部屋とエアコンとじいじ

りま

おじいちゃん、設定温度は変えない約束でしょう?

 ピッ……ピッ……ピッ……。

 何か、音がする。廊下を挟んだ向かいの部屋。リモコン? リモコンのボタン押してる?

 ピッ……ピッ……ピッ……。

 いつ止むのこれ。寝れんのやけど。

 ピッ……ピッ……ピッ……。

 明日、早番なのにぃ。いま何時? 三時回ってるやん、もぉ!


「お父さーんちょっと失礼」


 静かに引き戸を開け、薄暗がりの中、ベッドの中の老父の手からリモコンを取り上げる。

 急激に冷え込み始めた十二月初旬。エアコンの吹出口は開いて、稼働音もしている。その割に、ちっとも暖かくない。


「お父さん、これ冷房やから。二十八度まで上げたって、冷房やからね。ほら、エアコンも困ってるやん、これ以上冷やしようがないって」


 モードチェンジ、暖房。ピピピピッと温度設定を二十二度に。エアコンくん、お仕事ですよ。


「はい暖房にしたよータイマーで自然に切れるよーもう触らんといてね、お休みー」


 そっと戸を閉め、小走りに自室に戻る。明日、起きれるかな。その前にちゃんと寝れるんやろか。

 この生活も、あと半月。

 半月後、父はわたしのマンションから、サービス付き高齢者向け住宅に引っ越すのだ。



 この部屋に越してきた当時、父は現役で車の運転をしていた。

 気が向けば、食材を買ってきて料理もする。悔しいことに、わたしがネットでレシピを検索して作ったブリ大根より、父のブリ大根の方が断然美味しい。

 ま、種明かしすると父は、亡き母が愛用していたのと同じ調味料で味付けをしていた。味の好みは、何を食べて育ったかで決まる。わたしの舌は「ヤマキだしの素」が入っていれば美味しいと感じる。そう、勝ったのは父ではない。だしの素ですから!

 古くなった家電を買い替えたいと話していたら、数日後には新しい商品が届いてたっけ。え、掃除機、いつの間にうたん? ……ああ、電気屋のおっちゃんに連絡したの。うん、これも使い易そうやけど、まずはパンフレット取り寄せて検討でしょうよ。選ぶ楽しみってもんがさー。

 電化製品を購入するときの決断が、異様に速い。思い返せばテレビと洗濯機も、こんな感じだったな。


 高齢者による車の事故が多発し、社会問題になった頃、父に認知機能の低下が見え始めた。

 姉弟で集まり相談の上、父に免許の返納を勧めた。父は黙って頷くと、愛車を手放し、売ったお金で電動自転車を購入した。それからは自転車が父の足になった。

 足腰が弱っていたので、歩いて行ける距離のスーパーにも自転車で行く。

 自分の昼食や、酒・煙草などの嗜好品を購入する。わたしとの同居の条件は禁煙だったというのに、コロッと忘れて愛煙家に逆戻りしたのが、約三年前。ヤニで色付いていくリビングの壁が切ないぞ、このボケボケじいじめ。

 年配の男性にありがちだが、父も面倒がって小銭を出さない。買い物をするたびに小銭が増える。増える。めっちゃ増えとる。

 テーブルの上の、蓋が閉まらない小銭入れ。嘘やん、またかい! こんもりと山になった小銭をせっせと両替したのは一度や二度ではない。


「もぉ。お父さん、これ以上小銭産まんといてや」

「……プッ」

「尻で返事すな!」


 テレビを見ながら、肩を揺らして笑う父。父娘の会話は大体いつもこんな感じ。

 認知症が次第に進行していき、直前の出来事を尋ねても「忘れた」しか言わなくなっても、同居の家族側からすれば、父はお世話しやすい相手だった。

 足が悪いので徘徊はしない。暴れることも無い。被害妄想や暴言も無い。

 ま、リモコンの電池を交換したいのに蓋の開け方が分からなくて壊したりしてるけど。父の部屋のテレビのリモコンは蓋が無いし、エアコンのリモコンは、蓋じゃないところを開けようと真面目に挑み続けた破壊の痕跡がある。

 日中は大人しくテレビを見て過ごしている。

 でっぷり太っていた体は筋肉が落ちて大分萎んで、見かけほどの重量はないが、相変わらず信楽焼の狸にそっくりだ。ソファにどっしりと腰掛け、二時間サスペンスの再放送を観ている狸。可愛かろ?


 しかし、そう暢気に構えていられなくなった。

 二〇二〇年十月、そして二〇二一年の二月、父は救急車のお世話になった。

 外出先で転倒し、骨折したのだ。最初は肋骨にヒビ。二回目は手の親指の付根。

 もう、自転車には乗せられない。二回目の骨折では、乗ろうとして自転車ごと倒れたのだから。

 一人で買い物に出せない。だって転んだら自分で立てない。今や室内でも杖

を使うようになった。以前は父の担当だったゴミ出しも、もう任せられない。辛うじて新聞だけは取りに行ってくれる。

 夏の暑い盛り、帰宅すると蒸し暑い。

 エアコンは稼働している。冷風は出ていない。リモコンが表示する設定温度は二十五度。――暖房。


「お父さーん、冷房のボタン押してね、冷房。設定は二十七度で。ほら、エアコンも『自分、何で呼ばれたん?』って顔しとるやん」


 因みに、この「暖房二十五度」はその後も何度か続いた。確認したら、冷房の設定温度が常に二十五度まで下げられている。そっか、じいじは二十五という数字が好きなのか。で、寒くなって暖房に切り替えた、と。行動パターンが読めてきたぞ。

 エアコンの風向きルーバーがゆっくり上下に動いて『自分、仕事してないのに電気代ばかり遣ってすみません』と頭を下げている。あんたも大変やな、煙草で燻されて顔色変わってしもうて。


 離れて暮らす弟妹が一番心配するのが、煙草の火の不始末だ。幸い、父は喫煙場所をリビングに限定しているから、寝煙草による失火の心配は今のところない。

 わたしが一番困っていたのは、父の食事だ。この夏は食欲に波があって、食べない時は何も食べてくれなかった。せめて栄養だけでもと、夏場の冷蔵庫はゼリー飲料とメイバランスで満杯になった。

 冷蔵庫を開けて、自分で探して食べてくれるなら、まだいい。

 食欲が復活して通常の食事が摂れるようになったと喜んでいたら、冷蔵庫に準備した昼食・夕食に手を付けていないことが増えた。出勤前、さあ召し上がれと目の前に置いた朝食だけ、器が空になっている。

 昼休み、様子伺いに携帯に電話しても出なくて、遅番スタッフの出勤を待って仕事の合間に飛んで帰ったこともある。幸い、携帯を寝室に置いたままテレビを見ていただけだった。無事を確認し、職場にとんぼ返り。

 フルタイムで働きながら、父を看るのが日に日に難しくなっていく。今はまだいいけれど、明日は? 一週間後は? 一か月後は?

 朝、ちゃんと息をしているだろうか。夜、帰宅したら倒れて冷たくなっているんじゃないか。そんな恐怖が現実味を帯びていく。

 弟妹、親戚と話し合い、担当ケアマネさんに相談したのが十月の終わり。十一月上旬、予算や希望に合うサービス付き高齢者向け住宅(略して「サ高住」)で空き部屋がある物件のリストを貰い、内見予約を取って、父と一緒に見学に行った。

 十一月半ば、入居する物件を決めた。正式な契約に必要な書類を揃えつつ、引っ越し準備をしよう。年末年始は父とゆっくり過ごし、年明けに引っ越そう。この時のわたしは、そう考えていた。


 十一月下旬。状況が一変する。

 急に、父がトイレを失敗するようになった。これまでは泥酔した時くらいしか失禁は無かったのに、足が前に進みにくくなって、トイレに間に合わない。尿意を感じる感覚も鈍くなっているのだろう。多い時は日に三回、トイレに濡れた下着とズボンが脱ぎ捨ててある。洗濯物から新しい下着とズボンを出して、自分で着替えている。けれど一度着替えの途中で尻もちをついて、日が暮れた部屋の中、わたしが帰宅するまで電気も点けられずに座り込んでいた。

 もう無理だ。接客販売業のわたしには、書き入れ時の年末商戦が待ち構えている。父を気にしながらでは仕事にならぬ。

 十二月、引っ越し荷物リストから下着トランクスが消え、紙オムツに変更。引っ越し日程も前倒しで、十二月半ばに決まった。



 そして今、新しい年を迎えて、ひとり自宅にいる。

 皆様、あけましておめでとうございます。


 父の引っ越しから、半月。

 平日、仕事を切り上げて大急ぎで帰宅する必要はもうない。その分、休日の度に父の様子を見に行っている。あまり反応は返ってこないけど一方的に話をし、オムツ交換や掃除をする。担当ヘルパーさんに体調報告を聞き、不足している必需品を買いに行く。

 失禁がとても多いそうだ。ズボンの替えが足りなくて買い足した。防水シーツは洗い替えも含め三枚。業務用乾燥機OKの物はそこそこお高い。

 ずっと下痢が続いていたそうだ。食べたり食べなかったりしていたから、規則正しい食事リズムにお腹がびっくりしたんだろうか。環境の変化によるストレスもあるのかもしれない。

 父も寂しいだろうが、わたしだってこの半月で随分ひとり言が増えた。

 クリスマスケーキは小さいサイズを選んだのに、食べ切るまで三日も掛かった。

 おせちを注文したのはサ高住への入居を考える前だから、当然二人分以上のサイズ。宅配受け取りを父がする前提だったので、不在票を見ながら再配達を頼んだ。当分、ご飯を作らなくていい。ご馳走三昧である。


 多分、ギリギリのタイミングだったと思う。

 共倒れになる寸前の、滑り込みセーフ。寂しいけれど、これで良かったのだ。


 引っ越しのすぐ後、父の部屋を片付けていた時のこと。エアコンのリモコンを見ると、設定が「冷房三十二度」になっていた。

 じいじめ、また夜中にピコピコやってたな? 今度はわたし熟睡していたのか気付かなかったけど。エアコン(リモコンの裏側に破壊の痕跡がある子)、存在意義が揺らぎそうやん。

 新しい環境に慣れたら、新しい部屋のエアコンも父に翻弄されるんだろうか。

 それくらい元気になってくれれば、良いのだけどね。


 じゃあまたね、と告げるたび、少し肩が落ちてシュンとなる。祖母の晩年がそうだったように、父の内面も子供に返っているのかもしれない。大丈夫、また来るからね。

 手を振れば、のそりと手を上げて振り返す。

 可愛かろ? うちのじいじ。

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部屋とエアコンとじいじ りま @rima

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