第42話 泳ぎの練習①
海羽さんは俺の想像を絶するほどのカナヅチだった。
嵐山様とのことがなくても、海羽さん自身の安全のために泳げるようになっておくことは必要だろう。
(海羽さん自身のためか……)
思わず表情が綻びそうになる。いけない。夏休みだからって俺も気が緩み過ぎだ。
「……影人様? どうかされましたの?」
「あ。すみません。少し考え事をしてました」
兎にも角にも、今は海羽さんを泳げるようにすることに集中しよう。
何にせよ海羽さんのカナヅチの克服が最優先だ。
「フッ……どうやら苦戦してるようね。影人」
「……わたしたちの出番」
と、不敵な笑みと共にお嬢と乙葉さんの二人が合流してきた。
お嬢は赤いビキニを身に着けていていた。腰にはパレオを巻いており、全身の赤い装いはお嬢の天真爛漫で勝気な正確を体現しているかのようだ。夏すらも支配下に置く太陽の女神と讃え称しても足りないぐらいの、眩い美しさを放っている。
乙葉さんは、胸元に可愛らしいフリルがあるタイプの真っ白な水着。
無垢な清純さを彷彿とさせる色合いは乙葉さんの白い肌と噛み合っていて、夏の涼し気な風に全身を包み込まれたような錯覚すら覚える。お嬢が太陽だとすれば、乙葉さんは月の天使のような神秘的な美しさと称しても過言ではない。
お嬢と乙葉さんが合流すると、あらためて海羽さんの美しさに感嘆する。
この二人と肩を並べても一切見劣りしない。比較することや優劣をつけることが、とても罪深い行為に思えてくる。
淡い水色の水着に、それが包み込んでいる抜群のプロポーション。海羽さんの御淑やかさや悪戯っぽい、内面的な魅力も引き立てるような装い。女神、天使ときて、たとえるなら海の妖精だろうか。
「影人。どうかしら? 新しい水着にしてみたんだけど」
「とても美しいです。お嬢も、乙葉さんも、海羽さんも」
「……どれぐらい?」
どれぐらい? 言葉にするとそれだけで詩集が完成してしまう。
それに乙葉さんが求めているのはきっと『基準』ではなく『感想』だ。
できるだけ短く、かといって簡素になり過ぎず、俺自身の感想も混ぜて言葉にすると……。
「精神攻撃への耐性訓練を受けていなければ、あっという間に恋に落ちていました!」
「ちょっと天堂星音ぇ――――――――! あなたいったいどんな訓練を受けさせてますの!?」
「私がききたいぐらいよぉ――――――――!!!!!!!!!」
凄い。今のお嬢と海羽さんの叫び、魂が込められていた迫真の叫びという感じがする。
「お、お嬢? どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないわよ! 憤然なんて当然よ! 何よその訓練は!? 誰よ諸悪の根源は!?」
「落ち着いてください。取り乱し過ぎて韻を踏んでます」
「落ち着く……落ち着く……そうね……よくよく考えてみれば諸悪の根源なんてあのクソボケお父様しかいないのだから……」
旦那様。知らないところであなたの娘が、あなたのことをクソボケ呼ばわりしています。
「待ちなさい天堂星音。あなたは天堂家の次期当主として、この落とし前はどうつけるつもりですの?」
「……これは罪深い。許されることではない」
「返す言葉もないわ。今度お父様を拷問して事情を吐かせるから、それで手打ちにしてちょうだい」
「……内容は?」
「夏だし水中逆さ吊りでどうかしら」
「……風情があっていいと思う」
「この辺りが落としどころですわね」
本人不在の中、旦那様の拷問が満場一致で決定した。
「そ、それはともかくとして、海羽さんの練習に戻りましょう!」
…………申し訳ありません旦那様。俺が何かやらかしてしまったようです。
今の俺にできるのは、皆さんの注意と興味と話題を旦那様の拷問から逸らすことが精いっぱい……。
「そうね。とりあえず今は四元院海羽のカナヅチを克服するのが先決ね…………電気椅子」
「……今まで出来なかったものを五日間で出来るようにするのはとても大変…………火炙り」
「時間がいくらあっても足りません。集中して密度の高い練習を行い、五日後にお兄様に吠え面をかかせなくては…………重り付きパラシュート無しスカイダイビング」
ダメだ。三人の心が未来の拷問に引きずられてる。しかも火水風土の四大属性に加えて雷まで加えてる。隙が無い。というかもはや拷問どころかただの処刑になってないだろうか。
こうなったら旦那様の強度にかけるしかない。あの方のことだからたいていの拷問は大丈夫だろうけど、お嬢のことを溺愛していらっしゃるからなぁ……精神の方がもつかな。
「えーっと……とりあえず、海羽さん。もう一度、泳いでみてくれませんか? お嬢と乙葉さんにも現状を知ってもらった方がいいと思うので」
「ん。わかりましたわ。フッ……そこで見ていなさい、天堂星音。羽搏乙葉。わたくしの華麗なる白鳥が如きフォームを!」
海羽さんはとても自信に満ちた表情と共に、水の中に突っ込んだ。
「がぼごぼぼぼぼぼぼぼぼぼ」
そして、やはり犬●家のような体勢になって沈んでいった。
「……………………………………犬●家?」
お嬢が俺と全く同じ感想を口にした。
「……影人。さっき、海羽はどんなフォームって言ってたっけ……?」
「白鳥です」
「……悪霊じゃなくて?」
「違います」
乙葉さんが勘違いするのも分かるけど違うんです。白鳥なんです。
「ぷはっ! ふぅ……ふぅ……先ほどよりコツは掴めましたわ。あと一息、というところですわね」
「は??? あと何千兆回『一息』を繰り返すつもり? アンタが泳げるようになる頃には先に宇宙の寿命が尽きてるわよ」
「……まず自分が白鳥ではなく悪霊であることを自覚するところから始めるべき」
散々ないいようだが、今の海羽さんには忌憚のない意見が必要なのかもしれない。
だってそれぐらいヤバいから。
「はぁ……正直、アナタが泳げようと泳げなかろうと構わないと思っていたのだけれども、これを野に放つのは世間様に申し訳が立たないわ。私の穢れなき良心を護るためにも本気で特訓してあげる」
「…………わたしも社会奉仕と思って真剣に協力する。せめて生霊になろうね」
「っふぅぅぅぅ……お二人とも、わたくしの心が海のように広いことに感謝なさい?」
…………よし! なんとか皆さんの心がまとまったな!
三人の間に漂う忙しない威圧感の嵐を見なかったことにして、とりあえず海羽さんの特訓を進めることにした。
だが闇雲に練習しても意味は無いし、時間も限られている。
何より船頭多くして船山に登るではないが、俺とお嬢と乙葉さんの三人も教え役がいると、かえって海羽さんも混乱してしまう。
そこでとりあえず、俺たち三人の各々が最良と信じる練習方法を軽く試してみることにした。
いったん三通りの練習方法を試してみて、その中で一番しっくりくる練習方法で残りの時間を使うという算段だ。
「まずは私の番ね」
ここで一番に名乗り出たのはお嬢である。
「そもそも今の時代、がむしゃらに身体を動かして特訓……なんて古すぎるのよ。人体の構造と機能を把握し、水の抵抗と仕組みを理解し、理論を組み立て、科学的アプローチも視野に入れて特訓すれば、どんなカナヅチでも五日どころか五時間で泳げるようになるわ」
流石はお嬢だ。いきなりなんかそれっぽい。
きっと俺のような凡人には理解の及ばぬ叡智を授けてくれるに違いない。
「それは一理ありますけど、具体的にはどのようにするつもりですの?」
「慌てないで。まずはお手本を見せてあげる。影人、協力してくれるかしら?」
「勿論です」
「ありがとう。それじゃあ、まずは私もプールに入って……」
お嬢はプールの中に入ってくると、そのまま俺の目の前まで近づいてきた。
「で、影人。私を抱っこしてくれる?」
「分かりました」
宝石よりも眩く、硝子細工よりも繊細で、触れれば消えてしまう奇跡を扱うように、慎重かつ丁寧にお嬢の柔肌に触れ、抱きかかえる。お嬢はそんな俺に細腕をまわして身体をしっかりと密着させる。
(………………っ)
水着という布面積が少ないことを特徴の一つとしている装いであるが故に、普段は触れあうことのない箇所に肌が触れる。布がある場所も、薄布越しだといつもより存在感が強い。何より……信頼感故のものだろうか。お嬢の……発育の良い柔らかな胸が、胸板に押し付けられながら形を変えている。
一時的にとはいえ天堂家を出て、普通の生活を送ろうと心がけているからだろうか。
心拍数が上昇するが、お嬢に気づかれる前に速やかに抑え込む。
「……お嬢。ここから俺は何をすれば?」
「そうね……このままプールの中を一周してくれるかしら?」
言われたまま、俺はお嬢を抱きかかえながらプールの中を一周する。
時折、お嬢の吐息が首筋や頬を撫で、くすぐったい。……本当に危ない。訓練を受けていなければ色々と危なかった。だが精神の修行には良いかもしれない。
……と、そんなことを考えている内に一周し終わった。
「お嬢。次は何をすれば?」
「私を降ろしてちょうだい」
「はい」
慎重に腕から降ろすと、お嬢はプールからあがり、奥の方へと消える。
かと思ったら、機械のようなものを詰めた箱を両腕で抱えて運んできた。
「さて。この箱には私が開発した、泳ぎを含めた水中での活動を補助するメカが入ってるわ。これを使ってまずは効率的なフォームを身体に覚えさせて――――」
「……星音。待って」
「まずはこのヘアピンをつけて。スイッチを入れれば、頭を覆う空気のヘルメットを作り出すわ。エネルギーが保つ間は自動的に空気を供給し続けるから、万が一溺れるようなことがあっても呼吸は確保されるから……」
「待ちなさい天堂星音。サラッと凄すぎる機械を出していますが待ちなさい」
「はぁ……何かしら。まだ説明の途中なのだけれど」
「「プール抱っこを挟んだ意味は!?」
俺も気になっていたことを、海羽さんと乙葉さんの二人が物凄い勢いで追及した。
果たして、さっきの行為に一体何の意味があったのだろうか。謎だ。
「そのことね。……もしかして気づかなかったの?」
「…………っ? いえ……わたくしは何も」
「……………………わたしも」
二人の勢いに比べて至極冷静な状態に、逆に勢いを削がれた海羽さんと乙葉さんは首を横に振る。そんな二人に、お嬢は出来の悪い生徒に困った教師のように「やれやれ」とでも言わんばかりに肩をすくめる。
「私が幸せになったわ」
「ぶちころしますわよ」
海羽さんがキレた。
「……………………」
対して、乙葉さんは何やら考え込んでいる。何を考えているのか。表情からは読み取れない。
「ま、まあまあ。まあまあまあ。落ち着いてください海羽さん。とりあえず、お嬢の作ったメカを試してみましょう」
「ぐぬぬぬぬぬぬ……」
五日という限られた期間と、兄である嵐山様に対して目にもの見せてやりたいという気持ちが勝ったのか、言われるがままお嬢のヘアピンをつける海羽さん。
「つけましたわよ」
「そのヘアピンにはさっき説明した空気を供給してくれる機能だけじゃなくて、私が開発した補助AIが搭載されてるの。脳に電気信号を送って理想的な泳ぎのフォームを身体に命令してくれるわ」
「凄いですね。あんな小さなヘアピンにそこまでの機能があるなんて」
「大したことないわ。ラッキースケベ誘発装置の副産物の詰め合わせみたいなものだし」
……………………今のは聞かなかったことにしよう。
「では……いきますっ!」
海羽さんは水中へと飛び込み――――そして、犬●家になることなく、理想的なフォームのクロールで泳ぎ始めた!
「すごい! 海羽さん、泳げてますよ!」
「ふふふ……当然よ。私の作った
お嬢が得意げになるのも分かる。海羽さんは水泳選手顔負けのクロールで泳ぎ続け、そのままプールの端に到達した。かと思えば、そのまま鮮やかなクイックターンを決めて戻ってきた。さっきまでは一メートルも進んでいなかったのに。AIの補助があるとはいえ物凄い進歩だ。
「海羽さん、一度休憩してもいいんですよ」
「…………………………………………」
「……海羽さん?」
「…………あのっ…………これ…………いつ…………止まりますの……?」
海羽さんは止まることなくひたすら泳ぎ続けていた。
「お嬢、いつ止まるんですか?」
「スイッチを切ればいいのよ」
「ですが脳に電気信号を送って、泳ぎの動作を強制的に実行させている状態なんですよね? スイッチを切る動作が出来ないのでは?」
「………………………………あっ」
どうやらそこに思い至らなかったらしい。
結局、泳ぎ続ける海羽さんをお嬢と二人で救出することになった。
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