第2話 観音の包容力と般若の冷厳
「本当に、その節は、ご心配をおかけしまして」
穏やかながらそれ以上は問いかけることができない強い拒絶感がその口調にあった。
とはいえそのまま引き下がるわけにもいかない。
「何か心を傷めてたようなので、私も心配しておりました。職場でご苦労されたとのことを伺いまして、その、職場の人間関係で休職されたり、職場を移ったりというのは珍しいことではありませんので。あまりに身近な人には、かえって話せないこともあると思いますし、それで、母校を訪れたのではないかと」
ここで、あえて、「私」のところに相談にきたとは言わなかった。
親からすれば心をくだいて育ててきた子どもが成人したとはいえ自分よりも他人に深い悩みを相談していたというのは快いものではないと、学校に勤務する中で江洲楓は察するようになっていた。
そこを読み違えると、齟齬が生じる。
表面的には理解ある親を装っていても内心はそうではないというのはよくあることだった。
江洲楓は教壇にこそ立っていなかったが、むしろそうであったからこそ、親と子の関係の業の深さを目の当たりにし考察せざるをえなかった。
「あかりは、幸せな子ですね。卒業生の一人に過ぎないというのに、こんなにも心をかけてくださる方がいらっしゃるなんて」
久繰里あまねは着物の袂から麻のハンカチを取り出すと目元を抑えた。
涙を見せられては畳みかけるわけにはいかない。
そういうところが甘い、と竹園灰には言われてしまうだろう。
それでもここで粘って二度と敷居を跨がせてもらえなくなってしまっては元もこもない。
麻のハンカチについた水染みが乾くまで八洲楓は待った。
「在学された生徒さんは、皆さんたいせつなお預かりしたお子さまです。高校生ともなれば外見も大人と違わなくなってきてますし、自分で得られる情報量に至っては大人より多かったりします。それでも精神面での成長は個人差があります。そうした差を個性として受けとめて見守るのが学校に携わるものたちの役割だと思っています」
個人的に気にしているというのではだめだと、ここはこらえどころだと、あえて教育の現場に携わっていますという雰囲気を江洲楓は押し出した。
「まあ、ご立派ですのね」
嫌味ではなく心底感心したというのが久繰里あまねの声の調子には表れていた。
「少しこちらでお待ちになって」
久繰里あまねはそう言うとおもむろに立ち上がり部屋を出ていった。
入れ替わり行儀見習いの女性が入ってきた。
急須を手にしている。
彼女は空になっていた茶碗を見ると目礼して緑茶を注いだ。
この辺りの山でとれる土で焼いたものだと先ほど久繰里あまねが説明してくれた煎茶碗に注がれた緑茶の香りが漂ってきた。菓子用の銘々皿と同じように、茶碗の腰になまこ壁を模した模様が描かれている。
「素敵な器ですね。地元の窯元のものですか」
女性はやわらかな笑みを湛えたまま黙っている。
「この模様はなまこ壁ですよね。海辺の土地ならではですね」
やはり女性は口を開かない。
もしかして聞こえないのだろうかと思い「もう一杯いただけますか」と声をかけるとすぐに注いでくれた。緘黙の礼法でもあるのだろうか。それとも、うっかりにでも口にしてはいけないことを知ってしまったのでかん口令がひかれているのだろうか。
これ以上尋ねても無駄だと思い、江洲楓はお茶を味わうことにした。
八十八夜はとうに過ぎているので摘みたての新茶ではないが、すっきりとした若苦みが湿気の多い夏にさわやかさを運んできてくれる、そんな味わいのお茶だった。
このお茶をいただくには、扇風機のゆるやかな涼風がエアコンのパワフルな冷風より合っている。
「美味しいお茶ですね。県内はどこも茶処だけれど、ここのは潮まじりの湿気をはらう風味からして、風土に合っていてとてもいいですね」
誰ともなしに江洲楓がつぶやいた時、障子が開けられた。
「お待たせいたしました」
久繰里あまねが戻ってきた。入れ替わりに女性が出て行った。
「あかりはお会いしたくないと申しております。その、食がずいぶん細くなってしまいまして、やつれた姿をお見せしたくないのかと」
「そうですか」
確かに江洲楓の家での深夜の騒動時にすでにかなりやつれていた、それに髪の色の変化。ショックのあまり一晩で白髪になるという話は聞いたことがあるが、部分的に変色するというのは耳にしたことはなかった。気にかかることはあるが、やはりここはいったん引くしかないようだ。
「それでは、今日は失礼いたします。すみませんが、これをあかりさんに渡していただけますか」
江洲楓は江沼市街地の大型書店の紙袋に入った本を差し出した。
「お気遣いいただいて。御本ですのね。江洲先生からと知ったら喜びます、きっと」
久繰里あまねは両手をついて丁寧にお辞儀をした。
かえってこちらの方が恐縮してしまうような長いお辞儀だった。
お辞儀をしている間に視界から消えてしまえと言わんばかりの、ひやりとした静けさが辺りを支配した。
気さくさと隙のなさ、楚々とした佇まいと無駄のない所作、観音の包容力と般若の冷厳、彼女の中に幾つもの裏腹さが垣間見える。一人ではここまでだ。竹園灰と対応策を練り直さなければと八洲楓は思った。
「今日はお忙しいところ失礼しました」
「いいえ、こちらこそわざわざ足を運んでいただきまして」
「あの、すみませんが、」
江洲楓は立ち上がりかけて、思い出したように言った。
「お化粧室でしたら、お客様用のものが奥の客室ございます。御案内いたしますね」
間髪を入れずに久繰里あまりが伏し目がちに言った。
「いえ、場所を教えていただければ」
慌てた風に江洲楓は手を胸の前で振った。
「古い家ですので、あちこち傷んでますのよ。廊下を歩くにもちょっとしたコツがあるのです。修繕を重ねてますので、見かけではわからないのですが」
「歩き方のコツですか」
「はい。新しく板をはりかえた時にほんの少しですが湿気で歪んでしまったところがあるのです。すり足で歩いていきますと、ふわっと浮いて転んでしまうことがあるのです」
「直すことはできないのですか」
「実は、何度か直しているのですが、ふわっと浮いてしまうのは直らないのです」
「それは、困ったことですね」
「ええ、まあ、ふだんは家族のものしか通らないところなので、事なきを得ております」
久繰里あまねはいたって真面目に困ったような口調で話をしている。
しかし、江洲楓は、不自然さを感じていた。
「あの、わざわざ客用のというのは申しわけないので、こちらのところでお借りできませんでしょうか」
訪問先で化粧室を借りるというのは、礼儀はずれになるのを承知で、江洲楓はなんとか久繰里家のこの家の間取りを今少し知っておきたかった。久繰里あかりがいる場所の手がかりが欲しかった。
「それほどまでにおっしゃるのでしたら」
久繰里あまねは、先ほどまでの強引さをすっと引っ込めて、こちらですと案内してくれた。
左は障子や襖が閉まっている部屋が並び、右側は大きな一枚硝子の引き戸が並び、手吹きならではのゆらぎを見せて庭の景色の陰影を際だたせている。
広々とした前庭にはゆったりとした池があり、池の周りはさまざまな大きさの石で囲まれている。まるで露天風呂のようなつくりをしている。
池の向こうには小さな鳥居と祠があり、屋敷を囲む塀と柴垣越しの遠くに海の煌めきがのぞいている。
鳥居の脇には枇杷の古木が黄金色の実をたわわに実らせていた。
その古木から少し離れたところに白木の高殿が建てられていた。
二階建ての家ほどの高さがある、建前をする時のような木組みだけの建築物だった。
「お庭に鳥居があるのですね。家神様か土地神様をお祀りされてるのですか」
「ええ。久繰里家は枇杷のおかげで栄えてまいりましたのでそのゆかりのものを祀っているのですよ」
「枇杷観音、ですか」
「観音様はお寺様にお願いしております」
久繰里あまねはそこで口をつぐんでしまった。
静けさに緊張が走りそれ以上はきくことが憚られた。
仕方なく江洲楓は庭にあるもう一つの気になるものについてきいてみた。
「あの大きな
「あら、まあ、面白いことをおっしゃる先生ですね」
久繰里あまねは口を押えてくすくすと笑った。
自分は教員免許を持っていて司書教諭的な仕事もするし、非常勤講師として授業を受け持つこともあるが、厳密には学校司書であって先生ではありませんと言いかけて江洲楓は口をつぐんだ。
この辺りの説明は必要に応じて何度もしてきたが、なかなか理解を得られなかった。むしろ混乱をきたすので仕事に支障がない限り「先生」で通すこともあった。とくに生徒にとっては学校の授業に関わる大人は全て「先生」なのだった。
ただ、外部の大人たちにとっては「先生」という言葉に揶揄が込められることがあるのも江洲楓は感じていた。
久繰里あまねの「先生」という発言は、多少の毒は含んでいるものの他愛ない笑いだと思われた。ただ、そうであっても、疲弊する。こうしたやりとりに疲弊するのもここは我慢と思い江洲楓も笑顔で返した。
「あの高殿は、
「遊山蓮台? 」
「お盆の時に港で海上花火大会が開催されます。その時に、こちらでお盆ふるまいをしながら花火を眺めるのです。夏のお花見です。お盆ですから、御先祖様も観音様もいらっしゃるということで、ええ、もちろん目に見えるわけではありません、心の目で拝見するのです。現世で生けるものも、別世で生けるものも、一同に会して旧交を温め合うんですよ。お精進のごちそうを並べて、蓮の茎で御酒を交わして、それはもう、
久繰里あまねは右手を自分の胸に当ててうっとりと言った。
代々続く素封家であれば、そうした行事や風習を大切にするものなのだろう。
「そうですか。眺めがよさそうですね。花火がよく見えるでしょうね」
「はい、それはもう」
久繰里あまねがにっこりとうなづいた。
「あ、っと」
江洲楓は庭を眺めながら歩いていて、廊下の板の微かな盛り上がりに気付かず足をとられてつまづきかけた。
からだを支えようと思わずつかんだ障子の格子にそのまま指がすっぽり入ってしまい、障子に穴が空いてしまった。
「すみません、あの、弁償します、障子紙の代金をお支払いします」
障子の穴から部屋の中がわずかに見えた。
目をこらすと布団が敷かれていて誰かが眠っているようだった。
部屋は暗くてそれくらいしかわからなかったが、目をこらしてもって見ようというそぶりを見せた時だった。
「大丈夫ですか。こちらこそ申しわけなかったです、足もとにご注意を促すべきでした」
久繰里あまねが障子戸の前に立ちはだかって、白い麻のハンカチを差し出した。
「お掃除はしっかりしてますが、障子のさんはほこりがたまりやすいので、どうぞ指をお拭きください」
「ありがとうございます」
江洲楓はハンカチを受け取ると、さして汚れてはいなかったが指をぬぐった。
「ハンカチ、汚してしまってすみません。洗ってからご返却させていただきます」
「いいんですよ。よろしかったら、どうぞ、それはもらってやってくださいな」
「こんな上等なものいただけません」
「新品ではないので、かえって申しわけないのですが、どうぞお持ちください」
ここで押し問答をするのもおかしなことなので、江洲楓はハンカチをもらうことにした。
「それでは、失礼いたします」
化粧室から出てきて玄関で靴をはいて立ち上がり振り返ると、久繰里あまねがすっと小風呂敷の包みを両手で差し伸べた。
「こちら、お話しました枇杷絵蝋燭です。少しですがどうぞ」
「ありがとうございます」
「ひなびたところですが、街並みは金山で栄ていた頃の趣が残っておりますし、枇杷観音の観音堂、観音の湯、金山遊覧パーク、温泉を利用した洋蘭園といった観光資源は充実してますので、どうぞ御覧になっていってください」
そう言って久繰里あまねは懐からすっと何かを取り出した。
手にはチケットが2枚握られていた。金山と洋蘭のテーマパークの共通招待券だ。
「ありがとうございます。お話に出ていた枇杷観音にはぜひお参りしていきます。温泉にもつかりたいのですが、日帰り温泉か足湯はありますか」
「ええ、観音の湯にもございますし、公営温泉もございます。ああ、そうでした、温泉めぐりチケットも差し上げますね」
「あ、申しわけございません。なんだかねだってしまったみたいで」
「観光地と言いましても、行列ができるなんて施設もお店もありませんから、せめて尋ねてくださった方にはサービスさせていただかないと」
久繰里あまねは、目を細めてこくびを傾げてみせた。
「では、私はこれで」
江洲楓は軽く頭をさげて玄関を出た。
門まで続く敷石を踏みながら半ばまできたところで、にわかにぞくり、として彼女は振り返った。
玄関の外に、久繰里あまねと行儀見習の女性が立ってこちらを見ていた。
行儀見習の女性は口元をもごもごさせて何かを訴えかけたがっているような素振りを見せていたが、久繰里あまねの左袖が彼女の方に振られると、口元の動きはぴたりと止まったのだった。
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