第38話 海

 忘れそうになるが、俺はここにアルバイトをしに来たのだ。報酬をいただく分の働きをするのは当然だ。


 しかし、天堂家のこと……お嬢のことならばともかく、四元院家の作法ともなれば部外者の俺には掴めないことだ。出来れば同じ使用人の誰かに簡単にでも教えてもらいたかったのだけれども……今は違うとはいえ、俺は天堂家の使用人だしな。他所の家の者に迂闊に内部情報は洩らせない、ということなのだろうか。納得できる理屈だな。


 ……だけど、どういうことだろう。なぜ主である海羽さんの傍にいるのが俺だけなんだ?

 他の使用人やボディーガードの姿がまったく見当たらない。気配を探ってみると周囲にいることは分かるのだけど。視界には入らず影のように仕えよというのが海羽さんの指示なのだろうか。だとすればますます、なぜ俺だけがこうして傍を歩くことを許されてるんだ?


「影人様。どうかなされましたか?」


「考えていました。なぜ、海羽さんの傍にいるのが俺だけなのだろうかと」


「ふふっ。他の者をあなたの視界に入れたくないのです。影人様にはわたくしだけを見ていてほしいですから」


「他の人がいたって、俺は海羽さんだけを見ていますよ?」


 なぜなら今の俺は海羽さんの世話係だ。その一挙一動を見逃さぬように注意している。

 無論、周囲への警戒も怠ってはいない。


「…………そっ……う、ですか……」


「海羽さん?」


「も、申し訳ありません。ここまで真っすぐに見られることに慣れていなくて……まさか仕掛けたつもりが、返り討ちにあってしまうとは……」


 なぜか海羽さんに顔を逸らされてしまう。

 ヘンなことを言ったつもりはなかったが、海羽さんにとっては違ったらしい。


「家の者を傍につけていないのは、他にも理由があります。……時に、影人様。あなたは夏休みを利用して、普通の高校生らしい生活を送ることを目的としているのですよね? わたくしの家で働いているのも、アルバイトの一環だと」


 海羽さんの言葉に頷く。この辺りは面接の際にも説明したことだ。


「実はわたくしも同じことを考えておりましたの。ご存知かもしれませんが、わたくしの通っている鳳来桜ほうらいおう学園は一般家庭の生徒も多数在籍しておりますが、世間一般的な『普通の高校』からは少しばかり離れております」


 最近は少子化の影響もあってか生徒数が下降傾向にあり、共学化こそ控えているものの、鳳来桜ほうらいおう学園は歴史と気品を兼ね備えた名門だ。


 実は、お嬢が通う学校として第一候補に挙がっていたところでもある。

 カリキュラムは勿論のこと設備や警備体制も申し分なく、当然ながら俺もお嬢の右腕として太鼓判を押した。


 お嬢様学校、つまり女子校であるため、学園生活を送っている間は俺が傍に居られないという問題点はあるものの、天堂家の人材は厚い。お嬢の身を護るために訓練で高いスコアを叩き出した女性使用人の中でも精鋭中の精鋭をつける予定だった……のだが。


「は? 女子校? 嫌よ。影人と一緒に通えないでしょ」


 ――――という、お嬢の一言で現在の天上院学園になったのだ。


 旦那様と奥様の母校でもあるのでそれはそれで構わないのだけれども、俺がいたせいでお嬢の選択肢を狭めてしまうことになったのは、俺にとって苦い記憶だ。……いや。今は俺の苦い記憶なんてどうでもいいな。


「社会経験として、影人様と一緒に『普通の高校生らしい夏休み』を過ごしてみようかと思ったのです。『普通の高校生』は傍に使用人を置いて遊んだりはしないでしょう?」


「それはそうですが……つまり、俺も今日は世話係アルバイトではなく、あくまでも『友人』として共に行動せよと?」


「そういうことですね。命令……とまではいきませんが、あくまでもわたくしの要望として捉えていただければ」


「それが海羽さんの望みであるなら、叶えるために全力を尽くします。……と言っても、俺も『普通の高校生』らしさというものを模索している段階なのですが」


 普通の高校生らしさ。考えてみると難しい。

 こういう時は誰かを手本にして行動するべきか。身近な人の中で『普通の高校生らしさ』の手本となるような人といえば…………雪道……は、ダメだな。あいつの語る『普通』は不健全だ。だからといって、お嬢を『普通』の枠に入れてしまえば人類の大半が普通以下になってしまうし……普通。普通って難しいな。


 ……いや。難しく考えようとするからダメなんだ。

 ここは素直に、自然に、目の前の海羽さんに集中しよう。海羽さんが楽しい時間を過ごせるようにしよう。少なくともそれが俺にとっての『普通』だ。


(問題は、海羽さんに何を提案するかだな)


 海に来たのにわざわざ水着ではなく、ワンピースに着替えている……つまり海羽さんは、海か……もしくは泳ぎが苦手なのかもしれない。でも、海そのものを嫌っているわけではないのだろう。嫌っていたらわざわざこんなところには来ないだろうし。日傘を持っているのは紫外線対策もあるのだろうが、移動を前提としたチョイスのはずだ。座って眺めるつもりならビーチチェアとパラソルぐらいは用意させてそうだが、それも見当たらない。だったら……。


「海羽さん。まずは一緒に散歩でもいかがでしょう。ここの海はとてもキレイですし、景色でも眺めながらお話しませんか」


「勿論。喜んで」


 俺の提案に海羽さんは天使のように柔らかな微笑を浮かべながら、静かに頷いた。

 透き通るような蒼い海を横目に雑談を交えながら白い砂浜を歩いていくと、同じようにこのリゾートを訪れた人々の、海で遊ぶ楽し気な声が聞こえてくる。


 時折、海羽さんの視線はそうした人々の方へと向けられているのを見て、俺は自然と手を差し出していた。


「海羽さん。そろそろ熱くなってきましたし、足元だけでも海に入ってみませんか? 俺が手を握っていますから」


 四元院家は天堂家に匹敵するほどの名家である。

 海羽さんも上流階層の一員で、だからこそ他者に対しそう簡単に弱みを見せられない。弱みを見せれば付け込まれる。付け込まれれば家全体を危機に晒す。だから四元院家でもそうした『他者に弱みを見せないようにすべし』という教育を受けてきたはず。


 ……ちなみに天堂家の場合はそのへんちょっと緩いというか、そもそも婿入りした旦那様が一般家庭の出だし、幼馴染の奥様も学生時代は本家とは距離をとって過ごされてきたらしいから殆ど一般家庭の出みたいなもんだと仰ってたし。お嬢は弱みを見せて付け込む輩が現れようが力技で何とかしちゃう人だから例外なんだけど。


「…………影人えいと様。もしかして、わたしくしが泳ぎが苦手だと、ご存知だったのですか?」


「…………海羽さんの服装を見て、なんとなくそうなのかなと」


「ふふっ。お散歩を提案したのも、わたくしに気を遣ってくださったのですね」


「すみません。もっとスマートに出来ればよかったんですけど」


「そんなことはありませんわ。嬉しいです。とても」


 逆に気を遣わせてしまっては意味がない。俺もまだまだだな。


「一応、下には水着も着ておりますのよ。影人様がお望みなら、足がつく場所で遊べるように。……よろしければご覧になります?」


「え、遠慮しておきます」


「あら。わたくしの水着姿に興味がないと?」


「そんなことはありませんがっ」


「ではお見せいたしますね」


 …………あれ? もしかして俺、誘導された?


 内心で首を傾げている間にも海羽さんは心なしかゆったりとした手つきで上品で美しいワンピースを捲っていく。身体を覆う布が取り払われ、白くて美しい素肌と抜群のプロポーションが夏空の下に露わになった。その魅惑的な仕草に心臓の鼓動が僅かに加速する。


 ……落ち着け。俺はあくまでも海羽さんの友人だ。心を平静に保て。邪な感情を捨て去れ。天堂家での精神訓練を思い出せ……。


「ふふふ。いかがですか? 今日のために新しいものを用意したのですが」


「とても美しいです。お似合いですよ」


「ありがとうございます。では、エスコートをお願いしても?」


「喜んで」


 再び手を差し伸べ、海羽さんはその手をとる。

 万が一にも離れることがないように二人でしっかりと手を繋いで、蒼い海へと足を浸す。


「冷たくて気持ちいいですわね。それに波の音も……ここならよく聞こえます」


 目を閉じて波の音を堪能する海羽さん。泳げない代わりか、海というものをしっかりと噛み締めようとしているかのようだ。


「海羽さんは、本当に海が好きなんですね」


「ええ。とても。わたくしの名前にも『海』という字が入っていますでしょう? 愛着もありますし、憧れもあります」


「海にですか?」


「ふふっ。可笑しいように聞こえるでしょう? ですが本当に、憧れているのです。海はとても広くて、大きくて、深くて。わたくしも同じようになりたいと常々感じています。自分が小さな存在であると自覚している分、特に」


 ……海羽さんは自分のことがあまり好きじゃないのかもしれないな。

 何かしらのコンプレックスを抱くことが多かったのか。或いは、周囲の声が原因か。


「せめて泳ぎが得意であればよかったのですけれど……」


「でしたら、泳ぎの練習でもしてみますか? 俺が付き合いますよ」


「夏休みに泳ぎの練習……確かに。それは普通の高校生らしい振る舞いかもしれませんね」


「そういうつもりはありませんでしたが……言われてみればそうですね」


 ……これで海羽さんが少しでも自分に対して自信がつけばいいな。

 ご自分の魅力に気づかず、自分を卑下しているのは勿体ない。


「ですが影人様。いきなり海で練習……というのは、わたくしも不安ですわ」


「最初はプールで練習した方がいいでしょうね。ホテルの方に行けば共有のプールがあったはずですが……」


 四元院家のご令嬢が共有プールで泳ぎの練習をしている姿を見られるわけにもいかないか。どうするかな。


「……ご安心を。とてもとてもとても幸運なことに、わたくしの抑えている部屋には、なんと驚くべきことに偶然にも、備え付けのプールがあるのです」


「そうなんですか? ……あれ? でも前は部屋に備え付けのプールなんて無かった気が……」


「新しく造らせ……ではなく、新しく造られたのでしょう。運がいいですね」


「そうですね。とても運がいいです。これも海羽さんの日頃の行いの賜物でしょう」


「そうでしょうとも」


 こんな偶然もあるもんだな。人目につかないところで特訓しようとしていたところに、一目につかないプールが新しく造られてたなんて。まるでこの日の為にあらかじめ急ピッチで工事されたみたいじゃないか。


「それで……ですね。影人様。せっかくですし、合宿ということにいたしませんか?」


「合宿ですか?」


「ええ。夏休み合宿。泊りがけの特訓です。これも、普通の高校生らしいでしょう?」


「確かに!」


 夏休み合宿! なんか物凄く普通の高校生っぽい!


「では、夏休み合宿に参加していただけますか?」


「はい!」


「わたくしの泳ぎの練習に付き合ってくださいますか?」


「はい!」


「プールのあるわたくしの部屋で、共に寝泊まりしてくださいますか?」


「はい! ………………………………はい?」


「では、参りましょう」


「あれ?」


 にこっと女神のような笑顔を浮かべた海羽さん。だが、その笑顔からは想像もできない握力で繋いだ手はがっちりと固定され、俺は引きずられるようにして海を後にすることになった。



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