第47話 兄と妹②

 ――――約束の期日である五日後が訪れた。


 四元院海羽の心の中には焦燥感と無力感、そして悔しさが募っていた。

 あれだけの大口を叩いたにもかかわらず、友人たちの手を借りたにもかかわらず、泳ぎ一つ満足にこなせない。


(……情けない)


 水着に着替えたものの、水の中に入る気にはなれず、プールサイドで一人膝を抱えることしかできなかった。


 これまでの練習で薄々察してはいたが、どうやら自分には精神的な傷があるようだということを海羽は自覚していた。兄に見捨てられた時の記憶は未だに引っかかっている。それを自覚しているだけに、自分への情けなさで押しつぶされそうになっていた。


(トラウマ一つ克服できないなんて……)


 情けない。情けない。情けない。結局はまた自分が劣った人間であることを証明しただけだ。こんな自分を誰が見てくれるのだろうか。


「海羽さん」


「……影人様」


 好意を寄せている男の子と顔を合わせることが今は、辛い。

 申し訳なさと、情けなさと、自分のことなど視界から消えてしまうのではないかという、恐怖。


「……申し訳ありません。手を尽くしていただいたのに。あの、兄にはわたくしの方から言っておきますから」


「諦めるにはまだ早いですよ。期日は今日。だったら、今日中に泳げるようになればいいんです」


「ですが、そんなことが……」


「できますよ。差し出がましいかとは思いましたが、そのための特別講師をお呼びいたしました」


「特別……講師……?」


 影人の口ぶりだと、なぜか今日は姿を見せていない天堂星音や羽搏乙葉ではなさそうだ。しかし、それ以外に誰が来るというのだろうか。

 予想のつかない特別講師の存在に首をかしげる海羽の前に現れたのは――――


「お、お兄様……!?」


 四元院嵐山しげんいんらんざん。海羽の兄であり、今日成果を見せるはずだった相手だ。


「な、なぜお兄様が……?」


「先ほど申し上げた通り、特別講師です」


「なっ…………!?」


 わけがわからなかった。成果を見せて判断を下してくるはずの相手が、わざわざ特別講師というていで自ら教えに来るなど。


「ストレッチは済ませているのか」


「え? い、一応は……」


「そうか。ならば少し待っていろ。私も済ませる」


「え? え?」


 なぜか水着姿になっていた兄は、堅物顔はそのままに、きびきびとした動きでストレッチをはじめた。


「え、影人様……? あの、これは、どういう……?」


「俺たちじゃダメだったんですよ」


 影人は真っすぐに海羽の目を見る。目の前にいる四元院海羽という人間を、正面から見てくれる。


「沈んでいく海羽さんが必死に伸ばした手をとるのは、俺たちじゃダメだったんです。あなたの手をとることができるのは、きっと――――あなたのお兄様だけなんです」


「…………ですが、わたくしは……」


 手を取ってもらえなかった。すり抜けた手のことは今でも覚えている。


「信じられないのも分かります。なら、俺を信じてはもらえませんか?」


「影人様を……?」


「俺が傍にいます。たとえまた水面の底に沈もうと、必ず助けます。だから、信じてお兄様の手をとってみませんか?」


「…………わかりました。影人様を、信じますわ」


 これまで様々な方法を試して上手くはいかなかった。ならば新しい方法を試してみるべきではあるだろう。そう、自分に言い聞かせながら頷くと、影人は優しく微笑んだ。


 影人を信じる。それはまるで海羽が頷きやすいように用意した言い訳のようで、海羽がその言い訳がなければ頷くことが出来ないことすら見抜いていたようで。そのことに多少、やや、ほんの少し、面白くないと思わなくもない。


 海羽はプールの中へと足を浸す。ひんやりとした水の感触に、僅かに身を震わせながら。やがてストレッチを済ませたらしい兄もまた、同じようにプールへと入ってきた。


「…………」


「…………」


 会話が無い。当然だ。もともと、兄とはそりが合わない。

 ましてや五日前の時点でも喧嘩していたようなものだ。噛みつく以外の会話など、あるはずもない。


「…………なぜ、このようなことを?」


 出てきた言葉は噛みつくように。だけど当然の疑問。


「あなたはわたくしが泳げない方が、都合がよいのではありませんか?」


「いや。むしろ逆だ。お前が泳げるようになった方が、私にとっては都合がいい」


「では、なぜあのような賭けを? 賭けの内容なんていくらでもあったはずでしょうに」


「…………心のどこかで望んでいたのだろうな。自分が犯した取り返しのつかない過ちを、誰かが消してくれることを。奇跡でも偶然でも、愛の力でもなんでもいい。とにかく誰かに、なんとかしてほしかった」


 兄が言っているのは、あの日のことだ。

 溺れて水面の底へと沈みゆく手を取ってくれなかった、あの時のことだ。


「自分の罪から目を逸らし、お前から目を背けていた」


「なにを……なにを、今更…………なぜ……」


 兄からの懺悔に対してこみあげてくるのは赦しではなかった。

 しかし怒りでもなく――――純然たる疑問。知りたかった真実の問いかけ。


「今更そんなことを言うぐらいなら、なぜ……わたくしの手を、とってはくださらなかったのですか……?」


 知りたかった。伸ばした手をとってくれなかった理由を。

 あの日からずっとずっと、知りたかった。


「わたくしを見限ったのでしょう?」


 見限られたと思っていた。だから手を掴まれなかった。

 見限られたくなくて。振り向いてほしくて。見てほしくて。

 努力して努力して努力して。だから、天才に勝つことに固執した。天堂星音を上回ることができれば、彼女に一度でも勝つことが出来れば、見限られないと。手をとってくれるはずだと。

 しかし実際には勝つことは叶わず、誰も自分のことなど視界にすら入っていないと思っていた。

 家族からすら見限られた自分を見てくれる者など、どこにもいないと思い込んでいた。


「あの日から、あの時から、わたくしは……お兄様に、見限られた。だから、お兄様は――――」


「違う」


 返ってきたのは、力強い否定の言葉。


「私はお前を見限ったことなど一度もない。失望したことも、落胆したこともだ」


 声が震えている。それは海羽だけではなく、兄も同様だった。

 同じだ。海羽が今、恐怖で震えているように――――兄もまた、恐れているのだ。何かを。


「……見限られるとすれば、私の方だ」


「何を……」


「私は捨て子だ。四元院家の血は入っていない」


 一瞬。世界から、音が消えた。


「私は養子であり、父や母、そしてお前とも血が繋がっていない。この事実を知ったのは、あの日の少し前だ。そしてあの時……お前の手をとらなかったのは、考えがよぎったからだ。お前がここで溺れてしまえば、四元院家の子供は私だけになる。私だけを……見てもらえる。見限られることもなくなる。見捨てられることもなくなる。そう思った」


 少し遅れて風の音が。水の揺らぎが。波のさざめきが。鼓膜を微かに震わせる。


「怖かった。いつか捨てられるのではないかと。本当の娘だけを必要とし、私は捨てられるのではないかと。私たちの父も、母も、そのような人物ではないと骨身にしみて理解していたというのに。怖かった。恐ろしかった。私はその恐怖に負けた。……私の脆弱な心が、お前の命に死の危機をもたらし、心に深い傷を負わせた」


 そして兄は。深々と、頭を下げた。


「全ては、私の責任だ」


 こんな兄の姿は初めて見る。無論、ビジネスの場では頭を下げることもあるだろう。

 だけどそうした利益も見返りも何もなく、自分に頭を下げてくる日が来るなど――――考えたこともなかった。


「……わたくしに、厳しくあたっていたのは?」


「私は自分の心の脆弱さを恥じ、悔いていた。お前には私と同じ思いはしてほしくなかった。だから、心を強く持ってほしかった。強く在ってほしかった。いつかお前が、四元院家の当主の座についた時、それは必要になるものだろうから」


「……わたくしが? 当主の座に?」


「時が訪れれば権利を放棄し、当主の座を譲るつもりだった。当主の座は、四元院家の血が流れるお前が持つべきものだからな」


「では、日々の仕事はそのために……」


「四元院家をより強固なものにし、お前に手渡したかった。お前がただ、平穏に、幸福に暮らしてゆけるように。それが私に出来る唯一のことだと思っていたから」


「…………」


 兄は、ただ自分のことを嫌っているのだと思っていた。だから厳しくあたっているのだと思っていた。

 兄は、ただ四元院家の繁栄のみを考えているのだと思っていた。だから己の命を削るようにして働いているのだと思っていた。


「だが……全ては言い訳だな。私はただ、自分の犯した過ちから逃げていただけだった」


「………………」


「どんな罰でも受け入れよう。私にはただ、謝ることしか出来ない」


 ただ首を垂れる兄は、まるで断頭台に立つ罪人のようで。

 そんな兄を見て、海羽は――――深いため息を吐いた。


「はぁ……実際に訊いてみると、想像以上にくっだらない理由でしたわね」


「………………は?」


 兄は顔を上げ、ぽかん、と口を開ける。


「知っていましたわ」


「知っていた? 何を?」


「わたくしとお兄様の血が繋がっていないことぐらい」


「………………………………なんだと!?」


 どうやらこの事実は相手にとっては衝撃的なものだったらしい。

 これまでに見たことのないような兄の間抜け面を見て、海羽は少しだけ気分が晴れた。


「確証はありませんでしたが、まあ、薄々とは」


「な、なぜだ……徹底的に隠してきたはずだ」


「だからこそ、です。身内に対しても徹底的に隠しているからこそ、怪しいと感じていましたの。何かしらの病を患っている様子ではなかったですし、特にあなたの血液データは厳重に管理されていましたから。ここまで揃えば、予想することは難しくありません」


 唖然とした様子の兄にますます気分がよくなる。

 ここまで動揺している兄の顔を見るのは、おそらくはじめての経験だ。


「血が繋がっていないことなど些細な問題です。わたくしたちは家族であり兄妹です。今までもこれからもそれは変わりません。そして妹として言わせていただきますけど、わたくしがあなたを見限ると、本気で思っていたのですか? だとすれば随分と侮られたものですわね」


 その怒りを込めた一言に、兄はただ圧倒されていた。


「わたくしは……いいですか。これは一度しか言いませんが……わたくしは、あなたを尊敬しています」


「――――っ……!?」


 これまでに見たことのないような兄の間抜け面を見て、少しだけ気分が晴れる。


「誰よりも自分に厳しく、努力を重ね、誰からも次期当主として相応しいと目されるまでに至り、実際に家のために常に結果を出し続けるあなたの背中を見て、わたくしは育ちました。あなたに認めてもらいたいと思うのは自然なことでしょう? 業腹なことですが」


 本当に業腹だ。兄のことは認めている。だが嫌いでもある。当然だ。あれだけ辛く、厳しくあたられて慕えるはずもない。しかしやっぱり、心の底では認めているのだ。偉そうにできるだけの、ぐうの音もでないほどの努力を積んでいることを知っているから。


「時が訪れれば次期当主の座を譲るつもりだった? ふざけないでください。そんな……あなたの苦労と努力を踏み台にした空っぽの玉座に居座って、わたくしが幸せだとでも? そんなもの、こちらからお断りいたしますわ」


「だが……私には、お前に償えるようなことは、他には、何も……」


「はぁ…………」


 思わず、とてもとても大きなため息が出てしまった。

 どうやらこの兄は、とことん言ってやらなければならないらしい。


「当主の座など、わたくしは求めていません。そんなものを用意する必要など最初からなかったのです。あなたはただ、一言素直に『ごめんなさい』と謝ればそれでよかったのです」


「それだけで、よかったのか……?」


「そうです。さあ、今なら謝罪の言葉も受け入れてさしあげますが」


「…………ごめんなさい」


 ごめんなさい、と素直に謝る兄の姿はどこかおかしくて、思わずふっとした笑みが零れてしまう。心の中で凍てついていた何もかもが、雪解けのように去っていくかのようだった。


「……何を笑っている」


「いえ。別に? ただ、このような堅物の大男が『ごめんなさい』と謝っている姿は、なかなかに滑稽だなと」


「……私が言うのもなんだが、知らぬ間に随分と言うようになったな」


「そうかもしれません」


 それはきっと、ここ五日間の練習に付き合ってくれたどこかの誰かさんたちの影響だろう。


「……そういえば。もう一つありましたわ。あなたにしてほしい償いが」


 僅かに震えそうになる体を抑える。目線を送る。見守ってくれている、影人へと。

 彼は最初からこうなることが分かっていたかのような優しい眼差しで見守ってくれていて、そんな彼を見ていたら、最後の震えも消えた。


「今度は……ちゃんと手を掴んでください」


「……ああ。もちろんだ」


 妹は手を差し出す。そして兄は――――今度こそ、その手を掴んだ。


     ☆


「なんとか丸く収まったみたいね」


「……はっぴーえんど」


「お嬢。乙葉さん」


 兄妹の様子をプールサイドで見守っていると、お嬢と乙葉さんが遅れてやってきた。

 どうやら二人なりに海羽さんに気を遣ったらしい。


「ちょっと、お兄様! もう少しゆっくりと引っ張ってください!」


「十分にゆっくり引っ張っていると思うが……」


「もっとです!」


「ぜ、善処しよう……」


 きっと、海羽さんは今日中に泳げるようになるだろう。そんな予感があった。


「嬉しそうね。影人」


「……そうですね。嬉しいです。とても」


 海羽さんの心の傷を少しでも癒すことができたのなら、友人としてこれ以上に嬉しいことはない。何よりも。


「やっぱり家族は、仲良くできればそれが一番ですよね」


 海羽さんと嵐山さんはに血の繋がりはない。

 しかしあの二人は紛れもなく兄妹であり家族だ。それが、どこか……羨ましいと、思ってしまう。


「……ま、よその家族のことは置いといて。見たところもう大丈夫そうだし、私たちは夏休みを楽しみましょう」


「……プールで水遊びはもう十分した。今度は山に行く」


「あらそう。どうぞご自由に。遭難しても救助してあげるから、一人で存分に山遊びしてきなさい」


「……一人じゃない。影人も一緒だから。星音は一人で川遊びでもしてればいい」


「いいですねぇ。山も川も」


「「ちなみに影人はどっちが好き?」」


「俺はバイトがあるので山も川も行けませんが」


「「……………………………………………………」」


 二人の空気が一気にお通夜になった。俺のことなんか放っておいて行ってくればいいのに。優しいなぁ。


「私が言うのもなんだけど、バイト漬けが本当に普通の高校生らしい夏休みなの?」


「……普通の高校生らしい夏休みが送りたいなら、もう少し遊ぶべき」


「うっ。それもそうですね」


 そういえばもとはといえば普通の高校生としての夏休みを体験するためのバイトだった。

 けど普通……普通かぁ……。


(普通の高校生って、どうすればなれるのかなぁ……)


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