第60話 まっさらな普通

 日曜日。天堂さんがセッティングしてくれた、妹と会う日がやってきた。

 残念ながら晴天、とはいかず。光を遮る雲が空を覆っている。

 ありがたいことに今日は天堂さんが送迎車を出してくれるので、仮に雨が降っても大きな問題にはならないだろう。


「……………………」


 そんな天堂さんだが、送迎車の中では珍しく黙りこくっていた。

 いや、様子がおかしいのは少し前からか。数日ほど前に誰かと会ったらしいのだけれども、その後はどこか気落した様子だ。

 何かあったのかとたずねても、考え事をしているだけと返すばかり。


 ……今から生き別れになっていた妹と会うというのに、俺の心の中は天堂さんのことで大半が占められているという状況。自分のことよりも、天堂さんの方が気がかりだ。記憶を失う前の俺が、そうさせるのだろうか。


「…………影人」


 指定場所のお店に近づいてきた頃。

 窓の外に広がる景色を眺めていた天堂さんが自分から口を開いた。

 だけど、その澄み渡る空色の瞳を向けてはくれない。窓ガラスに映る彼女の瞳は、同じくガラスに映る雨雲と重なってくすんでいる。


「あなたは、あなたが思う幸せを選びなさい」


「天堂さん?」


「あなたは、あなたを必要としている場所に行きなさい。他のことを気にする必要はないわ。私のことも、天堂家のことも、考えなくていいから」


 まるで自分に言い聞かせているようでもあった。

 俺に向けてのものではなく。自分を押さえつけ、縛り付けるための。

 言葉の意味を問う前に、車が停車した。


「あの、天堂さん……」


「さ。早く行ってあげなさい。あなたの家族が待ってるわ」


「…………は、い」


 問いかけは背中を押しだす言葉で遮られ、送迎車を降りる。

 俺と妹を二人きりにしてくれるためなのだろう。天堂さんは車内で座したまま。

 距離にして数メートルにも満たない。だけど、どうしてだろう。

 俺と天堂さんの世界が、今、隔てられたような――――。


「じゃあ、いってきます」


「……ええ。いってらっしゃい、影人」


 どうして無理に笑ってるんですか。

 疑問を口に出すのを、ぐっとこらえた。疑問を投げかけたところで、もっと無理に笑うだけだろうから。そのまま振り返らずに、集合場所の店に向かう。


 店内は日曜日ということもあって随分と賑わっていたけれど、天堂グループ傘下のお店ということもあって指定された席があらかじめ抑えられているとのこと。店員さんに案内されて向かった席に、中学生ぐらいの女の子が座っていた。


「――――っ……」


 ずきり、と頭に歪な針で皮膚を貫いたような痛みが走る。

 ああ……面影がある。小学生の頃に生き別れた、妹に……光里に。

 片手で頭を押さえている間に、向こうも俺のことに気付いたらしい。

 目を見開いて、俺の頭からつま先までをじっと見つめていた。


 俺はゆるゆると足を前に進め、話し声や物音で絶えない店内の隙間を縫うように指定された席に向かう。


「…………光里ひかり


 息と一緒に、妹の名前が流れ出た。

 久しぶりとか、元気だったかとか、そんな気の利いた一言は欠片ほども出てこなかった。

 ただ目の前の人間が本当に妹であるのか、確認するための一言を絞り出すので精一杯だった。


「兄さん……」


 それは向こうも同じだったらしい。

 緊張しているのだろうか。それ以上、彼女は何も言わなかった。

 自分の感情に迷っているようだった。再会を喜びつつも、俺に対する負い目も感じている。


「あのっ、兄さん、わたしっ…………あっ!」


 立ち上がろうとした拍子に足をぶつけてしまったのか、テーブルが揺れて上に置かれていたグラスが転がった。中に残っていたオレンジジュースが氷ごと零れてしまい、テーブルを濡らす。


「ご、ごめんなさいっ!」


 慌ててペーパーナプキンを引っ張り出して零れたオレンジジュースを拭いていく光を見て、肩から力が抜けた。


「変わらないなぁ……光里は」


 それは、無意識のうちに出ていた。

 昔を懐かしむような呟きは、完全に意識の外から。心の内からのものだった。

 妹の姿が。声が。そして印象が、頭の中で岩となって落ちていく。凍てついていた記憶の水面に大きな亀裂が入り、這うように伸びたヒビの端から氷がぼろぼろと剥がれていく。


 妹のこと。母さんのこと。父さんのこと。

 あの家での日々のこと――――天堂さんに拾われる前の、夜霧影人のこと。

 どうして今まで忘れていたのか、不思議なぐらいに鮮明に。


「ごめんなさい……ごめんなさい、兄さん……」


 この謝罪は、ジュースを零したことにじゃない。

 きっと、溢れ出してしまったのだろう。今に至るまでずっと、抱え込んでいた負い目が。堰を切って、涙と一緒に流れ込んでしまったのだ。


「お前のせいじゃないだろ」


 自分でも驚くぐらいに、自然とハンカチを差し出していた。

 泣きじゃくる妹の頭に手を置いて、慰めてやっていた。

 昔、こうやって光里を慰めていた時みたいに。


(髪も痛んでないし、血色もいい。ちゃんと食事はとれてる。見える範囲に傷や痣もないし、体のどこかを痛めている様子もない……話に聞いていた通り、今は幸せに暮らせているんだな……――――よかった)


 天堂家の使用人として仕えていたことで身に着いた技術で、妹の無事を確かめる。『天堂家の使用人・夜霧影人』としての記憶はまだ戻っていない。この技術はきっと、体に染みついたものだ。


 それから、泣き止んだ光里から大まかな話を聞いた。

 俺が、父さんから切り捨てられて。母さんは逆らえるような精神状態でもなくて。

 光里は俺が置き去りにされていることなんて夢にも思わなかったらしい。


「わたしは、ずっと兄さんを探していました。でも、見つからなくて……自分だけ生きていることが、申し訳なくて……」


「いいよ。今はこうして無事みたいだし。それより、父さんと母さんは?」


「……お父さんとお母さんは離婚して、お父さんは借金を残して行方を眩ませました」


 侮蔑を滲ませながら光里は言う。

 光里や母さんも、苦労してきたのだろう。いや、むしろ俺よりも過酷な生活を送っていたかもしれない。むしろ、天堂さんに拾われた俺は恵まれている方だと思う。


「大変だったな。借金は今も残っているのか?」


「いえ。今のお義父さんが返してくれました。実はお母さんの幼馴染で、以前から想いを寄せていたらしくて……色々あって、お母さんと再婚しました。お父さん……あの人を見つけたらぶん殴ってやるって息巻いてます」


 そんなドラマや漫画みたいな展開があったのか。

 父さんについては殴られるどころか殺されたって文句は言えないだろうな。

 ……なんて。どこか傍観者みたいな視点だな。我ながら。

 どこか他人事のように感じる。記憶を失っているからだろうか? でも、今の話で天堂さんに拾われる前のことは全て思い出したはずだ。

 あの時に感じた怒りも悲しみも、絶望も。全て……それなのに、どうして心が動かないのだろう。


「そうか。でも、ちょっと安心したよ。母さんも光里も、今は元気にやってるみたいで」


「ええ……」


「どうした?」


「実は……お義父さんが仕事の都合で、海外に転勤することになったんです。わたしもお母さんも一緒に、海外に移り住むことになって」


「海外? それは大変だな。まだ新学期が始まったばかりだっていうのに」


「わたしは大丈夫です。前から憧れはありましたし、家族旅行に出かけることもありましたから。言葉はこれから習わないとですけど、英語は少しなら喋れますし。それで、あの……」


 光里は俯きながら、きゅっと唇を引き締める。

 華奢な手を丸めて握り、ピンと肩を張りつめた後、再び顔を上げた。


「兄さんも、一緒に来ませんか?」


「え?」


「兄さんと一緒に暮らしたいんです。兄さんと、家族に戻りたいんですっ……」


 光里なりに勇気を出していることは、見れば分かった。

 ここで俺に罵倒されることすら覚悟している目だった。


「母さんはなんて言ってるんだ?」


「お母さんは……自分には、そんなことを望む資格はないと言っていました。でも……きっと本心では、また一緒に暮らしたいと思っているはずです。お義父さんだって、兄さんが望んでくれるなら家族になろうと言ってくれています」


「……………………」


「兄さん。わたしたちのことを許してほしいとは、言いません。だけど、もし……もう一度、機会を与えてくれるなら……また一緒に、暮らしてくれませんか?」


 あれだけ内気で、転んでばかりだった光里。

 あの小さな妹がもうここまで大きくなっていたのか。

 今になって初めて、流れた時間を実感している。


「今度はわたしが、兄さんを支えたいんです。もう絶対に離れません。何があっても一緒にいます」


「…………ごめん。考えさせてくれ」


 俺は、その場で答えを出すことは出来なかった。

 まだ記憶喪失だったからというのもある。

 正直、自分だけ置き去りにされたことに対して、思うところがないわけじゃない。

 心の中が散らかったままの状態で、決断を下すことは出来なかった。


 光里とはそれから店で別れて、送迎車までの短い道を歩く。

 光里から話を聞いている間に、家族のことについての全てを思い出していた。

 思い出した過去の記憶。そこに、俺が知りたがっていた物の答えがある気がした。


(そういえば、夜逃げする直前ぐらいに父さんが言ってたっけ……影人は一人で大丈夫だよな、って)


 あの時は、ただ留守番のことだと思っていた。

 もう一人で留守番できるな、って。

 俺はそれに頷いた。大丈夫だと。一人でも、大丈夫だと。

 頷いて、それからすぐだった。俺以外の家族がいなくなったのは。


 あの日、光里は学校を休むように言われていた。

 父さんは病院に連れて行くからと。だから影人は一人で学校に行くようにと言われて、いつもは光里と一緒に歩いている通学路を一人で歩いた。


 学校から帰ってきた時、違和感に気付いた。

 テレビやテーブルみたいな持ち出しの難しい家具はそのままだったけれど、何かが欠けている。虫に食われた葉っぱのような家に、冷や汗が伝った。

 そして、引き出しから俺以外の家族の服がごっそりと無くなったことに気付いた時、胃の中が凍り付いた。


 子供心ながらに俺は気づいていたのだ。自分は捨てられたのだと。


 あるべきものが欠けた家。

 俺以外の家族の痕跡が欠落した家。

 あの日に見た景色、欠如している光景が、今も俺の心の中にある。


(そうか……これだったのか)


 ぼんやりと、他人事のように悟った。

 俺の心の中に感じていた欠落の正体を。


 家族から捨てられた。

 親しいと思っていた人から切り捨てられた。

 だから、俺は怖いんだ。誰かと親しくなることが。

 親しくなった後に捨てられたらと思うと、怖かった。

 近づいた後に消えてしまうことを恐れていた。


 だって、一人は寒い。一人は冷たい。

 がらんとした部屋。消えた電気。ついていないテレビ。

 人の温もりが消え去った、空っぽの家。

 あの空っぽになった家を見て、はじめて独りが怖いと思った。


 だから俺は外に出たんだ。

 外には雪が降っていたけれど、家の中の方がずっと寒かった。

 降り積もる雪よりもずっとずっと、心が凍える場所だった。


 家の中にいるより、外の方が温かい場所だった。

 降り注ぐ雪が温かく思えた。けれど、降り積もった白い景色が、どうしようもなく自分が一人であることを痛感させられた。

 白いはずの景色が、灰色に見えた。

 そんな時だった。灰色の世界で、天堂さんに会ったのは。


 ――――何を失くしたの?


 初対面だったのに、天堂さんは俺のことを知っているかのような、ピンポイントの言葉を投げかけてきて。


 ――――全部。


 俺は答えた。全部、失ったと。


 ――――全部失くしたなら、私が分けてあげる。


 天堂さんのその言葉に、どれだけ救われたか。

 彼女の差し出された手をとった。手を掴んで、俺は心の中で思ったのだ。


(――――捨てないで)


 怖かった。捨てないで欲しいと、心から願った。

 灰色の世界に舞い降りた、星のような輝きを放つ天使。


(――――俺を、一人にしないで……ずっと傍に、置いて)


 あなたからも見放されたら、俺はもう本当に何も残らないから。


「ああ、そうだ……そうだった」


 天堂さんは俺に手を差し伸べてくれた。

 俺はその手をとって、それから彼女に仕えることを決めた。

 使用人として天堂さんに仕える俺は、もしかしたら傍からすれば、天堂さんを支えていたように見えていたのかもしれない。


 違う。


 逆だ。


 俺は、天堂さんを支えていたんじゃない。

 俺は、天堂さんに縋りついていたんだ。


 俺は――――お嬢を支えるフリをしながら、お嬢に縋りついていた。


 だから自分を磨いた。鍛錬も苦にならなかった。

 だから使用人になった。奉仕する存在になった。


 仕える者は、一人では成立しない存在だ。

 仕えるべき主がいて成り立つ存在だ。

 一人ではなく、二人であることを義務付けられた存在だ。

 一人では、生きていけない存在だ。


 心からの信頼も忠誠も何もかも捧げて、代わりに俺は安寧を得ていた。

 どこか負い目があった。お嬢を利用しているみたいで。


 ……みたいじゃないな。お嬢を、利用していたんだ。


 そのせいだろうか。感じるもの全てに影が差した。

 彼女と過ごす日々で得る安寧も、喜び、楽しみも、愛しさも、全てに影が差した。

 全ての想いに、欠落が生じていた。


 忠誠も尊敬も嘘じゃない。その一方で、自分に白々しさを感じていたし。

 彼女からの信頼すらも、向けられるたびに喜びと同時に自分にその資格はないと、心のどこかで思っていた。


「全部、思い出した……」


 そんな自分が嫌いだった。いつまでたっても未熟者。

 胸を張ってお嬢の傍にいるために、普通になりたかった。

 あの、欠けた家の中みたいな自分じゃなくて。

 影が差すような心じゃなくて。


「こんな自分、思い出したくなかったな……」


 俺は、何も欠けていない自分になりたかったんだ。

 まっさらな普通になりたかったんだ。

 お嬢と出会った時に降っていた、あの雪のように――――。


     ☆


 送迎車に戻ると、出た時と変わらず窓の外を見つめたまま、お嬢は車内に座っていた。窓にはちょうど振り出した雨が張り付いて、彼女の瞳の輝きを曇らせている。


「ただいまです」


「……ん」


 お嬢は、おかえりなさい、とは言ってくれなかった。

 隅っこに座っている天堂さんは、猫が丸まって怯えているかのよう。


(なんで、言い出せない? 記憶が戻ったこと……)


 すぐにでも言うべきだ。普通に考えれば。それが使用人として当然の行動だ。

 なのにどうして俺は言い出せずにいる?


(……浅ましい)


 自分でも分かっているからだ。

 このまま黙っていれば、やり直すことが出来ると。

 お嬢に対して何も後ろめたく思うことなく、今度は普通の人間として彼女の傍にいることが出来ると。


「どうだった?」


「え、っと…………」


「海外で一緒に暮らさないかって、誘われたんでしょ?」


 光里からの提案を知っているのだろうか。

 ……もしかしたら事前に話をしてあったのかもしれない。


「……もし、光里や母さんと一緒に暮らしたら……俺は、なれますかね。普通の高校生ってやつに」


 欠落の無い、普通の人間に。

 心の中にいつまでも居座っている、欠けた家の景色は埋められるのだろうか。


「……影人はなりたいの? 普通に」


「そうですね……なりたい、って思ってました。ずっと」


 普通になれば。このまま全てを忘れたままでいれば。

 胸を張ってあなたの傍に立てるから。


「そう、なの……」


 お嬢は相変わらず顔を窓の方に向けたまま、声だけを向けている。

 けれど、その声はほんの僅かに揺れていた。


「……だったら、あなたは妹さんと一緒に暮らしなさい」


「え?」


「普通がどういうものか分からないけれど。迷っているということは、少なからず一緒に暮らしてもいいって、思っているのでしょう?」


 お嬢の言っていることは、正しい。

 迷うようなことじゃないのなら、迷ったりしない。

 乗せられたものが近い重さだからこそ、秤が傾ききれず水平を保っているのだ。


 お嬢の傍に居続けるか。

 欠落の無い普通を求めるか。


「影人」


 しかしその秤は、傾けられた。

 おのずと傾いたのではない。傾け、られた。


「あなたは家族のところに戻りなさい。これは主として下す、最後の命令よ」

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