隠居賢者のいまさら世界見聞録
猫又 ロイ
第1話 賢者、隠居する。
「よし、私は決めたぞ!」
椅子から立ち上がり、拳を握るリュートを部屋にいる部下──という名の監視役たちが、
中でもリーダー的立ち位置にいるであろうテットは、あからさまに馬鹿にした目をしていた。
「黙って仕事もできないんですかねぇ、賢者さま?」
「いつにも増して仕事が遅れてるんですから、もっと集中してもらえません? 暇じゃないんですよー、こっちもさ」
「賢者なんて大それた称号を持っていても、これしきの仕事もできないようでは、ねぇ?」
そう言って他の者たちと
昔からこうして嘲笑しては仕事を増やし、それを皆でお茶を飲みながらニヤニヤと眺めるという性格の悪さの目立つ奴ら。
いつもなら、テットたちの物言いに少なからず苛立ちと悔しさを感じていたものだが、今のリュートは違う。
だって気付いてしまったのだ。
私がここまでしてやる必要、あるだろうか?
弱冠10歳にして大陸一の名門シュゼリオ魔法大学に入学し、たったの2年で卒業。
そこから大学にて准教授、教授を勤め、15歳には賢者の称号を得る。
『賢者』という称号は、シュゼリオ魔法大学が認可状を出すなどの後ろ盾となり、大陸内ではどの国でも通用する身分証なのだ。
称号を得るには、学内外で優れた成績を残し、かつ卒業後に大学で教授を勤め、既存の賢者たちも
1つでも驚くような成果を出せれば賢者になれるところを、3年間で5つも発表をした鬼才。
神童リュート・アーベントの名は、大陸中に広まった。
しかし、それも5年前のこと。
賢者の称号を得たリュートは、母国からの熱心な勧誘を受けて帰国。
新設された魔法科のトップを任された。
そこに部下として配属されたのが、このテットたちだ。
テットたちは国内にある平凡な学校で、平均より少し下回る程度の成績だった。
しかし、出身が貴族であった為に新設された魔法科にコネで潜り込んだ。
もともと魔法を使える者はそう多くはなく、できるだけ人材を求めていた国の重鎮たちはこれを黙認。
何より、トップにいるのが神童リュートであれば、下が多少駄目でも何とかなるだろうと。
平民出のリュートが貴族社会でやっていけるよう、部下は貴族であった方が良いだろうという考えもあった。
そして優秀なリュートが帰属意識を持てるよう配慮するよう、テットたちには内々に指示が出される。
しかし、ここで問題が2つ。
1つは、テットたちが周囲の予想よりも頭が悪く、「平均より少し下」という成績ですら、コネによるものだったということ。
彼らの実際の成績は下の下、学内でも悪童として度々問題となっていたほどだった。
そしてもう1つの問題。
小さい頃から勉学・研究に夢中だったリュートは、周囲の予想よりも世間に
それを本人も自覚があることであり、公的役職につくからには積極的に学んでいこうという真面目で前向きな姿勢が
多少疑問に感じてもテットたちに「これが世間では常識」と言われると、大概のことは飲み込んでしまう。
さらに、テットたちの悪巧みによりリュートは通常の5倍ほどの仕事を請け負わされ、魔法科以外の者たちとの接触が極端に少なかった。
その為、魔法科についてから5年間。リュートはほとんど執務室から外に出ていない。
なまじ、簡易キッチンなどの設備が整った仮眠室が
最初の頃に感じていた疑問や不満も、あまりの忙しさに疲労で上書きされ、最近はただ機械的に仕事を処理していた。
休憩も取れず食事は仕事をしながら。まともに睡眠時間も取れずに、ついに先日、体調を崩し倒れた。
皮肉にもそのおかげで久し振りに長時間の睡眠が取れ、スッキリした頭に浮かんだ
『そうだ。隠居しよう』
思い返せば国にそこまで尽くす義理もなく、唯一の血縁だった両親は6歳の頃に他界している。
趣味でもあった魔法の研究も仕事の忙しさで
これまで任された仕事だからと真面目に取り組んではきたが、さすがに体を壊してまで頑張ろうとは思わない。
常識に疎いリュートでも、自分ばかり忙しく、部下が悠々と茶を飲んでいる現状はおかしいことくらいは分かる。
そして、ここ最近の自分が疲労で意識力低下が起こり、まともな精神ではなかったのも分かった。
ならばもう、やることは決まっている。
「おーい賢者さまよぉ、聞いてんのか?」
1人で腕を組んでうんうんと頷いているリュートを、テットらが怪訝そうに眺める。
「そんなことしてる間にも、仕事は溜まってんだぞ? お前のためにこうして仕事を用意してやってるんだから、感謝してさっさとやれよ」
「そうそう。世間知らずな賢者さまのために、俺らが気を遣ってやってんだぜ?」
「なんなら、その分の気持ちを貰っても良いくらいだよなぁ?」
ゲラゲラと品のない笑い声をあげているテットらだが、リュートは特に気にした様子もなく机の引き出しを開けた。
そして、そこから一枚の紙を取り出すとササっとペンを走らせる。
無視されたと思ったテットらが苛立たしげにリュートを睨みつけた。
「おい、返事はどうした?」
「……ん? あぁ、すまない。何か言っていたかな?」
「ふざけてんのか?」
紙から視線も上げないリュートにテットが荒々しく近付く。
「てめ──」
「よし、書けたぞ!」
「あ?」
満足げに紙を折りたたみ、封筒にしまったリュートがそれをテットに渡す。
反射で受け取ったテットだが、苛立ちのままくしゃりと握り潰した。
「人の話を聞いてんのか? こっちは親切にいろいろ教えてやってんのによ」
「うむ。それについては感謝しているよ。これまで世話になったな」
「はっ、分かってんなら良いが。なら、ほら」
「うん?」
封筒を握り締めた手とは反対の
本当にさっきの話を聞いていなかったのか、それとも相変わらず察しが悪いのか、テットが舌打ちを零す。
「気持ちを寄越せって言ってんだよ。金だよ金」
「あぁ、なるほど! 暫し待て」
納得したリュートは再び机の引き出しを開けると、何故か紙を取り出した。
それを
リュートが紙をぽいっと宙に放ると、そのまま
「これで良し。ちゃんと財務に申請しておいたぞ」
「は?」
「うむうむ。部下のために仕事をするのも、上司の役目と言っていたからな。最後にこなせてなによりだ」
ポカンと口を開けて呆けているテットらの前で、リュートがふいと指を振った。すると部屋中からリュートの私物が飛んでくる。
宙に手を
最後の物がしまわれると、リュートは5年間共にした部下たちに笑いかけた。
「では、諸君。世話になったな、さらばだ」
トン、と爪先で床を軽く叩くと、リュートの姿がその場から光と共に消えた。
それを唖然としたまま見送ってしまったテットが、ようやく握り締めたままだった封筒に視線を落とす。
そこには『退職届』の文字があった。
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