キータは主人に頼まれてミルクのお遣いに出た。
キータは主人に頼まれてミルクのお遣いに出た。
黒いからだがライトに反射するアクセルが行ってらっしゃいと、一つしか無い目をウインクさせた。
キータは坂道を登っていく。
主人がミルクを頼むのは決まって夕刻だった。それは、キータたちの仕事が一段落して、主人たちが館へ帰る頃だった。
自分の身には余るようなオレンジ色の光が天から恵まれた。キータはやはり、オレンジ色に染まりながら、道を急いだ。
「はいよ! いつもの分、取り置いてるよ」
ミルク屋のおじさんは必ずそう言って、冷えたミルクをキータに持てるだけ売った。
キータは持たされていたお金をミルク屋のおじさんにそのまま渡す。
「うーん、多いな。これ、お釣りね」
人差し指と中指で挟んだ硬貨をキータは少し嬉しく思いながらおじさんから受け取った。
ミルク屋の奥からは発酵させた独特の乳の匂いがした。これはバターの匂いだ、と昔訊いたときにおじさんが言っていた。
その匂いはテルミナル(駅)まで漂っている。つられて野良猫がやってきていた。
キータはそこに来ている子猫に、お釣りが出たときだけ魚の燻製を買って持って行っていた。今日も通りを裏に回って、安い魚の燻製を買い求めた。
魚とは広い青い水たまりを泳いでいる生物だと何かで知った。
キータはついぞ海というものを見たことがなかった。キータにとって魚とは燻製だったし、それはこの子猫にとってもきっと同じだった。
早く子猫のところへ行こう、そればかり考えていた。
夏という季節が近づいていた。
キータたちの仕事は〈花火〉を仕掛けることだ。黒色のアクセルも同じ現場にいる。
仕事の始まったばかりの頃は、とにかく地面を掘り進んだ。採掘現場のように広く、火口のように深い。
主人たち現場監督は、仕掛ける場所を定めると、また深く掘ることを命令した。
今は暗い地面の下でランプを灯して作業を続けている。
仲間たちはみな、もくもくと手を動かし、それは毎日夜通し行われた。不眠不休の作業でも、主人たちが自分の堀開けた現場を見に来てくれればやはり嬉しかった。
主人たちも〈花火〉の仕掛けが着々と大きな姿になっていけばなっていくほど嬉しそうにしていた。
きっととてつもなく大きな〈花火〉を仕掛けている自分たちは、名誉なことを命じられているのだ。
キータたちはいつもそう頭に浮かべながら、導線を溶接したり、束ねたり、足場を組んだり、穴を掘ったりした。
ある日訪れた日曜日、キータはいつものようにミルクを買いに坂を登った。
今日は初めて仲間たちの数名が休みを貰っていたようだった。きっと主人たちが仕事ぶりを見て、予想以上の出来に満足してくれたのだろう。
なんと言ったって、〈花火〉の完成が近づいているのだ。
この〈花火〉の計画はとても昔から続いていたものだった。
今の主人でいったい何人目になるだろう。
キータはヒトの顔を覚えることは、自分ではとてもではないが出来なかった。
なにしろ、ずっと〈花火〉の現場にもぐっているので、そもそも覚える必要が無かった。ただただ、日が昇るのも沈むのも、月さえ知らずに、ひたすら〈花火〉と向き合っていた。
しかし名前は覚えていた。自分に命を与えてくれる、大切な人たちの名だ。
彼らは仕事の一段落した頃やって来て、キータやアクセルや、仲間たちをそっと拭ってくれる。命を慈しむ心地がしたのを覚えている。
それを知ったからかもしれない。だからキータは子猫に魚をやってはおっかなびっくり小さな額をなぞった。
キータはミルク屋の前まで、今までに無く晴れやかな気分でいた。
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