第5話 枇杷観音の舎利壺
山門を抜けて振り返ると、ゆるやかな坂道が港まで一直線に伸びているのが見えた。
海を見わたせる景勝地にある碧浪寺は、派手さはないものの幕末の江沼市の歴史上重要な役割をした場所だった。
幕末の日本には開国を迫り世界各国から特使を乗せた船がやってきていた。そのような船の係留地及び造船地として、また、特使の居留地の一つとして指名されたのが黄金裏だった。
碧浪寺はその特使の宿泊所として使われたとのことだった。特使をはじめ乗船員たちは狼藉を働くでもなく逗留の間に地元に溶け込んでいたという。
碧浪寺は久繰里家と同じく坂の上にあるが、直接行ける道は整備されていないので、江洲楓と竹園灰はいったん坂をおりて町中を通ってから山門を目指してのぼってきたのだった。
「ずい分風通しのいい風景」
「雪が積もったらそり遊びができそう」
「さあ、枇杷観音の御尊顔をご拝謁といきましょう」
本堂でお参りを済ませて、二人は枇杷観音の文字と矢印の描かれた木製標識を辿って境内の山寄りへ歩いていった。碧浪寺は、正面に黄金浦の海、後ろに駿豆半島を西と東に分ける山並みを背負っている。
矢印の方に進んでいくと、大きな枇杷の木が見えた。大ぶりの立派な枇杷が実りの季節を迎えている。
「あったあった、こっちこっち」
江洲楓が小走りで御堂に着くと、竹園灰を手招きする。
「はしゃぎすぎ。遊びに来てるんじゃないでしょ」
「遊びじゃないよ、観光」
「観光って遊びじゃなかったっけ」
竹園灰はあきれ顔で枇杷観音の御堂の前の江洲楓の隣りに並んだ。
思っていたよりずいぶん簡素なつくりの御堂だった。
ただこの町特有の白壁に格子を漆喰で施されているなまこ壁が全面に覆っている堅牢そうなつくりではあった。
手前にお賽銭箱が置かれ、その奥に御供物台がある。御供物台には足付きの皿に、米粉で作るしんこ細工の枇杷と、砂糖液を煮詰めて型で作る金花糖の蓮の花、葉、蓮根がのせられていて、花立てには蓮の花がいけてある。
二人は賽銭を入れて手を合わせると、枇杷観音を眺めた。
「なんというか、色っぽい」
江洲楓は声を潜めて竹園灰に囁いた。
「罰当たり」
竹園灰はあきれ声で返した。
「なに、それ、ほめてるのに罰が当たるの」
「そういうほめ方されたくはないんじゃない」
「観音さまの心の中がわかるんだ」
竹園灰は絡んでくる江洲楓からすっと離れて、観察しようと観音堂を覗き込んだ。
御堂にはすらりとした肢体の聖観音像が安置されている。
聖観音は教科書や美術書で見かけるどことなくなまめかしい美しさの仏像だ。
ただ、本来であれば左手に蓮を持っているのだが、たわわに実る枇杷の枝を握っている。
光背は宝珠光型で心なしか前傾しているように見える。
気になるのは御堂が雨漏りしているのか結いあげた頭頂部が水が染みたようにまだらに変色していることだった。
その変色具合はあの夜の久繰里あかりの髪の様子にかぶって見えた。
「けっこう古いものなのかな」
「いつ頃つくられたものかは、そういえば、話に出なかったな」
御堂の脇に枇杷観音の紹介が掲げられていた。そこには枇杷材の一木造で久繰里家に連なるものが彫ったとだけ記されていた。
「背から中をくりぬいて乾割れができないようにつくられています。ていねいな仕事をしていただいたので潮を含んだ空気のこちらでも問題なく安置させていただいております」
突然女性の声がした。
声のした方を振り返ると、首からネームプレートをさげたグレイショートヘアの女性が立っていた。
プレートには観光ボランティア浜村とプリントされている。
「私、観光ボランティアの浜村と申します。碧浪寺を担当しております。よろしかったら御案内させていただきます」
浜村さんは軽く頭をさげてネームプレートを持って二人に見せた。
「一本の木をくりぬいて作るというのは技術がいるのでしょうね」
「この木、という見極めも難しいですよね」
二人は突然声をかけてきた浜村さんを警戒しながら言った。
「木を依り代として御神木として崇めるということは古来よりございました。その流れをくんで一本の木を彫りあげることで力が宿ると考えられていたのです」
「自然崇拝ですか。となると神仏混淆みたいですね」
江洲楓の言葉に浜村さんは一瞬表情を固くした。
「聖観音像の持ち物といえば蓮ですが、こちらは枇杷観音ということで枇杷の枝をお持ちになっています。枇杷が町に恵をもたらせてくれたところからお生まれになったので、このように立派な枇杷の実っている枝をお持ちになっているのです」
何かはぐらかされたような雰囲気になった。
江洲楓と竹園灰は目くばせし合った。
「くりぬいた後に何か入れたりしないのですか」
江洲楓が尋ねた。
「舎利壺のことでしょうか」
浜村さんが答えた。
「はい、舎利を入れる容器です。壺だったり、瓶だったりするんですよね」
竹園灰が既に知識として知っている風に言った。
「そちらにつきましては、通常は宝物庫に保管されております。現在はレプリカが金山パーク内の資料館で展示されております」
「レプリカですか。さすがに本物は一般には公開されてないんですね」
「春の花祭りの時は御本尊と一緒に公開されますよ」
「え、そうなんですか」
意外な返答だった。
最も枇杷観音も秘仏ではないのだからそれはあることだと言えた。
「こちらにそのまま収められてはいないんですね」
「はい。残念ながら一度盗難に遭いかけまして」
浜村さんが眉をくもらせた。
「え、物騒ですね」
「その折は、若衆組、消防団兼ねている青年団の見回りの方々が活躍してくれまして、賊はすぐに捕まりまして事なきを得ました。それからは厳重に保管するようになったのです」
「若衆組ですか、若者が離れずにいるのですね」
江洲楓が感心しながら言った。
「いえ、若衆と言っても、本当にお若い方は数えるほどです。ほとんどが、もう、壮年に近い方々です。ただ、海の仕事にしても山の仕事にしても、からだが資本ですから、鍛えてらっしゃるので若々しいですよ、それに、頼もしいです」
浜村さんは、思い当たる誰かがいるのか、にこやかに語った。
「それは安心ですね。となると、監視カメラや警報器は設置しなかったのですか」
江洲楓が素朴な疑問を口にした。
「檀家の皆さまからそのようなお話が出ましたのですが、仏様のいらっしゃる場所にそうした人を疑うような機械、人ではないものを置くことはできないと、ご住職が皆さまを説得なさいましてね。見回りを強化するということに落ち着いたのです」
浜村さんは観音像に向かって両手を合わせてすっと頭を垂れた。
聖なる領域のことを口数多く語ることへの謝罪のように見えた。
これ以上踏み込んでくるなと言われているような気がしたが、ここはもう一押しだと二人は目を見合わせた。
「そうだったんですね。ところで、盗難に合いかけたということは、よほど値打ちのあるものなのですね」
俗な質問であるのを気付かぬふりで江洲楓が言った。
「そうですね。ああいったものは、価値を感じる方にはかけがえのないものなのでしょうね。私には、その、よくわからないものでしたが」
浜村さんは左のこめかみの辺りを人差し指で抑えると、こくびを傾げた。
「単なる物取りだったんですか」
「それが、先ほど賊と言ってしまいましたが、凶悪な犯人というものではなかったんですよ」
取り繕うな口調で浜村さんが言った。
「どういうことですか」
「舎利壺の中のものが、きれいな宝石のようなのですよ、それできらきらしたものを好む、その、若い、あ、」
言いかけて浜村さんは口をつぐんだ。
「罰当たりなことを申し上げてしまうところでした」
彼女はごにょごにょとつぶやくと、再び観音像に手を合わせて黙礼した。
「浜村さんは、ご覧になったんですよね、舎利壺と中身を」
江洲楓がさりげなさを装って言った。
「それは、まあ、一般公開の時は説明を担当しましたので」
「どのようなものだったか、教えていただけませんか」
浜村さんは少しためらってから、
「では、お写真を見ながらご説明いたします。あちらにお休み処がございますので、どうぞお待ちください」
境内の一角に参拝客向けのお休み処が設営されていた。
今は誰もいないようだった。
二人は中へ入ると畳敷きの椅子に向かい合って腰かけた。
窓からは黄金浦の海がきらきら光っているのが見える。
夏を迎える海は凪いでいても水面を活気が渡っていくようだ。
「うちの学校からも海見えるの知ってた」
江洲楓がなつかしむように言った。
「知ってた」
竹園灰は即答だった。
「そうだよね」
二人の母校であるから言わずもがなだと竹園灰は言わんばかりだ。
「四階の教室から見える。松原の向こうに波頭が立つのを見てるの好きだった」
「四階は三年生の教室と図書室」
「そう、だから、一、二年の時は図書室に行った時だけ見えた」
「上級生の中、するすると通り抜けていくわざは見事だった」
「みんな部活の先輩がいるからって遠慮して、というかめんどくさがって来なかったのよね。灰だけだった、一緒にきてくれたの」
「おしゃべりしなくてよかったから、図書室」
「図書室ではお静かに、だものね」
危ないからと教室や図書室の窓を開け放しにはできなかったが、司書さんがいる時は図書室はよく窓を開けて換気がされていた。
昼休みの始まるまでは潮風がカーテンを揺らしていた。
早めに着いてまだ閉まったままの引き戸のガラス越しに揺れるカーテンは、昼食後の倦んだ空気を心地よく乱していた。
「そう。でも、図書室前の廊下から階段の踊り場にかけては、かしましいことこの上なかった」
「うんうん、おしゃべりコーナーになってた」
「昼休みはとくに」
「灰、昔はおしゃべり好きじゃなかったものね」
「必要以上に目立つわけにはいかなかったから」
「そっか、ありがとね」
「それがうちの家系の役割だから」
江洲家と竹園家の関係は主従ではないが普通の縁戚関係とは異なるものがあった。
昔はそれこそ主家を守るといったこともあったようだが、現代では江洲家の血を絶やさないように事故や誘拐といったことから守るのが竹園家の役割だった。
江洲楓は、成長の過程で自分の身は自分で守れるようにと護身術は身につけていた。それもあって今では幼なじみの友人同士という関係となっていた。
それでも、おっとりとした見かけに似合わず時に無茶なことをしでかす江洲楓から目を離すことはなかなかできないと竹園灰は思っているようだった。
「私とはよくしゃべってくれるよね」
江洲楓はひとり語りのようにつぶやいた。
「必要だから」
竹園灰の声は誰に聞かせるでもないほど小さかった。
「必要とされてるんだ、私、うれしいな」
江洲楓の声は浮き立っている。
「全部言葉にしなくても」
抑揚のないながらも、竹園灰の口調にも明るさがのぞいた。
「照れてる」
「照れるのはそっち。臆面もなく言ってくれる」
そこで二人揃って吹き出した。
「お待たせしました」
浜村さんがやってきて布張りの立派なアルバムをテーブルに置いた。
「なつかしいタイプのアルバムですね」
「今は皆さんデジタル写真のアルバムですから、こうしたものを初めて見るという方もいらっしゃるんですよ」
「確かに、いつの間にか姿を消してましたよね、布張りのアルバム」
「昔は出産祝いの定番プレゼントだったんですよ」
「そうなんですね」
「結婚祝いはフォトフレーム、それも凝ったつくりの仰々しいデザインで。それはそれでセレモニーという感じがしてうれしいものでしたが」
なつかしむような様子の浜村さんは、きっとそうしたフォトフレームを結婚祝いでもらったんだなと察せられて、二人はうなずき合った。
「お茶をおいれしますね」
浜村さんは対面式のキッチンに入ると手際よくお茶をいれて、求肥に枇杷あんを包んだお菓子を添えて持ってきた。
「どうぞ。この町は、なににつけ枇杷がおすすめなんです」
誇らしげな口調だった。
「いただきます」
「美味しいです」
「枇杷羊羹はよく知られていますが、町の和菓子屋さんも洋菓子屋さんもみなさん工夫されて名物菓子を作られてるんですよ」
浜村さんは壁に貼ってある観光ポスターを指さした。
地元出身の双子タレントが、大ぶりのボウルのようなガラスの器に山盛りにされたかき氷をはさんで向かい合い、お互いの口に大きなスプーンですくった氷を差し出している。
二人とも顔をこちらを向けていて、口角を思いっきり上げてにっこり笑っている。
同じ顔から同時に「めしあがれ」と言われているような気分になってくる。
「夏場は枇杷のかき氷をどこのお店も出しています。シロップに特色を出したり、枇杷の実も甘露煮にしたり、ジャムにしたり、アイスクリームにしてのっけたり」
「楽しいですね、バラエティに富んでいて」
「そう言っていただけると、皆さん喜ばれると思います。町を盛り上げようと、がんばってらっしゃいますから」
浜村さんはそうした活動を心から応援しているようだった。
「町起こしですか」
「そうですね、そこまで大々的なものではないんですが、それぞれの地区でアイデアを出し合ってイベントを企画したりしてます」
会話をしながら二人はお茶と枇杷もちを平らげると、アルバムを開いた。
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