこうするような気力がなかった。その時の俺をかろうじて生かし、動かしていたのは、天堂さんの傍にいたいという望みだった。
天堂さんの傍にいて、彼女を見ている中で……俺は天使のように見えた彼女が、ただの女の子だと知った。
才能があっても努力家で、両親と会えない時は寂しがって。
周りから才能を妬まれれば傷ついて。
そんな彼女を守りたいと思い、自ら天堂家の使用人になりたいと申し出た。
「まあ……それぐらいよ。私が知っている、あなたの家族のことなんて。その気になれば、家族のことを詳しく調べることも出来たけど……しなかったの。あなたがそれを望んでいたこともあったし、私自身……怖かったから」
「昔の俺って、そんなに怖かったんですか?」
「そうじゃなくて。あなたが…………戻ってしまうかもしれないって、思ったからよ。家族のところに」
うーん。なんだろう。今、とても嬉しいという気持ちが溢れてきたような……これって、記憶を失う前の俺がそう感じているからだろうか。
「……私が知っているあなたの過去は、ここまで。そしてここからは、
天堂さんは勢いづけるように紅茶を飲むと、心なしか一気に吐き出すように、その
「あなたの妹が見つかった」
「――――――――っ……! いも、うと……?」
「……そうよ。天堂家と四元院家の二方向からの調査に加えて、ツテを使って病院からデータも取り寄せてあなたのものと照合した。結果は、間違いなく本人。あなたの妹」
視界がブレる。頭がぐらつく。額から流れ出てくる冷や汗は、灼熱の水滴となって肌を伝う。
いもうと。妹。ああ……そうだ。妹がいたんだ。俺には。
だけど。なんだ? 今まで記憶を取り戻すことは何度かあったけれど。頭に痛みが走ったこともあったけれど。この感覚は、今までのものとは違う。
熱と泥を溶け合わせたものが、胃の中から湧き出てくるような。
「影人っ。無理をしなくても、ゆっくり休んで……」
「……大丈夫です。それより……名前は? その……妹の、名前は」
話の続きを促すと、天堂さんは僅かに躊躇いながらも再び口を開く。
「
「…………間違いありません。妹です」
凍てついた湖に投げ込まれた小石一つ分の穴だけ、記憶が戻ってきたような感じ。凍り付いている水面に小石を投げ込んで、穴を開けたところで、波紋が生じることはなかった。
全部を思い出したわけじゃない。記憶はまだ虫食いだ。
「
「…………っ」
家族と会う、妹と会うという選択肢を提示された途端、心臓がぐっと熱を帯びる。
熱の痛みが胸の中枢から体内に根を張り、じくじくと蠢くのを感じた。
「……これは、言おうか迷ったんだけど。光里さんは今、
「
向こうも色々あったということなのだろう。
俺の知らないところで、色々と……。
天堂さんなら何か知っているのだろうか。その色々について。
「……これ以上のことは、本人の口から聞くのがいいと思うわ」
俺の心を先読みしたかのような言葉だった。
「会う気があるなら、だけど。……でも、もし会いたくないっていうなら、それでもいいわ。その時は、天堂家の調査で分かった向こうの事情を教えてあげる」
どうする? と、天堂さんは問いかける。
ここから先は俺が決めるべきことなのだと言わんばかりに。
実際、そうだ。ここから先は俺自身が決めなければいけないことだ。
俺自身の意志で……。
「……会います」
俺は知りたい。
この胸の中にある空虚さの正体を。
喜びも温かさも、何もかもをすり抜けさせてしまう、穴の理由を。
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