第43話 泳ぎの練習②

「ぜは――――……ぜは――――……て、天堂星音…………」


「……ホントごめん。いや本当に。完璧だったのよ、理論は」


「理論の前に倫理を学ぶべきでは?」


 流石のお嬢も返す言葉が無いようだ。


「……はぁ。……やれやれ。見ていられない」


 相も変わらずクールな顔そのままに肩をすくめながら進み出てきたのは、乙葉さんだ。


「……星音は下がってて。わたしが指導のお手本というものを見せてあげる」


「羽搏乙葉さん……あなたが歌姫であることは存じておりますが、泳ぎは得意ですの?」


「……勿論。これでも人魚姫を自称している」


 サラッと言ってたけど自称なのか。


「人魚姫って最後は泡になって消えるけどね」


「王子の愛も得られませんわね」


「……やれやれ。負け犬共の嫉妬は見苦しい」


「言われてるわよ四元院海羽」


「言われてますわよ天堂星音」


「「は?」」


 なぜか火花を散らすお嬢と海羽さん。ダメだ。このままだと一生じゃれあっている気がする。ここは話を進めた方がよさそうだ。


「えーっと……乙葉さん、練習方法に何か心当たりが?」


 俺の問いかけに、乙葉さんは静かに頷いた。


「……見たところ海羽は、泳ぐためのフォームをきちんと頭の中でイメージできていない。だからまずは、フォームの確認とイメージトレーニングから始めるのがいいと思う。いきなり泳いでも悪霊まっしぐら」


「なるほど……悪霊とは聞き捨てなりませんが、イメージトレーニングというのは悪くありませんわね。ですが具体的にはどのようにいたしますの?」


「……イメージトレーニングに大切なのは集中力。頭の中で理想的なフォームを何度も反復して、覚え込むこと。そのために……これを使う」


「…………わたくしにはただのアイマスクにしか見えませんが」


 乙葉さんが取り出したのは、なんの変哲もないただのアイマスクだ。

 遮光性に優れていると評判のメーカーのものだが、言ってしまえばそれだけだ。先ほどのお嬢の規格外にもほどがある超技術ヘアピンのような仕掛けや機能もない。ネットで注文すればすぐに買えそうなもの。


「……これはただの目隠し。視界を封じて、イメージに集中するためのもの……はい。星音の分もある」


「私もするの?」


「……せっかくだし」


「…………まあ、別に構わないけどね。歌姫様のトレーニング法にも興味あるし」


 乙葉さんから受け取った黒いアイマスクをつける海羽さんとお嬢。

 これで二人の視界は完全に封じられた。


「……泳ぎのフォームをひたすら頭の中で繰り返して。理想的な動作を身体に覚えさせることを意識しながら」


「……………………イメージトレーニングだけで本当に泳げるようになりますの?」


「……イメージは大事。失敗のイメージはパフォーマンスにも影響が出るし、拭い去ることも難しい。逆に成功のイメージが染み付いていれば、それはプラスに働く」


 歌姫『羽搏乙葉』というトップアーティストとしてのアドバイスは、不思議とこの場にいる全員を納得させる力があった。お嬢と海羽さんは乙葉さんの言葉を受けて、黙々とイメージトレーニングに集中する。


「乙葉さん。せっかくだし俺もやってみていいですか?」


 お嬢と海羽さんの集中を切らさないように小声で話しかけると、乙葉さんはこくりと頷いた。


「……いいよ。でも、目隠し用のアイマスクはもう品切れ」


「大丈夫ですよ。俺は眼を閉じ「……るだけじゃ十分じゃないから、わたしが目隠ししてあげるね」えっ……あ、はい」


 言い切らないうちにゴリ押しされた。断ることを許されない圧力だった。


「……海羽や星音の邪魔になったらいけない。離れたとこでやろ」


「分かりました」


 とりあえず乙葉さんに指定された場所で座って待っていると、彼女は俺の背後に回り込んできた。


「……はい。どうぞ」


 すると、乙葉さんの白くて細い、妖精のような手が俺の目元を優しく包み込んだ。アイマスク代わりの、手での目隠し。このまま「だーれだ」なんて言われてもおかしくないような体勢だ。


「ありがとうございます」


「……どういたしまして」


「ところで、乙葉さん……」


「……なーに?」


「…………近すぎませんか?」


 乙葉さんは俺の背後から目隠ししてくれている。それはまだいいが、問題はその距離だ。俺と乙葉さんの間に広がる空間を端的に数字で表すと、『ゼロ』である。即ち、彼女の新雪のような無垢な肌が、俺の背中にぴったりと接触している状態にある。何より水着という薄布越しから感じる女性特有の柔らかな感触。加えて今は視界が塞がっている分、背中の感触にも敏感だ。落ち着かない。鍛錬を積んでいなければ危なかった。


「……そんなことない。影人の集中力が足りていないだけ」


「俺の集中力?」


「……集中していればこんなこと気にしない」


 一理ある。イメージの世界に集中していれば、現実の感覚を遮断することもできる。


 俺がまだまだ未熟だった頃――――天堂家を狙う手練れと戦ったことがあったな。あいつは手強かった。一時的に痛覚を遮断することで勝利を収めたあの戦いの時のように、この背中から感じる柔肌とふくらみの感覚を意図的に遮断するんだ。


「……集中できた?」


「はい。初心に帰りました」


「…………?」


 お嬢をお守りするために今も鍛錬は欠かしていない。

 合間を見てやってはいたが、すっかり初心を忘れてしまっていたようだ。乙葉さんには感謝だな。


「…………………………」


 水中での理想的な動きをイメージする。元からイメージトレーニングは積んでいる。

 だが今は乙葉さんのおかげで、かつてない集中状態になることができている。そのため、かなり質の良いトレーニングができているという実感があった。


「……影人は普段からイメトレをしてるんだね」


「分かりますか?」


「……うん。集中してるのが伝わってくるから」


「乙葉さんのおかげですよ」


 極限まで高まった集中力が生み出したイメージは、もはや現実と遜色がないほどの感覚を俺に与えている。


 今、現実の俺は間違いなくプールサイドにいる。

 だがイメージの中の俺は、水の中に居る。


 今、現実の俺は間違いなく呼吸ができている。

 だがイメージの中の俺は、水中に居るため呼吸ができない。


 あるはずのない水の感触を、冷たさを、揺らぎを、感じていると錯覚するほどに、集中している。


「……じゃあ、影人には応用編」


「応用編、ですか」


「……わたしはこれから影人に話し続ける。集中力を途切れさせずに、わたしの言葉に合わせてイメージを変化させて」


「なるほど。面白そうですね」


 一人でイメージトレーニングを積むことは慣れているが、この形式はやったことがない。試してみよう。


「……いくよ」


「いつでもどうぞ」


「……海の中」


 今まではプールの中だったが、乙葉さんの言葉に沿ってイメージを切り替える。


「……影人は海の中から、白い砂浜まで上がってくる」


 イメージの中の俺は海の中から浮上し、乙葉さんの言葉通り海を出て、白い砂浜に足を踏み入れた。


「……砂浜にはわたしがいる。水着姿の羽搏乙葉」


 水着姿の乙葉さんを思い浮かべる。先ほど見たばかりだから思い浮かべるのは容易だ。

 それどころか肌を接触させている分、そのリアリティはかなり高まっている。

 ……そうか。乙葉さんはこのために敢えてこの体勢を……それに、こうやって視界を塞いでいるからだろうか。耳元で囁くような乙葉さんの声、ごく僅かなテンポの揺らぎが、強固なイメージとなって俺の脳に流れ込んでくる。流石は世界最高峰のアーティストだ。声や囁き方一つでここまでのイメージを与えて来るなんて……何かの記事で言われてたっけ。歌姫『羽搏乙葉』の歌声は、聴く者に歌の世界を魅せるとあるが、その意味が理解できた気がする。


「……影人とわたしは砂浜を歩いてデートを楽しんでる」


 ………………………………………………散歩のことかな?


 うん。散歩だ。きっとそうに違いない。


「……影人。集中」


「………………はい」


 余計なことは考えるな。集中だ。集中するんだ、俺。

 乙葉さんの言葉という流れに逆らわず、イメージを固めるんだ。


「……周りにはわたしたち以外に人はいない」


 周りには俺と乙葉さん以外に人はいない。


「……近くには隠れられそうな岩場がある」


 近くには隠れられそうな岩場がある。


「……影人はわたしをその岩場の陰に連れ込む」


 俺は乙葉さんをその岩場の陰に連れ込む。


「……そして情欲の獣になった影人はわたしの薄布を解き、目の前の肢体を貪り尽くして……」


 そして情欲の獣になった俺は乙葉さんのぉぉおおおおおおおおおお!?


「乙葉さん!?」


「……ここからがいいところだから」


「全然よくないんですけど!?」


「……………………影人はわたしの白い肌に、唇で赤い印をつけて……」


 ダメだ! この人まったく聞く耳を持っていない!

 というか手の力つよっ!なかなか解けないぞ!?


「…………と、いうのは全て嘘で、影人は泥棒猫を振り払い私のもとに戻って……」


「…………と、いうのも戯言に過ぎず、影人様はわたくしのとったホテルの一室に……」


 おかしい。聞き覚えのある声が介入してきた。


「お嬢? 海羽さん?」


「待ってなさい影人。すぐに私がこの人魚の皮を被った悪魔から引き剥がしてあげるから」


「……悪魔なんて人聞きの悪い」


「わたくしたちから影人様を引き剥がすために姑息なイメトレを画策しているのですから十分に悪魔でしょうに!」


「しかもなに自分の歌声さいのうを存分に利用してるのよ!」


「というかなんだったんですの今のイメトレ!?」


「……イメトレはわたしなりに真剣に考えた方法。そこに嘘はない。ただちょっとついでに影人との逢瀬を楽しんでただけ」


「なァにがちょっとよ! ガッツリだったでしょうが!」


「というかあなたたち邪魔するなら出て行ってくださる!?」


 ――――と、友人三人組のじゃれあいはありつつ、この後も練習に励みながらも目立った成果は得られず、一日目は終了した。


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