第7章 影の終わり編

第57話 影の一端

 影人が自分の家族について知りたがることは、なんとなく予想していた。

 一度ははぐらかしたけれども、それもただの時間稼ぎにしかならないことは、何となく感じていた。

 ただの勘だ。いつも当たる私の勘だ。

 今回ばかりは当たってほしくなかった私の勘。は、的中してしまった。

 やっぱり時間稼ぎにしかならなくて、影人は家族のことを訊ねてきた。


 だけど私はそれに対して、はっきりとした答えを返してあげることは出来なかった。

 どちらにせよ、私は影人の家族について知っていることは多くない。

 知っていることは、親が蒸発して、影人だけが残されたことだけ。

 そしてあの雪の日――――外を彷徨っていた影人を、私が拾った。


 話してあげるべきなのだろうか? だけど影人は、自分の家族について触れてほしくなさそうだった。だからずっと、彼の前で彼の家族について話すことも触れることもしなかった。


(でも……本人が望むなら、話してあげるべきなのでしょうね)


 そう。話してあげるべきなのだ。きっと。

 それでもまだ躊躇ってしまうのは……記憶を失う前の影人がそれを望まなかったから。


(……違う)


 それもあるけれど、それだけじゃない。

 私はただ、臆病なだけだ。


(私の手で、影人を傷つけたくなかったから……)


 自分が家族から捨てられた、なんてことを知ったら、影人は傷つく。

 記憶を失う前に傷ついて、記憶を失ってからまた同じ傷を与えるなんてこと、私の手でやりたくなかっただけ。

 臆病だから逃げ出した。それだけ。

 気遣っているのは影人じゃない。私は、私自身を気遣った。


(……ああっ、もうっ! 私のバカっ!)


 頬を叩く。強く。強く。

 臆病な自分をひっぱたく。後ずさる背中を押す。

 我が身可愛さに逃げ出して、我が身可愛さに踏み出せないで。

 そんなことで影人の主が務まるわけがない。


(……今日、話しましょう。学校から帰ったら、すぐに)


 温かい飲み物を用意させておきましょう。

 あの雪の日のように、影人が凍えてしまわないように。

 さっそく屋敷の者に連絡を入れようとスマホを取り出して――――取り出した途端、通話がかかってきた。相手は……四元院海羽だ。


 自分を鼓舞して覚悟をした矢先に、特級泥棒猫二号からの通話。

 正直、出鼻を挫かれた感じはなきにしもあらずだけど、仕方がない。

 特に無視する理由もないし……というか…………なんだか、出ておいた方がいいような、気がする。

 これもやっぱり、私の勘。

 いつも当たる私の勘。当たってほしいかどうかは……分からない。

 一息、ため息を入れてから。画面に表示された通話のボタンを、押す。


「何よ、海羽。昨日の今日……っていうか、今朝の昼間に」


『わたくしとて、今朝の昼間になってわざわざ通話をかけようとは思いませんわよ』


 それもそうだ。しかも急ぎの用事でもないのなら、メッセージで済ませればいい。

 なのにわざわざこうして通話をかけてきたということは、それだけ重要な用事なのだろう。


『……実は中等部の後輩が、わたくしの話を聞きつけて、訪ねてきましたの』


「その後輩って、知り合い?」


『いいえ。はじめて顔を合わせる子でした』


 わざわざ中等部から高等部にいる海羽を訪ねてくる……。

 何か企みがあるのか。信じられないことに海羽に何かしらの憧れを抱いたか。或いは、よほどの事情でもあるのか。


「その子は、何の話を聞きつけてあなたを訪ねてきたの?」


『わたくしと影人様の出会いのお話を、ですわね』


「…………」


 いけない。抑えるのよ天堂星音。

 今とても……そう、とてもとても不吉な言葉が飛び出してきたけれど、抑えるのよ。ツッコミを入れていては、話が前に進まない。たとえこの特級泥棒猫二号が、どれだけ都合よく脚色したホラ話をばら撒いていてもよ。


『わたくしと影人様の出会い……そして、今では互いに夏休みを謳歌するまでになったことを、どこからか耳にしていた様子でした』


「……………………それで?」


『その方にわたくし、お話いたしましたの』


「……………………何を?」


『わたくしと影人様の甘い逢瀬を』


「可哀そうに……その転入生、カスみたいな嘘を流し込まれて脳の容量を浪費してしまったのね」


『フッ……嫉妬は見苦しいですわよ』


「嘘百二十パーの妄想にどうやって嫉妬すりゃあいいのよ」


 抑えきれなかった。でもあなたはよく堪えたわ、天堂星音。

 というか、いっそもう切ってやろうかしら、この通話。


「……それで? その哀れな後輩が何よ」


『その後輩は、朝実あさみさん……朝実光里あさみひかりさんと言いますの』


 聞き覚えがあるかどうか、ということを訊いているのだろうか。


朝実光里あさみひかり……名前に聞き覚えはないけど。その子がどうかしたの?」


『……彼女には、幼い頃に生き別れた兄がいるそうです。そのお兄さんは、今ならきっと高校一年生になっているだろうと』


「高校一年生になった、兄……」


 じわりと、汗が滲み出てきた。

 スマホを持つ手にぎゅっと、力がこもる。


『…………朝実さんには色々とご事情があるそうでして。両親は一度離婚しており、朝実さんはお母様に引き取られることになりました。その後、朝実さんのお母様は再婚し、苗字も現在の朝実に変わったそうです』


「…………つまり。その朝実って子には旧姓があるってことね?」


『ええ……』


 この流れで、それが何を意味するのか。

 分からないほど私は、鈍くはない。

 だけど訊かずにはいられなかった。確かめられずにはいられなかった。


「その朝実という子の、旧姓は?」


『朝実さんの旧姓は………………』


 通話越しに、海羽が僅かに息を整えるのが聞こえた。

 もしかしたら私のように、スマホを強く握りしめたのかもしれない。

 長いような短いような。時間が揺れるような感覚の中で、やっと海羽は口を開いた。


『…………夜霧やぎり


 とても聞き馴染みのある名前を。彼女は、告げた。


『朝実さんの旧姓は――――夜霧光里やぎりひかり


 私が影人の家族について知っていることは、そう多くない。


『彼女は、影人様の妹さんだそうです』


「影人の、妹…………?」


 そして、今。その少なくはない部分の一端に。

 私の知らない影人の一端に、触れたのかもしれない。


「その子は、あなたと影人が知り合いだと噂で耳にして、接触してきたというのなら……影人に会いたがってる、ってこと?」


『……はい』


 生き別れの兄が近くにいると知れば、会いたくなるのは当然かもしれない。

 影人を置いて蒸発したのは親の都合でしかなくて、当時の妹さんからすれば突然のことだっただろうし。


『とはいえ、影人様のお気持ちもあります。何より今は記憶喪失。不用意に影人様に知らせることは躊躇われますので、こうしてあなたに連絡を入れましたの』


「そう、ね…………」


 タイミングが良いのか悪いのか。

 今の影人は家族のことを知りたがっている。

 ……いや。前の影人だったとしても、同じだ。


「…………どちらにせよ。影人に直接、訊いてみるしかないでしょう。家族に会いたいかどうかなんて」


 影人がどんな答えを出すにしろ、私たちが決めていいとは思えない。

 決める機会を奪ってはいけない。


「私から、影人に話してみるわ」

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