最終章

「空がきれい」

 どこまでもか細いその声は、電車のレール音にかき消され、誰かの耳に届くことはなかった。

しかし、その言葉は自身の心に染み渡り、ふふっと自然に笑みがこぼれた。昼過ぎの青空がきらめく。電車は空いていたがドアに寄り掛かかって空を眺める。きっとその笑顔に気付いた人はいないだろう。しかし、窓にうっすらと映り込む自分の顔を見て、自然と笑顔になっていたことに気付いて嬉しくなった。

 駅に到着する。同じドアから降りる乗客はいないようだった。ドアの前に立ち、開くと同時に自分の足でしっかりとホームに降りる。ホームに差し込む程よく暖かい太陽の光が身体に降り注ぐ。革靴が軽快な足音を響かせながら階段を下り、いつものようにスウォッチを改札にかざす。

 その日は快晴だった。どこまでも突き抜ける淡青が空を覆っている。駅前では何台かの清掃ロボットがゴミを拾い歩いていた。その鈍い灰色の身体も、青空に照らされ眩しく光を反射していた。その中の一台の頭をポンと軽く叩き、お疲れ様と心の中で労う。

 駅前から続く大通りには一本の暗く狭い横道がある。この道を通るのは何度目だろう、あの日までこの道を通ったことはほとんどなかったのに。そんなことを思いながら、今では当たり前のようにその横道に入って行く。

 横道に漂う陰湿な空気とは裏腹に、彼女の足取りは軽い。いつ来てもその道は閑散としている。数人ほど通行人を目にすることもあるが、その日は誰もいなかった。両脇にはそれなりに高くてコンクリートでできた無機質な建物が並んでおり、その多くの一階では店が営まれていたことが、どこまでも続くシャッターからうかがうことができた。しばらく歩いたところでシャッターの列は途切れていた。その先にもシャッターの列は続いていたが、その建物だけは違っていた。

 今どき珍しいレンガ造りの二階建て。その赤茶色の建物は、異質で、アナログチックで、陰鬱な横道に全くと言ってよいほど馴染んでいなかった。一階には窓があったが、カーテンが閉まっているため内部の様子はうかがえない。

 彼女は扉の前で足を止める。OPENと書かれた小さな札が扉にかかっている。目の前の格調高いセピア色の扉を数秒間見つめながら考え、そして思う――色々なことがあった、本当に色々なことが。そんなことを思いながら、気付けば自然と彼女は扉に手を伸ばしていた。


 そこに麗奈の姿はなかった。カウンターにはマスターがいてコーヒーを作っている。店内には五人のお客さんがいた。スーツを着た若いビジネスマン、中学生らしき女子二人組、老夫婦。決してきらびやかなわけではないが、店内には心地良い時間が流れているのが感じられた。


「いらっしゃい」

 マスターがカウンター越しに声をかける。千早は軽く会釈をして、窓際のテーブルに着く。一息ついて呆けていると、マスターがお品書きを持ってやってきた。お品書きを手渡しながら、

「今日は卒業式だったんだろ? 卒業おめでとう」

 とマスターが言う。千早もお品書きを受け取りながら、

「ありがとうございます」

 と返した。マスターは両手を腰に当てて聞く。

「で、注文はどうする?」

 千早はお品書きを開く。飲み物はコーヒーがメインだ。他にも、軽食やデザートの類も載っている。昼過ぎの空腹時、千早はまだ昼食を取っていなかった。

「サンドイッチと……、店長おすすめコーヒーで」

 そう言ってお品書きを閉じてマスターに渡す。受け取ったマスターは、

「了解、すぐできるから」

 と言ってカウンターに戻っていった。

 千早は頬杖をついて店内を眺める。

 お客さんの話声が心地よく店内に流れていた。それを聞きながらコーヒーを入れているマスターもどことなく嬉しそうに見えた。

 この店はここ一年ほどで少しずつ、しかし確かに変わっていった。かつては、千早が訪れた時には十中八九お客さんはいなかった。メニューもコーヒーだけだった。それが今ではいつ来てもお客さんがいる。人気のない道で看板もないため、相変わらず一見すると何の店かもわからないが、メニューも軽食やデザートが増えて口コミで地元の人にひそかに知られるようになっていた。千早にとっても嬉しい反面、秘密基地が見つかってしまったようで少し寂しい感じもした。

 マスターがカウンターから出てくるのを見て頬杖をやめる。マスターがコーヒーとサンドイッチを持ってきて千早の前に置いた。

「ごゆっくりどうぞ」

 そう言って相変わらず背筋の伸びた後ろ姿を見せながらマスターは再びカウンターに戻っていった。

 サンドイッチ、コーヒー、そしてミルクの入った小さなカップ、角砂糖の入った透明の小瓶がテーブルに綺麗に並んでいる。千早はコーヒーをそのまま飲んでみる。やっぱり苦いことを確認して、心の中で微笑する。

 千早はコーヒーカップを置き、背もたれに寄り掛かってそっと目を閉じる。

 千早は思い返していた。一年と三ヶ月前、雪の降るあの日のことを。そして、その結果得たものと失ったものを。



 麗奈と誓った後、自宅に帰った千早は母に思いの丈を伝えた。将来は学校の先生になりたいと言った。千早は誠実に向き合おうとした。

 結果的に千早のその行動は家族を壊すことになった。

 千早の気持ちを聞いた母はヒステリーを起こした。千早がそれでも引かずに気持ちを言葉にしたことが、ヒステリーを加速させた。母は荒れに荒れた。テーブルや椅子はひっくり返り、物が飛び交った。リビングは惨状となった。その時真千も家にいたが、危険なので自室に避難させた。結局、千早だけでは母を冷静にさせることはできず、仕事から帰宅した父が仲裁する形になった。

 それ以降母が暴れることはなくなったものの、それからは常にイライラしているようになった。

 その後、何度も家族全員で千早の将来について話し合った。千早は折れなかった。真千と父も賛同してくれた。しかし、母もまた折れなかった。どれだけ話し合いをしても、いやそれは話し合いになっていたのか、言葉が届いていたのかさえわからないが、千早と母の気持ちは平行線を辿り、決して交わることはなかった。繰り返される家族会議の中で、次第に、しかし着実に三人と一人の間には溝が深まっていった。そんな日々が三ヶ月ほど続き、その溝はもはや埋めることのできないものになっていた。千早はそれでも母に誠実に向き合おうとしていたが、一方で、自身の言葉が母にこの先届くことがないであろうことも感じていた。おそらく、父と真千も同様に感じるものがあっただろうと千早は想像する。

 そして去年の春、千早が高校三年生になった時に父が離婚を切り出した。離婚そのものについて母はすんなり受け入れた。しかし、千早が父についていくことは許さなかった。千早は父についていくことを希望したし、父もそのつもりであった。

 離婚協議は当然に家族内で決着がつくことはなく、家庭裁判所に話は持っていかれた。結局、裁判所の判断によって離婚は成立し、千早と真千は父の元で暮らすことになった。それを機に、三人と一人での別居が始まった。母は街外れにある小さなアパートに、父と真千と千早の三人は母のアパートとはちょうど街の反対に位置する場所に移り住んだ。やや手狭ではあったが三人で暮らせる程度の賃貸物件だった。様々なことが起こった元のマンションは売り払った。それがちょうど高三の夏頃であった。

 しかしその後、母は裁判所の決定に異議申し立てを行った。それが秋の終わり頃で、離婚調停は春になろうとしている今でも続いている。


 離婚の話が出た時、父と真千には申し訳ないことをしたと千早は思った。その気持ちは今でも変わっていない。

 本当のところはどう思っているのか、引っ越すときに千早は二人に聞いてみたことがあった。真千は「無理して四人で暮らす方が私はつらいから」と苦笑いしていた。父は「以前からギクシャクしていたしな。馬が合わなかったということだよ、きっと。離婚して正解さ」と少し悲しそうな笑顔で言っていた。

 千早に二人の本心を知ることはできない。母と別れてよかったと二人が本当に思っている可能性もあるのかもしれない。しかし、自分の行動がこういう結果を導くことをどこかでわかっていた千早は、やはり二人に申し訳なく思った。


 千早は昨年の秋から母には会っていない。異議申し立て以降の離婚調停の対応は全て父が行っており、千早も真千も母とは連絡を取っていなかった。母が千早のことを今どう思っているのかは千早にもわからなかった。

 しかし、これまで母がしてきたことは母が正しいと思ってやってきたことだということは、母の言動から感じていた。だからこそ、千早は母のことを責められなかった。

 結局、母も自分も自分勝手なだけだったのかもしれないと千早は思う。どれだけ誠実に向き合っても、母には言葉は届かず、それでも自身の望む道を進もうとした。そのことに対する後ろめたさは千早の中ではもうなくなっていた。人は多かれ少なかれ皆そうやって自分の道を歩もうとするものであると、エゴイストであるのだと知ったから。



 千早は閉じていた目をそっと開ける。それから、いつものようにミルクと砂糖を入れてからコーヒーを飲み直す。小さく頷いた。

 そっとコーヒーカップを置いたとき、店の扉が開く。その音に引き寄せられるように千早は顔を上げて扉の方を見た。


 その瞬間、息をのむ。時間が止まり、五感すべてを持っていかれたような感覚を覚える。

 

 そこには一人の女性がいた。

 肩のあたりまで真っすぐに伸びた黒髪、そしてその奥には美しい横顔が見えた。どこまでも深く黒い瞳、筋の通った高い鼻、瑞々しい唇。その端麗な顔立ちをより引き立たせる高い背丈と長い手足。

 白いシャツに淡い桜色のロングスカート。そして、右手には大きめの旅行カバン。質素だが落ち着きある格好で、整ったプロポーションと相まって上品さが際立っていた。

 その麗人は千早の方を見て微笑む。その麗人を見つめながら千早は思った、今この時のために生きてきたんじゃないかと、そしてこの人とこの先を一緒に歩んでいきたいと。


「帰ったのか、麗奈。おかえり」

 マスターの声が店内に響き、千早は現実に引き戻される。

 千早は少し不思議な気持ちだった。麗奈とはよく会っているのに、今日は麗奈に初めて会った日のような感覚を抱いた。色々なことを思い出していたからだろうかと思案するが理由はわからなかった。

 麗奈はマスターのいるカウンターへ歩く。その途中、女子中学生二人組の一人が、

「麗奈さん、こんにちは!」

 と嬉しそうな声で言った。麗奈もその学生を見て、

「こんにちは」

 と微笑む。微笑み返された女子中学生はアイドルにでも会ったかのようにはしゃぎ、もう一人の学生が苦笑いしていた。その微笑ましい様子を見て他のお客さんやマスターも笑顔になる。

 カウンターに戻った麗奈はマスターを少し見上げて、

「ただいまです、マスター」

 そう挨拶すると、そのままカウンターの奥に消えていった。


 麗奈と誓ったあの日以降、千早は再びこの喫茶店によく来るようになっていた。家族の出来事についても麗奈と何度も話した。千早が自分の道を選んだ結果として両親が離婚したことについて麗奈は複雑な様子だった。責任を感じているのかもしれなかったが、麗奈は千早にあまり深くはかかわってこなかった。結局は千早が選択したことなのだから、麗奈はそれを尊重したのかもしれない。

 麗奈自身はどうかというと、変わらないものもあれば、変わっていったこともあった。この店で働きながら、ときどき買い物に出かけるという生活に変わりはない。容姿も事故後に黒髪と黒い瞳に変えたままだった。千早とも正式に付き合い始めたとはいえ、基本的にはこの店でおしゃべりをして過ごしているだけだった。

 しかし、麗奈の世界は少しずつ広がっていっていた。この店にお客さんがよく来るようになってからは、常連の客とも話すようになったようだ。そして何よりも、麗奈は半年前から月に一回ほどのペースで旅行に行くようになっていた。メンテナンスの問題が改善して一週間に一度のメンテナンスでよくなったらしい。さらに事故の反省も活かして身体の強度も上げていた。麗奈の話によると、マスターが相当頑張ったらしく、かなりの時間とお金をかけたとのことだった。その結果、短期の旅行なら自由に行けるようになったのだった。月に一度の旅行はマスターと行くこともあれば一人で行くこともあった。旅先の話をしている時の麗奈はいつも楽しそうだった。

 そんな風に麗奈の世界が広がっていくことに対して、なんだか少し寂しいような、嬉しいような、そんな複雑だけどありきたりな気持ちを千早は抱いていた。


 千早は、女子中学生二人組が麗奈の話をしているのを片耳で聞く。麗奈の世界は広がったが、それでもアンドロイドであることは当然秘密のままであった。例えば彼女らが麗奈の正体を知ったらどう思うのだろう、そんなことを考えながら千早はサンドイッチを一口食べる。

 カウンター裏から麗奈が出てきた。カバンは置いてきたようで、手には何も持っていない。そのまま一直線に千早のもとに向かってくる。その姿を他のお客さんも見ており、麗奈が千早のそばに来た時には自然と視線は千早の方にも向けられる。少し恥ずかしいが「付き合ってるんだし」と考えてできるだけ平静を装った。麗奈は立ったまま、

「すみません、少し遅くなってしまいました」

 と言う。千早は麗奈と今日この店で会う約束をしていた。卒業式というこの日に千早は麗奈に会いたかったからだ。

「ううん、私も来たばっかりだから大丈夫」

「そうでしたか」

 そう言いながら千早の向かいに麗奈が座る。

「旅行どうだった?」

 千早の問いに麗奈は目を輝かせる。

「とても楽しかったです。特に海が感動的でした」

 その楽しそうな表情を見て千早も嬉しくなる。

「海を見るのは初めてでしたが。行ってよかったです。波音や潮風が身体を包み込んで、不思議と穏やかな気持ちになりました」

 海辺に佇む麗奈を想像して、

「麗奈は海が似合いそうだね」

 と千早は微笑んだ。

「そういえば身体の調子はどう?」

 他のお客さんに麗奈がアンドロイドであることをバレないように千早は聞く。

「すこぶる良好ですよ」

「そっか、よかった」

 麗奈の笑顔が千早を安心させる。麗奈は、

「それはそうと、千早」

 と少し改まって言った。

「ん?」

 千早はとぼけてみせる。

「ご卒業おめでとうございます」

 笑顔でそう言う麗奈に、少し照れながら

「ありがとう」

 と千早が返す。

「卒業式はどうでしたか」

 千早は「うーん」と少し考えてから答える。

「少し感傷的になっちゃったかも」

「感傷的ですか……」

 千早はコーヒーを飲んでから続けた。

「例えば先生と別れるのは寂しいかな。進路の相談にものってもらったし、お世話になったから」

 千早も麗奈も穏やかな顔をする。

「七海とは今後も会うだろうけど、別々の進路だし、会う頻度は自然と減ると思う。もしかしたら疎遠になってしまうかもしれない」

「なんだか少し寂しいですね」

 二人の間にノスタルジックな空気が流れる。それが物悲しさに変わる前に千早が言葉を続ける。

「でもね、大学生活が楽しみでもあるの」

「何かやりたいことが決まっているのですか」

 二人の間に優しい空気が流れる。

「絵はこれからも続けたいから美術系のサークルに入ろうと思ってる。もちろん勉強も頑張るよ、教員免許取りたいからね」

 千早は四月から大学生になる。日本でも有数の大学だ。何も知らない人からしたら、これまで通り成績優秀な千早が順当に進学しただけかもしれない。しかし、そこには確かに千早自身の意思があった。自分がなりたい自分になるための、自分のための選択だった。

「麗奈こそ、これからやってみたいことってある?」

「そうですね……」

 麗奈は少し考える。

「このお店にも色んな人が来てくれるようになり、たくさんお話することができました。旅行で色んな場所に行って初めての体験もたくさんしました。これからも、私は自分の世界をもっと広げていきたいです」

「具体的には?」

「旅行に行きたいです」

 千早は即座に突っ込む。

「今でも結構旅行に行ってるじゃん」

 苦笑いの千早に、麗奈は真剣だが優しい笑顔で言う。

「いいえ」

 千早は首を傾げる。

「千早と行きたいのです」

 その言葉に千早は顔を赤らめた。

「受験やご家族のことで忙しかったようですので、これまでは旅行に誘っていませんでした。ですが、私は千早の隣で歩いていきたいのです」

 照れてうつむく千早の口元は緩んでいた。その時には他のお客さんの視線など気にしなくなっていた。

 麗奈は何も言わない千早にたじろぐ。

「ダメですか……?」

 千早は顔を上げ、すっきりした表情で言う。

「もうすぐ春だね」

 今度は麗奈が首を傾げる。

 千早は立ち上がってカーテンを開けると、窓を思いっきり開けた。外から風が吹き込み、太陽の光が差し込む。そして、どこから飛んできたのかわからない桜の花びらが勢いよく店内に入ってきた。

 他の客は一瞬目を閉じる。しかし、麗奈は窓を背に立つ千早をしっかりと見ていた。

 千早が問いかける。

「ねえ、麗奈」

 そして、伝える。

「あなたに出会えてよかった」

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機械仕掛けのこころにふれて 維織 @writingalterego

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