第2話 賢者、帰宅する。
「ふぅ、5年ぶりに帰宅したな」
そう言葉を零すリュートがいるのは、すでに城にある魔法科の執務室ではなく、王都にある邸だ。
といっても、これは大学から帰国する際に前報酬として国から貰ったもの。
貴族が暮らすものほど広くはないが、平民が持つには立派な邸には、一通りの生活用品は揃っている。
しかし、リュートは魔法科の仕事に就いてから多忙過ぎる日々を過ごしていたので、この邸で寝起きしたのは、初めの1週間ほどだった。
生活感は全くないが己がかけた魔法の効果で埃一つないリビングで、リュートはソファに腰を沈めた。
睡眠(という名の気絶)は取れたといっても数時間。ここ数年、まともな睡眠も休息も取れていない身には、まだまだ疲労が残っている。
疲労回復の魔法でも解消されない疲れもあるのだな、と新しい発見をした高揚感も今は薄い。
誰もいないキッチンでは、勝手にカップや茶葉が浮かび上がり、お茶の準備を始めていた。
窓にかかっていたカーテンが薄らと開き、リュートの不快に思わない明度を保つ。
大学で研究に日々を費やしていた頃も、こうして睡眠を削りながら、いや睡眠を忘れながら動いたものだった。
それでも疲労で倒れるなんてことはなかったのにな、と首を傾げる。
そこに紅茶の入ったカップがフワフワと飛んできて、受け取ったリュートはゆっくりと口をつける。
落ち着く香りと温かな味に、体の力が抜けていった。
「ふわぁ……むむ。もう少し寝た方が良いかもしれんが……」
軽く頭を振って眠気を飛ばすと、宙に手を
封筒には『招待状』の文字。これを受け取ったのは2年ほど前だっただろうか。
そして5年前までは、よく目にした物でもあった。
「忙しさで
差出人は、カトレア・メイ・アンドロワーズ。
シュゼリオ魔法大学が認める『賢者』の1人である。
今でも大学で教授を勤めており、リュートの師であり同僚でもあった。
カトレアは大学生だったリュートの良き理解者であり、まだ子供だったリュートの面倒も積極的にみていた。
教授職に就いてからは先達として助言をしたりと、カトレアには様々な恩がある。
そんな彼女は大のお茶会好きで、リュートもよく招かれていた。その時に決まって、招待状を渡してきていたのだ。
当時のことを思い出し懐かしさに目を細めるリュートは、招待状を再びしまうと立ち上がる。
「せっかくだ。このまま向かうとしよう」
ふい、と指を振る。
すると邸の入口や窓、そして邸全体に幾何学的な魔法陣が浮かび上がる。
これまでかけていた【施錠】と【魔障壁】、【保存】の魔法を改めてかけ直したのだ。
飲み終わったカップもキッチンへと戻っていき、洗い終わると布巾で拭かれて元の棚へとしまわれる。
他の『賢者』くらいでないと突破できないであろう仕上がりを確認すると、トンと爪先で床を軽く叩く。
足下に広がった魔法陣が光ると共にリュートの体も光に包まれ、その姿は邸から消え去っていた。
*****
──シュゼリオ魔法大学校内
突然、校内の庭に魔法陣が浮かび上がり、周囲にいた学生が何事かと目を向けた。
難解な魔法陣に首を傾げる者ばかりの前で、魔法陣が光を放ち発動を告げる。
もしや攻撃的な魔法かと
魔法陣の上に、リュートが姿を現した。その結果を見て、驚かない者はこの魔法大学にはいない。
「今のは、まさか【転移】⁉︎」
「馬鹿な、アレは『賢者』様方にしか使えないはず! あんな若い男が…………いや」
周囲の学生の騒めきを気にした様子もなく、何処かへスタスタと歩き始めたリュートを、驚きに目を見開く学生が見る。
「夕闇色の髪……金の瞳…………それに【転移】の魔法を使う、男」
「……! おい、それって確か!」
「最年少で『賢者』の称号を得た、神童リュート・アーベント……!」
「“時空の賢者”様!」
リュートの正体に思い至った学生が、慌てて膝をつく。
他にも同じく正体に気付いた者や、近くで“時空の賢者”の名が聞こえた者も、続くように膝をついた。
シュゼリオ魔法大学において、『賢者』は特に
そう数の多くない『賢者』は大陸中に散らばっており、教授を勤めているカトレア以外では、その姿を見たこともない者も多い。
その中でも、5年前まで大学で教授をしていたリュートの容姿は知っている者も多く、そして5年前に表舞台から忽然と姿を消したことも有名だった。
唐突に姿を再び見せた“時空の賢者”に学生たちが
「ん……? どうかしたのだろうか」
いまいち自分に向けられる感情に
「君」
「へっ⁉︎ わ、私ですかっ⁈」
『賢者』に声をかけられるとは思っていなかった女子学生は、驚きのあまり声が裏返り、キョロキョロと辺りを見渡してしまう。
しかし、そこには運悪く(運良く?)自分の姿しかなかった。
「そう、君だ。何やら学生たちの様子がおかしいようだが、何かあったのかな」
「えっ……⁉︎ そ、それはその、皆『賢者』様への挨拶といいますか何といいますかええっと」
早口に
「ふむ。私が知る『挨拶』とは
「え?」
「ふむふむ、こうかな?」
「ひぇ⁉︎」
悲鳴のような驚きの声をあげる女子学生の前で、同じように膝をついたリュートが彼女の手を取った。
「いきなり声をかけてすまなかった。私はリュート・アーベントという。君の名を教えてもらっても良いかな?」
「…………ミレイユです」
「ミレイユか。よろしく頼む。ときにミレイユ、カトレアは今どこにいるか分かるかな?」
「…………たぶん、講義で、第1大講堂に……」
「なるほど、第1か。分かった、ありがとう」
ニコリと笑みと共に礼を告げ立ち上がったリュートは、相変わらず膝をついたままの周囲の様子を気に留めることなく歩き去っていった。
リュートの姿が見えなくなると、ようやく学生たちが動き出す。そんな中で1人だけ膝をついたまま放心しているミレイユに、友人たちが駆け寄ってきた。
「ちょっとちょっと! ミレイユ大丈夫⁉︎」
「というか羨ましいんだけど! アレって神童と言われたリュート様なんでしょう⁉︎」
「本当に私たちと変わらない年齢っぽいし……」
「何より、めちゃくちゃ顔良くなかった⁉︎」
若い女性らしい視点で盛り上がる友人らの声に、ミレイユは反応しない。
真っ赤になった顔でぽおっと遠くを見ていた。
「……私、今日で死ぬのかも…………」
手を取り笑いかけてきた秀麗な顔を思い出し、えへへと締まらない表情を浮かべるミレイユに友人たちは──
『ずるーい!!!』
そんな騒動が起こっているとはつゆ知らず、リュートは第1大講堂を目指して歩いていた。
その道中でも正体に気付いた学生たちの『挨拶』が巻き起こっていたが、当人は「そういうもの」という情報を得てしまったため、気にせず足を進めている。
5年ぶりとなる校内を迷うことなく進み、入口に『第1大講堂』と書かれた建物を見上げた。
「ふむ。特に変わらないな」
うむうむと頷きながら、大講堂の扉を開けるリュート。
複数ある大講堂の中でも1番大きく、1000人は収容できる第1大講堂はほぼ満席状態となっていた。
中央にある教壇をグルリと取り囲むように階段状となった席があり、入口からは見下ろすような形になる。
そして現在、その教壇にてカトレア・メイ・アンドロワーズが教鞭を振るっていた。
「ふむ。特に変わらないな」
己が学生であった頃から変わらない盛況ぶりに、うむうむと頷いたリュート。
辺りを見渡して、近くに空いた席を見つけ座ることにする。
「隣、良いかな」
「ん? はい、どうぞー」
真面目な顔でカトレアの講義を聴きながら、手元の紙に書き込んでいた女子学生が、リュートを見ることなく承諾した。
それに礼を述べて腰かけると、教壇へと視線を落とす。
今年で56歳になるであろう年齢にも関わらず、見た目は30代にしか見えない若々しさは健在で、広い講堂に魔法を使うことなく声を届けている。
緩やかに波打つ白い髪にピンク色の瞳をした女性は、穏やかな声音で講義を行う。その声と彼女の持つ柔らかな雰囲気に、つい眠気を覚える学生が後を絶たないことで有名だ。
「──と、これがリュート・アーベントが編み出した【転移】という魔法で、彼が“時空の賢者”と呼ばれることになった大きな理由よ。
これまで時や空間といった要素はひどく感覚的なもので、理論的な魔法では干渉できないとされてきたわ。それを彼は当時13歳にして、魔法という人間の法則に落とし込んでみせた。
生憎と、最近は顔を見れてはいないのだけれど……」
最後は残念そうに声を落としたカトレアに、リュートは申し訳なく思った。
「どうやら、カトレアには随分と心配をかけてしまったようだ」
「それはそうよ。なんせ天才中の鬼才と呼ばれた神童リュート・アーベント様が丸っ切り姿を出さなくなったんだもの。カトレア様じゃなくとも、彼を知る者は皆心配しているわよ」
変わらず視線は手元の紙に向けたまま、独り言のようなリュートの呟きに反応する学生。
「そうなのか?」
「……まさか、貴方、あの“時空の賢者”を知らないわけじゃないでしょう? 【転移】なんて魔法を世に出した彼が、5年前に大学教授を辞めてから姿を消したのよ。気にならない魔法士がいるものですか。あまりにも世に出てこないから『【転移】の魔法を使って別の世界へと行ってしまったのではないか』なんて噂もあるくらいよ」
「ほう、別の世界か。不可能とは断言できぬが、面白い発想をするものだ」
「……おかしなことを言うのね? まぁ、いいわ。ともかく、カトレア様はリュート様が学生時代から良く気にかけていらしたそうだし、本人も息子のようなものだと言っていたそうだから、それはもう心配でしょうね」
「なるほど……あぁ、そこ。間違っているぞ」
「え?」
チラリと学生の手元に視線を向けたリュートが、スッと描かれた【転移】の魔法陣の一部を指差す。
「ここだ。スペルが1つ間違っている」
「……本当。よく気付いたわね」
「それはそうだろう。なんせ、私が創ったのだからな」
「は?」
この学生は何を言っているのだろう、と訝しげな顔をした女子学生がようやく隣に座るリュートと目を合わせた。
そして金の瞳と目が合うと、ピタリと動きを止めた。驚愕に目と口が開いていく。
「あ……あ、あなた、は」
「うん? あぁ、そうか。挨拶がまだだったな。私はリュート・アーベントという。よろしく、アーレイン」
「っ⁉︎ な、なんで、わ、私の名前をっ⁈」
「ここに書いてあったのでな」
トン、と教科書に書かれた名前を指され、そしてにっこりと笑顔を向けられたアーレインは──
「…………」
無言で気絶した。
そのまま左隣に座っていた友人に
「ちょっとアーレイン、何……して……」
そして、アーレイン越しにリュートの姿を見つけると、彼女と同じく驚愕に目を見開き、盛大に悲鳴を上げた。
「きゃあああああ!!!」
ちょうどカトレアの声が途絶えた間に響き渡った黄色い悲鳴に、何事かと大講堂内の視線が女子学生──と、その彼女が見つめるリュートに集まった。
いきなり気絶されるわ悲鳴を上げられるわで驚いているリュートが、こちらを見上げて固まっているカトレアの視線に気がつくと、親しげに手を振る。
「やぁ、カトレア。久しく」
「リュ……リュートーーー!!!!! おかえりなさぁぁぁい!!!」
第1大講堂では、その日1番のカトレアの声と、講堂中からの悲鳴が響き渡っていた。
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