第10話:死神の正体
ボランティア部の部室には現在、二人だけの空間が形成されていた。
ガチガチに固まる蛇ノ目式とぐーたら机に突っ伏す羽佐間一二三、それだけである。部室の番人であるはずの羽佐間翡翠は連日本部でお仕事三昧。轟乙女は翡翠が一人では可哀そうだと兄代わりの男よりもよほど家族らしい一面を見せ、放課後はマリス・ステラに足を運んでいた。個室で作業をしているだけ説はあるが。
顧問の黒木は馬車馬のように働いているらしい。下部組織でしかないボランティア部にだけ所属している一二三はメダイ機関直轄の部隊を率いる黒木の動向を知る術も権利もない。蛇ノ目は本来引っ張りだこなはずだが、最も厄介な騎士が野放しである以上、護衛抜きでの運用は不可能と判断され、護衛(仮)のそば、つまり一二三のそばに配置される運びとなった。彼女にとっては役得以外の何物でもない。
この沈黙すら愛おしい、同じ空間の空気を二人っきりで吸っている奇跡、神よありがとう。神頼みなどしたことない少女が神に感謝していた。
その神、果たしてどこの神なのだろうか――
(息、おいしい)
今死んでも悔いはない、蛇ノ目は割と本気で思っていた。
「……蛇ノ目さんってさ」
「…………」
「蛇ノ目さん?」
「……ふひ」
「だ、大丈夫?」
一二三は本気で心配し問いかけるも恍惚の蛇ノ目は微動だにしない。
完全にキマっていた。
「あの、大丈夫? 保健室行く?」
「ほ、保健室は、大丈夫! わた、し、元気、です!」
何か保健室に悪い思い出があるのか、即座に意識を取り戻した蛇ノ目。慌ててしまったのかいつも鉄壁の壁と化している髪の間から眼が、見える。
薄い朱色の、綺麗な瞳。
「今更だけど、蛇ノ目さん、昔会ったことあるよね」
「くひ!?」
「ピアノのコンクールで。いつも上位だった」
「あ、うう」
頬を染め、恥ずかしそうに俯く蛇ノ目を尻目に一二三はため息をつく。
「気づくの、随分遅くなっちゃったなあ。あの頃の俺、全然周りを見る余裕なくて、全然記憶がないんだ。白黒の鍵盤、スポットライトに照らされたピアノ、あと譜面、それだけ。観客席なんて視界にも入ってなかった。もちろん他の演奏者も。誰のために弾いているのか、わからないまま我武者羅に足掻いていたんだ」
「こ、コンクールはお客さんのためじゃなくてじ、自分のために弾くものだから」
間違っていない、蛇ノ目は一二三をそうフォローする。
「同じだよ。音楽は聞いている人のためにある。そこを見てすらいなかった時点で、才能、なかったんだ。今だから分かる。俺は別に音楽が好きなわけじゃなかった。自分にはそれしかないと思い込んで、道を失うのが怖かっただけ。生きる上での指針が欲しかっただけなんだって。だから、今は音楽がなくても、生きられる」
「そんなことッ!」
違う、と髪の隙間から垣間見える眼が語る。
彼女にしては真っ直ぐな意思表示。
「好きって、レベル、超えてた。いつも一番だった、ひふみ君が」
「ただ、上手い、だけさ。それはね、アーティストにとっては必要条件ですらないんだよ。響くかどうか、揺らせるかどうか、俺には、出来なかったなぁ」
「わた、しは!」
胸に手を当てて、必死に言葉を紡ぎ出そうとするも、出てこない自分に彼女は腹が立っていた。あの日受けた衝撃を、感動を、言葉にしたいのに、出来ない。
そんな自分が昔から嫌いだった。
「……たった一人にでも響いてたなら、当時の僕も、少し、救われたと思うよ。まあ、どちらにしろ、もう音楽をやる気はないんだ。ほら、俺、吸血鬼だから」
突然のカミングアウト。察していた節はあれど、やはり驚かざるを得ない。
最上位の怪異、かつての彼からはとてつもなく遠い存在である。
「夜中、一人で練習してたら、凄く綺麗な人が現れたんだ。真紅のマント、真紅の眼、真っ白な長い髪。この世のものとは思えなかった」
「…………」
蛇ノ目の中で仄暗い感情がともる。そいつが現れなければ自分の憧れは、こんなくだらない世界に足を踏み入れることはなかったのだから。
種族の差異でマウントを取り合うだけの、くだらない異種族社会になど。
「夜の街を連れ回されて、知らない景色をたくさん見せてもらって、色んな時代の話を聞いた。譜面の上から想像するしかなかった世界を、彼女は直接見てきたんだ。幻想が壊れるような、台無しな真実もあったけど、うん、楽しかった」
本当に嬉しそうに過去を語る一二三を見て、蛇ノ目の中のもやもやはさらに広がりを見せる。自分が大切にしまっていた思い出が忘れたい過去、自分の知らない彼女との思い出が刻み込みたい宝物では、そう思うのも仕方ないことではある。
当たり前であるが蛇ノ目式は羽佐間一二三にとって何者でもない。
「急に部活をやってみたいって言うから、二人だけでボランティア部を作ったんだよ。俺も部活なんてやったことなかったから、手探りも手探りでさ。彼女が部長で、俺が副部長。やってたことは人助け、しょうもない事件がほとんどさ。その時に国光、ほら、前、買い物行った時にいたやつ、あいつも助けてやったんだ。あいつ昔はめちゃくちゃやんちゃでさ、案件も自業自得ではあったんだけどね」
わかっていたことである。そんなこと、自明の理。
「……くひ」
「それで……あれ、どうしたの、何で、涙?」
「ひっく、な、泣いてない。た、ただ、目にゴミが入っただけで。ごべんなさい、その、続けて、話、本当に、面白いから」
明らかな嘘。だが、一二三は何故そうなったのかがわからない。わからないのもまた、彼女にとっては当たり前のことであるが、それでも傷つく。
ことここに至ってもまだ、彼女は幻想を求めていたのだ。
「あー、ごめん。人の昔話なんて確かに面白くないよね。うん。じゃあ、知りたいことだけ端的に。俺は彼女、ブラッディ・マリーの眷属になった。吸血鬼って言っても、まあ下っ端も下っ端だね。別種と言ってもいい」
本当に知りたいこと、話したいこととはかけ離れているが、それでも彼女は眼をぬぐって静聴の姿勢を取った。今はまだ、業務の話の方が救いがある。
「そっか、くひ、眷属。そうかな、とは、思ってた。でも、何で骨?」
「ああ、それはね、俺が血を操るのが下手くそで……戦い方を教えてくれた先生曰く、モノになるまで五百年はかかるからやめちまえってさ。ただ、再生力は眷属なのに人並みって言い方はおかしいか、吸血鬼並みに、あった。だから苦肉の策で骨を異常再生して武器にしてる。不細工って、よく言われてるかな」
ぱき、一二三の手の甲から骨の剣が伸びる。
「これが、コンコルドの死神、羽佐間一二三、だ」
全身から、服の隙間と言う隙間から骨が生き物のように蠢き、伸びる。
骨が顔を覆う。彼自身の骨が髑髏の仮面を形成していた。
「人と怪異の狭間に俺はいる。だからこそ、俺はこの都市のために生きるんだ。それが俺の指針。ここは彼女の夢、千年生きた『鮮血女王』ブラッディ・マリーが望んだ理想郷への第一歩。ここを守るためなら何でもやる」
鉄の意志、仮面の奥からでもわかるそれが今の彼の『指針』なのだろう。
それが彼にとって正しいとは、彼女には思えないが。
「って、格好つけてみたけど、少しグロッキー。この前、結構やられちゃってさ」
するすると元に戻っていく骨。
すぐさま机に突っ伏す彼に先ほどの覇気はない。
「わ、私のせい?」
「違う違う。あの戦闘が始まる前にズタズタにやられてたの。さすがに今回は死んだかなぁって何回か思ったね。今は絶賛回復中」
そう言って弱々しい骨を伸ばし、部室備え付けの冷蔵庫から彼専用の飲み物を取り出す。牛乳である。生乳一〇〇%、低温殺菌のパック牛乳、を直飲み。
「な、何故、牛乳?」
「んぐ、んぐ、ぷっはぁ! ん? 牛乳って牛の血、だからね」
「……そうなの?」
「そうそう。本当にまずい時は輸血用のパックとかもらってるけど、普段はこいつで場を持たせてる。単純に他の飲み物よりも美味しく感じるってのもあるんだけどね。先生のトマトジュース好きは理解できないんだよなぁ。先生は逆に牛乳には風味が足りないって嫌ってるんだ。吸血鬼の好みも千差万別だね」
「吸血鬼が牛乳……イメージできない、かも」
「このおかげで骨も元気、は関係ないか。だから安心していいよ。この前よりは元気だから。たぶん、今なら勝てる。君を守るよ」
仕事だから、なのはわかっているのだが――
(くひ、レコーダー、回しといてよかった)
人の性根は変わらない。今日から幾度、最後のセリフをリピートするのだろうか。本日の就寝が楽しみで仕方がない蛇ノ目であった。
「あ、牛乳が、ち、血なら母乳は?」
「……血だとは思うけど飲んだことないから。それを飲むなら素直に血を飲むよ」
「だ、だよね」
「まあ一度は――」
「え?」
「……一度も、飲みたいと思ったことはない、だ。うん」
「そ、そっか、ふひひ」
何かまかり間違って母乳が出るようにならないかなぁと思う蛇ノ目であった。
で、ひとしきり話し合った後――
「じゃ、俺は帰るよ」
「ふひ、私も、帰る」
「帰れないよ?」
「くひ?」
「蛇ノ目さんはマリス・ステラで轟の部屋に泊まることになってるから。ひすいちゃんも一緒だし仲良くしてやってよ」
「……な、なぜ?」
「俺の部屋でも良いけど女の子だからね、蛇ノ目さんが嫌かなぁって思ってそっちで申請しといた。まあ、間違いなく安全だし、女子同士だから」
「う、うがぁぁあああああ!?」
「ッ!?」
突如発狂する蛇ノ目に慄く一二三。千載一遇のチャンスが目の前にあったと知り、発狂せずにはいられなかった少女の気持ちは、乙女として正しいのだろうが、問題はその表現方法であった。アーティストの才能あるなぁと一二三はしみじみ思った。
「今日は、色々話せてよかったよ」
「う、うん」
「これからもよろしくね」
掃除用具入れを前に手を振るという奇怪な光景の後、蛇ノ目式は地下都市へと降りていった。ちなみに先日の任務での有効性を認められ、無事正規部員としてこの部屋への入室権を手に入れた蛇ノ目。一二三は自分一人では入れない。
開かずの部屋から出ると――
「おや、その部屋、開いたんだね。知らなかったよ」
一二三のクラス担任、クロス先生の姿があった。対面するまで気配の一つすらなく、彼はそこにいたのだ。重要な話は聞かれていないだろうが。
「黒木先生から、鍵、預かってまして」
「そうか。是非、私もお借りしたいね」
「黒木先生に言ってください」
「ああ、そうしよう」
ひりつく、嫌な雰囲気。
「ボランティア部はこの都市発祥ではないらしいね。とある地方都市の、とある中学校で設立された非公認の部活。初代部長の名はマリア、副部長は千賀一二三。出自不明の少女と音楽一家に生まれた神童、不思議な組み合わせだ」
「……そうですか」
「そう言えば君も、一二三君、だったね。珍しい名前だ」
「ゼロじゃないですよ。有名人にもいますし」
「そうだね、その通りだ。でも、彼らはボランティア部じゃない」
「他にいないとも限らない、ボランティア部の一二三君」
「確かに、いるかもしれないね。君の言う通りだ」
羽佐間一二三とクロス先生はすれ違う。互いに目を合わせずに。
「この都市は無理がある。人と怪異は交わらない。古今、そう決まっているんだ」
「世界は、変わったでしょう。昔とは違う」
「そうかな? どちらにしろね、被害者は忘れないものだ。加害者が忘れようとも。それは覚えておくといい。人と怪異、その垣根は君の想像するよりも遥かに巨大なのだと。血の歴史を、無かったとは言わせない」
一二三が振り返ると、クロス先生の姿が消えていた。
「……黒木さん。クロスだ。奴が騎士だ」
『おう、こっちも奴さんのヤサを押さえた。特に証拠らしいものはない、至って普通の、無味無臭ってやつだ。個人の趣向が一切ない。ダミーだな』
「追いますか?」
『お前は回復に努めろ。ここはメガフロート都市だ。出入り口に蓋しちまえば逃げ場はねえ。こっちはじっくりと締め上げてやりゃあ良いんだよ』
「わかりました。しばらくは大人しくしてますよ」
『殊勝だな』
「想定よりも厄介そうなので。まあ、万全なら負けないですけどね」
そう言って一二三は通話を切る。無味無臭の経歴、クロスに関しては最初から自分も黒木も怪しいとは思っていた。だが、自分がそう思うのと同時にきっと敵もそう思ったはず。無味無臭の経歴、ボランティア部で唯一情報が公開されている羽佐間一二三という人間について。そして、彼らもまた答えに至った。
互いに嘘であることを。
「問題ない」
羽佐間一二三は犬歯を剥き出しに、笑った。
〇
「あっ!?」
「どうしたんですか? 素っ頓狂な声を出されて」
「おい、手元がずれたじゃねえか!」
蛇ノ目が悲鳴を上げると翡翠がマイペースに、轟がびくりと反応する。ちなみに全員パジャマである。ポップ感があるのは翡翠の趣味、と思いきや轟の趣味である。意外と可愛いもの好きなのだ。似合わないので外では着ないが。
「ブ。ブラッディ・マリーって」
「ああ、ひふみさんのマスターですね。もう死んでいますけど」
「死!? え、ブラッディ・マリーって死んでるの?」
「何だよそのブラマリって」
「ブ、ブラマリ!? く、くひ、恐れを知らなさすぎる。序列第二位、『鮮血女王』の眷属。だ、だからあんなに強いんだ。話に夢中で気づかなかった」
「二位か、大したことねえな」
「一位でなければ意味がありません」
「す、すごい。モノを知らないって、すごい」
「無知の知、ですね。やはりわたし、天才です」
話に夢中ですっ飛ばしていた蛇ノ目も凄いが、周りの反応も有識者からすると信じ難いほど舐めた反応である。
今更、大事なことに気付いた蛇ノ目であった。
そしてはたと気づく。
「……何で、あの『鮮血女王』が死んだんだろう?」
彼女の逸話を知る者であれば一笑に付すであろう。彼女が極東の島国で命を落としたなど。誰も信じない。少なくとも蛇ノ目周りの怪異の家系には。
しかし、それが事実だとするのなら――ある意味でこんな都市が吹き飛ぶほどの大事件であるのだ。それほどに一桁台の、それも上位の吸血鬼と言うのは絶対の存在。特に怪異側にとっては神にも等しい存在である。
ゆえに蛇ノ目には考えつかない。おそらく、この二人も知らないだろう。そもそも反応が軽すぎる。これだから一般人は、と思いながら蛇ノ目はベッドに入った。
そしてイヤフォンをする。再生するのはもちろん――
『君を守るよ』
「くひ」
先ほど入手したばかりの新鮮ボイスであった。
しかし、存外詰めが甘いのも彼女の特徴の一つである。
イヤフォンジャックが刺さり切っていない。つまり、音が漏れているのだ。
戦慄する同室の二人。だだ洩れである。
「やべーなこいつ」
「はい、やばいです」
しばらく音漏れしていたことに彼女が気付くのは随分後になってからであった。あまりにも不憫と思った轟が助け舟を出して、そのまま失神したそうな。
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