第39話 次期当主
「……♪」
機嫌よく鼻歌を歌う海羽さんは、先ほどからすれ違う人々の目を惹きつけてやまない。
傍から見れば妖精のような美貌なのだから当然だとは思うのだが、しかし俺の腕を掴む握力は妖精とは思えぬほどだ。……ダメだ。脱出できない。無理やり解くわけにもいかないし。
「あ、あの、海羽さん?」
「なんでしょう? もしかして、お部屋に何か不満でも? ご安心ください。最高級の部屋を抑えておりますので」
「そういう問題ではなくてですね。流石に男女が同じ部屋で寝泊まりというのは、四元院家のご令嬢として些か……いや、かなり問題かと……」
「ふふふ。それについてはご心配なく。わたくしとて、その辺りのことはきちんと考えておりますもの」
「そ、そうですよね」
流石は海羽さんだ。こういう時、お嬢のことを思い浮かべるのは失礼なんだろうけど……お嬢だったら、かなり無理やりな理屈でゴリ押ししてくるところだった。
「よろしければ、海羽さんのお考えを訊かせていただいても?」
「構いませんわよ。ですがその前に、一つだけ確認することがありますわ」
「なんでも確認してください」
「影人様は、こういう言葉をご存知でしょうか?」
海羽さんはパーティーで幾人もの男たちを虜にする微笑を浮かべながら、
「――――『バレなければ何をやってもいい』」
「バレなくてもやっていいことと悪いことはあると思いますが!?」
笑顔でものすごいこと言い出したぞこの人。
「……というかこれは四元院家……いえ。海羽さん自身の評判にもかかわる話ですし」
「お心配には及びません。……わたくしの評判など、あってないようなものですから」
「それは……」
どういうことでしょうか、と問いかけようとしたその時だった。
「こんなところで何をしている。海羽」
真夏だということを忘れそうになるほどの冷たい声が。
俺の腕を掴む海羽さんの手が強張るのを感じる。先ほどまで躊躇なく進んでいた足が凍り付いたように止まり、ゆっくりと声の主の方を振り向いた。
「……あら。偶然ですわね。お兄様」
海羽さんは顔に作り笑いを張り付ける。
お兄様と呼ばれた人物は、質の良いスーツを着こなした一人の青年だった。
確か資料によれば歳は二十のはず。現在の身長は……目算で百八十センチほどだろうか。寡黙で厳格な雰囲気を帯びた人物で、武道の心得があるおかげか、近寄り難く隙の無い佇まいをしている。仮に今、この場で襲撃を受けたとしても、冷静に対処するだろうという確信を抱かせた。
(このお方は……)
お嬢が参加していたパーティーで何度か見た覚えがあるし、資料に目を通しているので把握している。この人は四元院家の長男であり、海羽さんの兄にあたるお方……
「何をしているも何も、見ての通りお友達とバカンスを楽しんでいるだけですわ」
「……友達だと?」
ここで初めて嵐山さんの視線がこちらに向けられ――――いや。彼は最初から俺のことに気づいていた。視線を向けずに、意識だけを俺の方に向けていた。警戒していることを悟られぬようにしていたのだ。
「申し遅れました。
「……『天堂家の番犬』が何故ここにいる。お前が天堂星音の傍から離れるとは考えられん。海羽を誑かして四元院家の内部に潜り込む算段でもつけたか?」
すごい! なんてマトモなんだこの人は!
先ほどから見せる隙の無い佇まいといい、厳格な雰囲気といい、ごく当然の指摘や警戒といい、次期当主として模範的すぎる……! これは四元院家も安泰だ!
俺はお嬢をこの世界、否、この宇宙で最も素晴らしい主であると思っている。
そんな主に仕えることができる俺はこの世で最も幸福な役目を持っていると言っても過言ではないと、常々感じている……が、それはそれとして、ここまで『次期当主』として模範的な人を見ると、思わず感動に打ち震えてしまう。これはもう条件反射みたいなものだ(語るまでもないことだが、お嬢の破天荒さは神ですら膝をつきひれ伏す魅力ではあるのだけれど)。
俺の心はもう『模範的な人』への耐性が無いのかもしれない。
「……っ! お兄様! わたくしの友人を侮辱しているのですか!?」
嵐山さんの言葉に対し、反射的とでも言わんばかりの速度で海羽さんがくってかかる。
「影人様は今、一時的に天堂家を離れています。今日はアルバイトとしてわたくしに仕えてくださっているだけですわ。それに、これはわたくしから持ちかけたお仕事です!」
「アルバイトだと? 勝手なことを……まあいい。それで、そのアルバイトの内容とやらはなんだ?」
「お兄様に関係ありますか?」
「私は四元院家の次期当主だ。情報を把握する権利はある。それとも――――私に言えないような、疚しいことでもしていたか?」
「疚しいことなどしていませんわ!」
「なら言ってみろ。ここで何をするつもりだ?」
そう。俺はあくまでもアルバイトであり、海羽さんは雇用主だ。
れっきとした雇用関係。付け加えるなら『友人』という関係でもある。
疚しいことなんて何も………………
「プールのあるわたくしの部屋で、共に寝泊まりしようとしていただけです!」
………………まずい。ものすごく疚しいことをしているようにしか聞こえない。
「………………………………そうか。天堂家の差し金だな?」
「なぜそのような勘違いをなさるのですか!」
ごめん海羽さん。俺が嵐山さんの立場なら同じことを考えると思う。
……くそっ。こんな時だというのに嵐山様のマトモさに感動している自分がいる!
「……楽しい気分が台無しです。お兄様が居ると知っていれば、ここには来ませんでしたわ」
「私がここに来ることは半年前からスケジュールに入っていたことだ。現当主の代理として、すべきことがあるからな」
「あらそうでしたか。知りませんでしたわ。…………家のことなど、わたくしには何も教えてくださらないものですから」
「お前に教える必要はないことだ」
「…………そればかりですわね、お兄様は。昔からいつも……」
「そんなことを気にかける暇があるなら己を磨くことに専念しろ。くだらんことに時間を浪費するな。……だからお前はいつまでたっても……」
「嵐山様」
俺はただのアルバイトに過ぎない。ましてやこれは四元院家の……家族の問題であり、兄妹の問題だ。部外者である俺が口を挟める余地などないのだろう。
「そこから先の言葉を口にしてはなりません」
それでも、俺は敢えて口を挟もう。
「…………何が言いたい?」
「己を磨くことは確かに重要です。四元院家に生まれた以上は必要でしょう。嵐山様なりの叱咤激励であるということも理解しております。……ですが、それ以上の言葉はただ無意味に彼女を傷つけるだけです。どれだけ美しく磨かれた宝石も、傷が重なれば欠けてしまいます」
「一介の使用人風情が咆えたものだな」
「確かに俺は使用人ではありますが、同時に海羽さんの友人でもありますので」
「お前が海羽の友人に相応しい人間だとでも思っているのか? うぬぼれるな」
「アナタの懸念はもっともです。いくら今の俺が一時的に天堂家から離れているとはいっても、海羽さんの友人として傍に置くには不安もあることでしょう。ましてや俺は一介の使用人に過ぎません。海羽さんの友人として相応しくないとお考えになるのは当然のこと……故に。アナタに見定めていただきたい」
「……なに?」
「俺が、海羽さんの友人に相応しいかを」
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