第六章

 十月上旬の土曜日。秋も深まり、気温も日に日に低くなる。冷たい風が吹く中、東光学園は文化祭が終わり日常を取り戻していた。来週から二学期中間試験の期間に入るため、試験前の部活は今日が最後だった。

 美術部は文化祭での一仕事が終わり、自由な時間が増えた。コンクール用の作品作りを始める部員もいれば、練習や題材探しをする部員もいる。千早は風景画の練習をしていた。美術部に入るまでほとんど描いたことがなく、人物に比べて苦手意識があったからだ。だがそれも昨日までで、千早は試験前の最後の部活を昨日終えていた。なぜなら今日が土曜日だからだ。文化祭が終わったことで時間に余裕ができ、土曜日以外も含めて千早は以前にも増して喫茶店に来ていた。

 いつもの窓際の席に座っている千早は、何となく心が落ち着かずにいた。ミルクと砂糖をいっぱい入れてコーヒーを飲む。テーブルにはノートパッドが置かれており、そこには問題集が開かれていた。千早はペンを手に持ってはいるものの、くるくるとペンを回しながら頬杖をついている。千早はカウンターにいる麗奈とマスターを見たりもしてみた。マスターはカウンター裏にある座高の高い椅子に座って今時珍しい紙の本を読んでいる。麗奈はいくつかコーヒー豆の瓶のラベルを見比べていた。成分の違いでも勉強中なのだろうか。千早は時折美術の参考書を開いたり落書き用のまっさらなノートを開いたりもしたが、結局はまた問題集を開いては時間を無駄にしていた。

 千早には自覚があった。甘えだということ、逃げているということ、大好きな麗奈を逃げ道と考えてしまっていること。それが恥ずかしくもあった。

 コーヒーカップに伸ばしたその手は震えていた。中間試験を前に自分の心の強度が弱っているのがわかった。

 渇いていない喉にコーヒーを注ぎ込み、コーヒーカップを空にする。千早はノートパッドをカバンにしまった。カバンを肩にかけ、コーヒーカップを手に持って千早はカウンター席に向かう。カウンター中央の席の座った千早は、コーヒーカップをカウンターに置き、横の椅子にカバンを置いた。千早がカウンター席に座るのは初めてだった。

 マスターは視線を本から千早の方に向けて不思議そうに見る。カウンターにいる麗奈も、目の前の座った千早の珍しい行動に首を傾げた。

「どうかされましたか」

「あ、いや、そういうわけではないんだけど」

 歯切れの悪い千早の回答に麗奈は依然として不思議そうな顔をする。千早の置いたコーヒーカップを見て、

「おかわりいりますか」

 と、麗奈が聞いた。

「うん、じゃあお願いしようかな」

 喉は渇いていなかったが、そう聞かれたので千早はお願いした。麗奈はカウンターからコーヒーカップを取って、おかわりを注いでから元の位置に戻す。その隣にミルクの入った小さなカップと角砂糖の入った透明な小瓶を置く。千早は、先程まで座っていた席にミルクのカップと角砂糖の小瓶を置いてきてしまったことにそこで気付いた。取ってこようと少し腰を上げると、

「私が取ってくるので大丈夫ですよ」

 麗奈がそう言って取りに行った。千早は腰を再び落として前を向く。視界に入ったマスターはまだ本を読んでいた。千早はミルク全部と角砂糖を四つもコーヒーに入れてかき混ぜる。しかし、口は付けなかった。麗奈がカウンターに戻ってくると、回収してきたミルクカップを洗った後、角砂糖の小瓶を棚にしまっていた。

 ただ甘えたいだけ、意味はない。そんなことはわかっていたが、千早は麗奈の背中に向かって聞く。

「麗奈はいつかやってみたいことってある?」

「やりたいことですか……」

 何故そんな質問をしたのか、麗奈はあえて聞かなかった。麗奈が考えている間に、千早がさらに言う。

「マスターはありますか?」

 聞かれたマスターは顔を上げて千早の方を見た。

「麗奈が幸せに過ごしてくれればそれでいいよ」

 そう言ったマスターの顔は真剣なようにも見えたし、どこか子供をあしらうような顔にも見えた。マスターの言葉を聞いてか聞かずか、麗奈も口を開ける。

「私は……」

 千早とマスターが麗奈を見る。

「私は旅行に行ってみたいです」

「旅行?」

 千早はあまり想定していなかった答えについ聞き返してしまった。

「はい。自分が知らない世界を見て回りたいです」

 その言葉を聞いて千早は思い出す、ずっと前にだが「ほとんどの時間をこの喫茶店で過ごしている」と麗奈が言っていたことを。

 すると、マスターが、

「すまないな、麗奈」

 と言う。千早は何のことかわからずただただマスターを見て固まる。

「いいえ、マスターのせいではありません。そもそも、マスターがいなければ私は存在していないのですから」

 麗奈はマスターの方に振り返ってそう言った。千早がキョトンとしていることに気付いたマスターが説明する。

「麗奈は半日以上ここから離れることができないんだ」

「どういうことですか」

「メンテナンスの問題だ」

 わかったようなわからないような顔の千早を見て、マスターが続ける。

「麗奈は私個人が作り上げたもので言わばプロトタイプだ。設計も特殊なものになっている。だから定期的なメンテナンスが必要なんだ。今は一日二回はメンテナンスしている」

 千早は少し理解したが、すぐに思い付く疑問をぶつけた。

「旅先でメンテナンスすることはできないんですか」

「メンテナンスにはここの二階にある専用機材を使って分解する必要があるんだが、機材一式となるとかなりのサイズになる。それを持ち運ぶのは難しいんだ」

「そうなんですね……」

 麗奈が遠出できない理由を千早はやっと理解した。文化祭に来られたのは半日限定だからで、それ以上は無理なんだとこの時初めて知る。

「なんとかしたいとは思っているんだが」

 困った顔のマスターを見かねて、

「こればっかりは仕方ありませんね」

 と、麗奈が苦笑いをしながらフォローした。

 千早はマスターや麗奈にさらに何か聞こうかと考えたが、何も出てこなかった。マスターと麗奈もあえて千早には聞かなかった。しばらくの沈黙の後、千早が口を開く。

「私は……」

 その続きの言葉が喉から出そうになったが、こちらを見る冷静なマスターと麗奈のまなざしに気付いて、

「なんでもないです」

 と、結局は言わなかった。

 その後、千早はしばらくボーっとしていたが、夕方前にはおもむろに店を出た。外に出ると、昼頃までは晴れていた秋空が一転して曇天になっていた。しばら歩いて家の近くまで来たとき、頭に冷たいものを感じる。手のひらを広げると、雨粒がぽつぽつと落ちてきた。

「雨だ……」

 雨はあっという間に強くなった。傘を持っていなかった千早は駆け足で帰宅する。家に着いた時にはかなり濡れてしまっていた。びしょびしょのままドアを開け、濡れたカバンを玄関に置いて家に上がる。土曜なので父がリビングにいるのが見えた。千早はタオルを取りに洗面所に入るとちょうど母が出てきて、顔と顔がぶつかりそうになった。二人の目が合い、千早の身体が硬直する。その一瞬、濡れた制服が体温を奪う。

「あら、お帰り、千早」

「ただいま、お母さん……」

 母は一歩下がってつま先から頭へと千早の全身を見る。

「濡れてるじゃない」

 責められているわけでもないのに千早は委縮した。そして、まるで言い訳をする子供のように言う。

「さっき雨が降り始めて、傘持ってなかったから」

「風邪をひいたら大変じゃない」

 そう言って母は洗面所の棚からタオルを取り出して千早に差し出す。千早は冷たく濡れた手を震わせて受け取った。

「もうすぐ中間試験でしょ」

 その言葉に心拍が上がる。身体は冷えていく一方なのに、急激に焦りを感じ内側から熱くなるのを感じた。

「気を付けます……」

 タオルに視線を落としたまま千早は返答する。

「頑張るのよ」

 母はそう言って千早の肩をポンと叩くと、リビングに戻っていった。

 千早は数秒間固まったままでいた後、

「はい……」

 と言った。既に母はリビングに戻っており、その言葉は聞こえていないであろう。

 焦りに駆られた千早は、濡れた身体のまま玄関に小走りで戻ってカバンを手に取ると、そのまま急いで自室へ入る。髪とカバンをタオルで拭いてから部屋着に着替えると、カバンからノートパッドを取り出して机に向かう。ノートパッドを開くと、喫茶店で手を付けなかった問題集が映し出された。いつもの試験前なら既に終わっているはずの問題集を見て、千早は冷静ではいられなかった。

 しばらくの間、千早は自室から出ることはなく、濡れた制服は床に放られたままだった。



 十月下旬。校内の銀杏の紅葉も次第に落ちていき、夕日が寂しく校舎を染める。放課後の閑散とした校舎の中、西日が差し込む廊下で千早は電子掲示板の前に立っていた。そこ映し出された二学期中間試験の成績上位者、千早の名前はいつもと同じ場所にあった。今回も千早は学年で一位だった。夕日を背にして、無表情で自身の名前を見つめる。

 その日は中間試験の結果が発表された日だった。生徒のノートパッドに各自の成績が送られる。千早は自身の成績を確認したときホッとした。甘えを自覚して結局は猛勉強したものの、不安はあったからだ。しかし一方で、安堵の根本に母の顔があることも理解しており、形容しがたい気持ちになった。

 電子掲示板の自身の名前から視線を外し、千早は廊下を歩き出す。部活も休み、喫茶店に行くでもなく、自分らしくないと思いながら学校をふらついた。音楽室から聞こえる吹奏楽部の音、職員室から聞こえる教師の会話、中庭に響く運動部の掛け声。千早は一通り学校をふらついて、自分のクラスの教室に戻ってきた。自分の席に座ってカバンを机に置く。教室には誰もいなく、教室の電気は消えたまま。日が傾くのも早くなり、ついさっきまでまぶしかった夕日も影を潜めつつある。千早はカバンの上に突っ伏して目をつぶり、そして思い出す。


 その日最後の授業が終わり、教室では騒いでいる生徒もいれば帰り支度をする生徒もいた。千早はぼんやりと窓の外を見つめる。誰かが今朝返却された成績の話をしているのが聞こえて、耳をふさぎたくなる。その時、ガラガラと教室の扉が開いて担任の千葉先生が入ってくる。生徒はそれを見て席に着き始めた。千葉先生が教卓に立つがまだおしゃべりしている生徒もいる。

「帰りのホームルーム始めるぞ」

 先生がそう言うと静まった。千葉先生はお決まりの言葉をやや気だるそうに言う。

「中間試験の結果が届いていると思う。各自よく復習しておくように」

 千早は思う、「私に必要な復習って何?」と。そして、自分の意地の悪さに落ち込む。

「それから来月の三者面談の日程が決まった。後で君たちと親御さんにメールが行くと思う。もし都合がつかないようなら調整するので早めに報告するように」

 三者面談という言葉に千早は身体がこわばる。

 東光学園では高校二年生と三年生を対象にして毎年十一月に三者面談が実施されていた。高三は最終的な進路の確認、高二は進路相談といったところだ。

「いいか、君たちが思っている以上に残りの高校生活は短い。後悔しないためにも進路については高二のうちにしっかり考えておくように」

 何人かの生徒がひそひそと「理系にする?」「学部決めた?」などと話しているのが聞こえる。千早は自覚する、自分は他の人が前提としている地点にすら立てていないことを。

「三者面談の前にご両親とも話しておくように。ホームルームは以上だ」

 そう言うと千葉先生はさっさと教室を出て行った。それと同時に、さっきまでのひそひそ声は騒音となる。皆それほど悲観的ではないようで、深刻に考えている自身が浮いている気がした。それを確かめるように、振り返って後ろの席の七海に聞く。

「七海は進路もう決まってる?」

 七海とは意外にも進路の話をしたことがなかったなと今になって思う。

「ちゃんとは決まってないかなあ。デザインとか興味あるから大学で勉強したいなって何となく思ってるけど」

 七海の返事は軽いものだった。決して真剣に考えていないわけではないのだろうが、なるようになるだろうという気持ちが感じられた。きっと本来はそうあるべきなのかもしれない。

「千早は?」

「私は……」

 言葉が出てこなかった。何とか言葉を探している間に、

「おーい、霧島。きーりーしーまー」

 と、千早を呼ぶ千葉先生の声が聞こえた。千早は周囲を見回すが千葉先生はいない。今さっき教室を出て行ったまま教室に戻った様子はなかった。しかし、千早を呼ぶ声はその後も途絶えない。千早は周囲をぐるぐると見回す。段々と目が回り、周囲の風景がコーヒーに入れたミルクのように混ざっていく。


「霧島、いい加減に起きろ」

 千早はゆっくりと目を開ける。

「先生……?」

 そこには千葉先生が立っていた。やや寝ぼけたまま、千早は机にもたれかけていた身体を起こす。

「はあ、やっと起きたか」

 腕を組んだまま千葉先生はため息をした。

 電気が教室内を照らしている。窓の外は既に暗くなっていた。電子黒板の端に表示された時計を見て千早は目が覚める。六時三十分。千早が教室に来てから二時間以上が経っていた。

「まったく……。どうしてこんな所でこんな時間まで寝てたんだ」

 千葉先生は呆れ半分心配半分といった表情だ。

「ええっと……、なんででしょうね」

 言い訳するでもなく千早は苦笑いで答えた。

「困った生徒だ」

 やれやれといった顔の千葉先生だが、千早には少し嬉しそうにも見えた。

「すいません」

 不思議と千早の気分は悪くなかった。

 千早はカバンを手に取り、腰を上げて帰ろうとすると、

「帰りは電車か?」

 と、千葉先生が聞いた。千早は意図がわからないまま答える。

「そうですが」

「そうか」

 二人が教室を出てドアを閉めたところで千葉先生が言う。

「職員室寄るからついてこい」

 反省文でも書かされるのかと思いながら千早は千葉先生の後を歩く。廊下は電気がついていたが誰もいない。二人の足音が妙に響いた。六時半と言ったら生徒は皆下校している時間だ。というのも、部活動は原則六時までだからだ。千早は「先生に質問していたら遅くなってしまった」などと母への言い訳を考えながら千葉先生の後ろをついていく。

「ここでちょっと待っててくれ」

 そう言って千葉先生は職員室に入っていくと、しばらく千早はその場で待たされた。千葉先生が入っていくときにドアが開いて職員室の中が見えたが、他にも残っている先生はたくさんいるようだ。先生同士の会話がドア越しに少し聞こえる。生徒がいなくなった学校での先生の会話はなんだか聞いてはいけないような気がした。それと同時に千早は孤独感も感じた。

 五分ほどして千葉先生が出てきた。

「待たせたな。それじゃあ帰ろうか」

 その予想外の誘いに千早は思わず、

「え?」

 と言ってしまう。補足するように先生が付け加える。

「もうこんな時間だからな、駅まで私の車で送ってあげるよ」

「いいんですか」

「むしろ送らせてくれ」

 またしても予想外の言葉に対して、今度は冷静に、

「よくわかりません」

 と千早は返す。

「とりあえず駐車場に行こうか」

 千葉先生は職員室を一瞥してから廊下を歩き出し、千早もその後をついていく。職員室から離れてから千葉先生が話し始めた。

「こんな時間まで残っていた生徒をそのまま帰して事件や事故に巻き込まれたら責任問題だからな。形だけでも生徒の安全を配慮しないといけないんだよ。まあ、そのおかげでくだらない会議に出ないでそのまま帰宅できるからありがたいけどな」

 そう言った千葉先生の表情は「やってられるか」といった感じだった。

「ぶっちゃけますね」

 微妙な表情の千早を見て、やや申し訳なさそうに、

「すまんな、こんな教師が担任で」

 と千葉先生が言う。しかし、千早は微笑んで自然と答えた。

「いいえ、私にとっては当たりです」

 先生も優しく微笑み返す。

「そいつはよかった」

 そんな会話をしている間に校舎裏の教員用駐車場に着いた。駐車場入り口にある自販機で千葉先生は缶コーヒーを買っていた。スウォッチで支払いをして、ガランと音を立てて缶コーヒーが出てくる。

「霧島も何か飲むか?」

「えっと、じゃあカルピスで」

 千葉先生はカルピスのボタンを押してピッとスウォッチで支払った。二つの缶を取り出し、片方を千早に差し出す。

「ありがとうございます」

 そう言ってカルピスを千早は受け取った。千葉先生は何も言わずにコーヒー缶を開けて一口飲む。その様子を見ながら千早は聞いてみた。

「先生って結婚してますか」

 突然急所を突いてきた質問に千葉先生はコーヒーを吹き出しそうになる。

「急にどうした」

 千早はふと思ってしまったのだ、「もしこんな人が……だったら」と。

「いえ、その、なんとなく気になったので」

 千葉先生は大きなため息をついた。

「残念ながら世の男には私の魅力がわからないらしい」

「見る目がないですね」

 くすくすと笑う千早に、

「だろ?」

 と千葉先生は言ってもう一度大きなため息をついていた。

 それから二人は歩き出し、一台の車の前で立ち止まる。それは真っ赤な千葉先生らしい車だった。運転席に千葉先生、助手席に千早が座る。千葉先生は飲みかけの缶コーヒーをホルダーに入れ、ナビの行き先を学校の最寄り駅に設定した。自動運転モードで発進した車が二人の身体を揺らす。千早は缶を開けてカルピスを一口飲んだ。

「七月の面談の時に教師に興味があるって言ってたけど、進路はその方向で固まったのか?」

 千早は両手で缶を持ち少し考える。

「教師になりたいという気持ちは変わっていません」

 何かを察したのか、千葉先生が続けて質問する。

「来月には三者面談があるが、ご両親とはもう話したか?」

「いえ、まだです……」

「話しにくい理由があるのか?」

 無言が続く。

「まあなんというか、君なりの答えを見つけるといい」

 きっとそれが千葉先生なりの優しさであり、精一杯の返事だったのだろう。

 その後はお互いに特に話すことはなく、五分ほどですぐに駅に着いた。飲みかけのカルピスを持ったままお礼を言って千早は車を降りた。千葉先生も「気をつけて帰れよ」と一言言ってすぐに帰っていった。

 千早は下を向きながら駅の改札に向かう。いつもよりカバンが重く感じた。



 十一月中旬、太陽が雲に隠れる午後三時。冷え切った廊下に椅子が二つ、千早と母が座っていた。

 三者面談週間ということで、この一週間は午前中で授業が終わり午後は面談が取り行われている。千早は午後から部活に行っていたが、面談のために抜けてきていた。教室内で話す声がわずかに聞こえるが、廊下はとても静かだ。普段とは違うお堅い格好をした母の横で、千早は無言で縮こまっていた。

 その日までに千早は母に進路の話をできていなかった。話そうとしてもいざ母の顔を見るといつも逃げ出してしまった。

 教室のドアが開き、そのガラガラという音に身体がびくっと反応する。前の生徒と母親が出てきた。軽く会釈をして入れ替わりで千早と母は教室に入る。七月の面談時と同様に教卓の前の机だけが向かい合わせになるように並べられている。ただし、今回は机が四つ使われていた。

「よろしくお願いいたします」

 母がお辞儀をして言う。座っていた千葉先生も立ち上がり、

「こちらこそよろしくお願いします。おかけください」

 と言って着席を促した。母が座ってから千早も席に着く。

「今日は主に成績と進路の話をさせていただきたいと思います。といっても、娘さんの成績については特に私から言うことはありません。お母様の方からは成績について何かありますか?」

「いいえ、大丈夫です」

 顔に張り付いたような笑顔で母は答えた。

「そうですか。では進路について相談事などはありますか?」

「いいえ、特にありません」

 変わらない母の表情。千葉先生はこれといった感情を示さず事務的な対応をする。

「既に進路は決まっていて、お二人とも納得されているということですか?」

「いいえ、千早とは進路の話はしていません」

 母は視線を千葉先生から千早に移して、

「ですが、千早のことなので心配していません」

 そう笑顔で言った。

 千早はその視線に気付いていたが、うつむいたまま反応できない。

「そうですか」

 千葉先生はそう言って少し目をつぶって考えてから言う。

「霧島、君から何か言っておきたいことはあるか?」

 うつむいたまま千早は考える、いつかは言わなければいけないと。たった数秒がものすごく長く感じられた。そして振り絞るように言う。

「私、学校の先生に興味があって……」

 一呼吸置いて、変わらない調子の声で笑顔の母が言う。

「今何て?」

 千早は顔を上げて母に向かって精一杯に言った。

「学校の先生になりたいの」

 その瞬間、平手が飛んでくる。


 またやってしまった

 こうなるのはわかっていたのに

 甘かった

 どこかで上手くいくんじゃないかと思っていた

 この呪縛からは逃れられないんだ

 

 そこからの面談の記憶は曖昧だ。ヒステリーを起こして騒ぐ母、それを止めようとする千葉先生。母の怒号は他のクラスにまで響いていたことだろう。頬が次第に熱を帯びていく。

 千早はただただ母に言われたことに対して「はい」と答えることしかできなかった。

 しばらくして母のヒステリーは収まり、三者面談はそのまま終了となった。教室を出るときに千葉先生は千早に申し訳なさそうな顔をしており、千早は逆に申し訳なくなってしまった。廊下に出ると、次に待っていた親子が一瞬こちらを見てすぐに目をそらして教室に入っていった。

「私は帰るけど。千早、あなたはどうするの」

「……図書室で勉強してから帰ります」

 部活に戻るとはとても言えなかった。

「そう」

 母はそのまま帰っていった。

 千早はしばらく廊下に立ち尽くしたままだった。


 千早は一時間ほど図書室で勉強してから学校を出た。勉強中も自分の気持ちがどこにあるのかわからないまま、感情を失って作業するように勉強していた。帰りの電車の中で思い出したように「部活には戻らずそのまま帰宅します」と美術部チャットに書く。

 自宅の最寄り駅に着く頃には時刻は五時半だった。改札から出た千早はおもむろに立ち止まり、魂が抜けたように駅前の清掃ロボットを見つめる。駅舎の屋根の下から臨む空には黒い雲が立ち込めており、今にも雨が降りそうだった。傘を持っていない千早が気の抜けた声でボソッと言う。

「早く帰らなきゃ……」

 ぼーっと空を見ていると、肩をトントンと叩かれた。寝ぼけているかのようにゆっくりと振り返る。

「こんにちは、千早。学校帰りですか?」

 そこにいたのは嬉しそうな笑顔の麗奈だった。文化祭の時と同じシャツとロングスカートに薄手のコートを着ており、その手には買い物袋と傘を持っていた。買い物の帰り際に偶然千早を見つけたのだろう。

 いつもの千早なら麗奈同様にこの偶然を喜んでいただろう。しかし、今の千早の表情は死んだままだった。

「ああ……麗奈か……」

 千早はそう言うと、すぐに視線を空に戻した。すると雨粒が落ちだし、数秒のうちにその音は大きなものになった。千早のその様子を見ていた麗奈の顔から笑顔が消える。そして、麗奈は千早の隣に並んで同じく空の様子を見る。

「雨ですね」

 麗奈は優しい口調でそう言ったが、千早はまるで雨音で聞こえていないような素振りをする。それでも麗奈は続ける。

「傘はお持ちですか?」

 今度は答えを求められる質問だ。千早も無視できず間を置いてから小さな声で言う。

「ううん……」

 麗奈は間を置かずに聞く。

「私の傘に一緒に入っていきますか?」

 今度は少しはっきりした口調で千早が答える。

「いい」

 麗奈はそれでも優しい口調で続けた。

「お店で雨宿りしていきますか?」

 千早はさらにはっきりとした口調で言う。

「……いい」

 麗奈は優しく、それでいて心配そうに聞く。

「どこかで傘を買っていきますか?」

 千早のこぶしにぎゅっと力が入る。そして、麗奈の言葉に被せるように、

「いいって言ってるじゃん!」

 と言ってしまう。それは大きな雨音の中でもはっきり聞こえるほどの声だった。

「……しつこかったですよね、ごめんなさい」

 麗奈は千早の隣に立ったまま、しかし、その視線を空から地面に落としてそう言った。しばらく二人の無言が続いた。千早はその空気に耐えられず、その場から立ち去ろうとして麗奈に背を向ける。その瞬間、麗奈は千早の方に振り向き、

「あの、千早」

 と必死に言う。千早は背を向けたまま、駅舎の屋根の下ギリギリのところで立ち止まる。千早の顔には雨が少しかかった。

「何かあったのですか」

 千早は背を向けたまま、

「今日学校で三者面談があった」

 とだけ吐き捨てた。

「もしかして、お母様と何かあったのですか」

 麗奈の言葉に無言でうなずく千早。麗奈がそれを見て続ける。

「以前、千早とお母様の関係について真千さんにお聞きしました。真千さんのことは責めないであげてください、私がお願いして話していただいたのです。その時に、千早がお母様に委縮するきっかけとなった出来事もお聞きしました」

 千早はグッと歯を噛み締めた。

「難しい問題なのでしょう。私には経験のないことです。おせっかいかもしれません。それでも私は、千早に千早が望む道を歩んでほしいと思っています」

 麗奈は心配そうな表情をしているが、しかし、優しく、そして力を込めて真剣に言葉を紡いだ。

「ですが、この件で私ができることはきっと何もありません。千早が乗り越えないといけないのだと思います。私は、千早にこの壁を乗り越えてほしいと思っています。そして、きっと乗り越えられると信じています。だから……」

 その時、千早は振り返り、目をつぶって身体いっぱいに力を入れて叫んだ。

「知ったようなこと言わないで! 麗奈に私の気持ちなんてわからないよ!」

 その瞬間、雨音が止んで千早の声だけが響いたような空気が二人を覆う。

 そして、またすぐに雨音が二人を包んだ。

 我に返った千早が目を開ける。そこにいた麗奈は優しくも、とても悲しそうな表情をしていた。

「いや、ちがっ、今のは……」

 麗奈は何も言わなかった。しかし、その表情は千早が初めて見るものだった。千早は一歩、二歩と後ずさり、少しずつ雨が背中を濡らす。

 千早は怖かった。そして、逃げ出した。

 麗奈に背を向け、雨の中を駆け出す。この時の千早は気付いていなかった、自分が赤信号の横断歩道を走り抜けていることに。

「危ない!」

 麗奈の聞きなれない大きな声につい振り向こうとして、ようやく気付く。すぐ横にはトラックが迫っていた。心の中で「終わった」と思った千早は目をつぶる。何もかも諦めた。

 次の瞬間、大きな金属音と共に身体に鈍い衝撃が走った。

 目をゆっくりと開ける。トラックは既に通り過ぎており、他の車が道路を次々に走り抜けていっていた。千早は肩にかけたカバンをおなかに抱え、駅の方を向いて地面に座っている。自分が生きていることに千早は驚いた。

 同時に千早は恐ろしいことに気付く。地面に散らばる金属片、そして右足と思われる大きな塊。千早を抱きかかえるようにして、麗奈がうなだれていた。麗奈は頭を千早の背中にもたげる。

「急に……飛び出したら……危ない……ですよ。……怪我は……ありません……か?」

 麗奈の声は震えていた。千早は振り返って麗奈を抱きかかえる。

「麗奈、どうして!」

 麗奈は何も言わずに笑った。その笑顔に千早は返す言葉もなく、悔しかった。

 千早は周囲を見渡して懸命に状況を把握しようとした。麗奈のスカートは破れ、配線がむき出しの断面が見える。地面にはもげた右足と、砕けた右足の欠片や部品が飛散していた。ほんの少し前まで二人が立っていた駅の下には、麗奈が手放したのであろう買い物袋と傘が地面に転がっている。

 それは麗奈のとっさの判断だった。トラックに轢かれそうになる直前、麗奈は千早に飛びかかった。そして、横断歩道を抜けた先で身体をひねり、千早の身体を上にして着地したのだ。トラックには轢かれずに済んだものの、着地に失敗しておしりを直接地面に叩きつけてしまい、その結果右足が根元からもげてしまった。人間一人を抱えてまともに地面にたたきつけられたのだから衝撃は相当なものだ。麗奈の声が震えていたことが、その衝撃と影響の大きさを示していた。

 ここで千早は徐々に人だかりができ始めていることに気付く。さらに千早は事の重大さに初めて思い至り、目の前が真っ暗になる。

 麗奈の存在は非合法だ、その存在が公然となれば――

 はっと思い麗奈を再度見ると、先程までの表情は消えて怯えていた。麗奈も状況を理解したようだった。

 千早は焦った。そして考える。どうすべきか。考える。考える。そして思い出したように言った。

「ぎ、義足が壊れちゃった!」

 それはひどい棒読みだったが、千早にできる最大限のことだった。

 千早は千葉先生の義手を思い出し、麗奈の足も義足として誤魔化せるのではないかと考えたのだ。とはいえ本物の義足を見たことがない千早にとって、麗奈の右足の惨状を義足ということで誤魔化せるのか自信はなかった。しかし、他に思い付く案もなかった。

 千早はわざと周囲の人に聞こえるように「義足が……義足が……」と言いながら、砕け散った細かい部品を片っ端から急いで自身のカバンに突っ込んでいった。拾い終わるとカバンのチャックを閉めて、おなか側に抱えるようにしてカバンを両肩にかける。そして、無惨な姿となった右足を手に取り、

「これ持って!」

と言って麗奈に握らせた。そして、怯えた表情のままの麗奈をおんぶする。

 千早は雨の中を勢い良く走り出した。傘を差した人だかりを抜け、とにかく走った。千早の身体がきしむ。その機械仕掛けの身体は一人の女子高生が背負うには重すぎた。それでも千早は走り続けた。ずぶ濡れになりながら、転びそうになりながら、それでも踏ん張って走った。

 何とか喫茶店の前にたどり着いた千早は周囲を見回す。誰にも見られていないことを確認すると、千早は麗奈を背負ったまま店の扉を蹴って中に入った。幸い他の客はいないようだった。しかし、マスターも見当たらない。

「マスター!」

 千早は大声で呼ぶと、マスターがカウンターの奥から出てきた。やや気だるそうなマスターの表情は、びしょ濡れで入口に立っている千早と、千早に背負われている片足のもげた麗奈を見て、瞬時に危機感に満ちた。

「どうした、一体何があったんだ!」

 そう言いながら二人の元に駆け寄る。千早は言葉を発することなく、背負っていた麗奈を慎重に床に降ろす。麗奈が持つ右足、そして麗奈の苦しそうな表情を見てマスターは絶句していた。千早は黙ったまま急いでびしょ濡れのカバンから部品を取り出して、一つずつ床に並べていく。その顔を塩辛い雨水が滴っていた。

 部品を全て出し終えると、千早はただ一言「ごめんなさい」とだけ言って店を飛び出した。マスターが呼び止める声も聞かず、千早は雨の中を逃げ出していった。



 十二月下旬のある日、街にはちょうど午後五時の鐘が鳴っていた。空は雲が覆っており、ゆっくりと雪が降り積もっていく。クリスマス気分の街の明かりが雪に反射して、街全体がきらめいていた。

 二学期の終業式が終わって家路についた千早は、駅の改札前に立っていた。クリスマスに賑わう人々とはまるで別の世界にいるように、一人空を眺める。

 雨の中逃げ出したあの日から約一ヶ月、千早は一度も麗奈に会っていない。会いには行かなかった。

 しばらくして傘を差した千早は、思い出すようにあの日と同じ道を辿る。降り積もった雪には千早の足跡が刻まれていった。

 喫茶店にはCLOSEの札がかかっていた。それでも千早は扉を開ける。

 カウンターで二人が作業をしていた。一人はマスター。もう一人は、肩のあたりまで真っすぐに伸びた艶のある黒髪、そして美しい黒い瞳、筋の通った高い鼻、瑞々しい唇。メイド服を着たその女性の容姿は、千早が初めて見るものだった。しかし、千早にはすぐにわかった。

「麗奈……」

 麗奈はカウンターから出てきて、入口に立つ千早の前に来て言う。

「待っていました、千早。会いに来てくれると信じていました」

 お互いに見つめる。麗奈の包み込むような表情に、千早は目をそらしたくなるのをこらえる。十秒ほどの沈黙の後、マスターが言う。

「そこで立ってないで座ったらどうだ」

 二人は互いに黙ったまま、示し合わせたわけでもなく自然と窓際の席に向かい合わせで座った。それはよく千早と麗奈が座っていた席だった。座ってからも沈黙が続いたが、麗奈が切り出す。

「あの事故の後、身体はマスターに修理してもらいました。千早が部品を回収してくれていたので修理はすぐに完了しました」

 千早はそれを聞いても返す言葉が出てこない。再び沈黙が続くが、またしても麗奈が切り出す。

「私の髪や瞳が前と変わっていて千早は驚いたかもしれません」

「うん……」

 千早は上手く言葉が出てこない。麗奈が続けた。

「千早のとっさの判断のおかげで、私がアンドロイドであることが世間に知られずに済みました。ですが、あの事故を目撃していた人もいましたので、マスターと相談して念のため見た目を変えることにしたのです」

「そうだったんだ……」

 沈黙が再開しそうになったところで、マスターが千早の前にコーヒーを置いた。

「これはサービスだ」

 千早はマスターを見上げて言う。

「あの時はすみませんでした。麗奈を傷付けた上に、何も言わずに逃げ出してしまいました。どうお詫びすれば……」

 マスターは落ち着いた声で返す。

「何があったか全部麗奈に聞いたよ。私はもう怒っていない。私のことはいい。今日君は麗奈と話をしに来たんだろう?」

 そう言うとマスターはカウンターの方へ戻っていき、そのまま裏へ行って姿を消してしまった。千早は一瞬麗奈を見たが、すぐにうつむく。

 千早は言わなければいけないことを理解していた。そして、麗奈も千早の言葉を待っていた。千早と麗奈の間には時間が止まったように無言がしばらく続く。コーヒーの湯気が昇っていく様子だけが時間の経過を知らせた。

 そして、千早は心を決めた。前を向き、真剣で凛々しい表情で麗奈を見つめ、言葉を紡ぐ。その表情には甘えはなかった。

「あの日のことを謝りたい。感情的に当たってしまった上に、麗奈を傷付けた。どれだけ謝っても足りないくらい酷いことをしてしまった。本当にごめんなさい」

 千早は深く頭を下げる。

「はい」

 麗奈は落ち着いた優しい声で答える。頭を上げた千早は、再度麗奈を見つめて言葉を続けた。

「あの日、麗奈は言ってくれた。母との件、私自身が乗り越えないといけないと」

「はい」

 麗奈はしっかりと千早の言葉を受け入れるよう相槌を打つ。

「この一ヶ月間ずっと考えていた。逃げ出した自分がずっと恥ずかしかった。でも怖かった」

「はい」

「麗奈の言った通り、私自身が解決しないといけない問題。それはわかっていた。でも抗うことができなかった」

「はい」

「母からも、麗奈からも、自分からも逃げた」

「はい」

「でも麗奈を失って気付いた、抗わなければと。自分の意志で行動しなければと。でなければ何も変えられない、それどころか大切なものを失ってしまうと」

「はい」

「私はもう逃げない。ちゃんと向き合う。今日、お母さんに私の素直な気持ちを伝えようと思う」

 千早の言葉を聞き終えた麗奈は微笑んだ。

「ありがとうございます。千早の気持ちを聞けて嬉しいです」

 千早はそれでも真剣な表情を崩さなかった。麗奈が続ける。

「今度は私の話を聞いてもらえますか?」

 千早の鼓動が速くなった。

「はい」

 千早の堅い返事を聞いてから、麗奈が丁寧に話し始める。

「私もこの一ヶ月間ずっと考えていました」

 麗奈は思い返す。

「私たちが出会った時のことを覚えていますか?」

 千早は緊張気味に頷いた。

「千早は私の絵を描いてくれました。千早は少し緊張しているように見えましたが、私の名前を聞いてくれて嬉しかったのを覚えています。そして、次に会った時には突然告白してきましたよね」

 千早は緊張しつつも顔を赤らめる。しかし、麗奈は少し寂しそうに言う。

「どうして千早が自分を選んだのか、その時の私にはわかりませんでした」

 千早も呼応するように少し寂しそうになる。

「千早が私を選んだ理由はわかりませんでしたが、千早の言葉はとても誠実に感じました。だからこそ、私も千早に誠実に向き合わないといけないと思い、友人からスタートさせてもらいました」

「はい」

「私には基本的な知識がプリインストールされています。しかし、私はほとんどの時間をこのお店の中で過ごしていたので、経験が伴っていませんでした。つまり、知らないことばかりだったのです」

「はい」

「ですが、千早と出会ってからは色んな経験をしました。楽しいこともあれば、悲しいこともありました。今思い返しても胸が一杯です」

「はい」

 麗奈は目を閉じ、感慨深そうに言う。

「その中で、人を好きになることを知りました」

 その言葉を聞いて千早は身体が熱くなった。

 麗奈は目を開けて千早を見つめる。そして、言った。

「千早のことが好きになりました」

 千早の燃え上がりそうな心と身体が固まる。麗奈に今日そんなことを言われると千早は思っていなかった。そんなことお構いなしに麗奈は言葉と感情を紡ぐ。

「もっと千早と色んな事をしたい。もっと千早と色んな所へ行きたい。もっと千早のことを知りたい。だからこれからも一緒にいてほしい」

 感情を吐き出し終わった麗奈は、

「これが私の気持ちです」

 と言った。それが麗奈なりの答えだった。千早は硬直したままだ。二人の間に無言が続く。伝わったのか心配になった麗奈が付け加える。

「千早が告白してくれた時、付き合ってほしいと言っていましたよね?」

 千早が頷く。やっと千早の反応があってほっとした麗奈が、

「もし千早の気持ちが変わっていないのであれば、よろしくお願いします」

 と言う。

 千早は破裂しそうな心臓を抑えながら、しかし、真剣な表情で、

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 と応えた。お互いに見つめ合い、お互いに少し恥ずかしそうに笑う。

「それともう一つ伝えたいことがあります」

 そう言った麗奈は真剣な表情に戻る。

「はい」

 千早の表情の真剣なものに戻った。

「事故にあった日、千早には千早が望む道を歩んでほしいと私は言いました。今でもそう思っています。私は私の好きな人に望まない人生を送ってほしくありません」

「はい」

「ですが、千早のお母様にもお考えがあるのでしょう。なので、私の気持ちはきっとエゴなのです」

 麗奈がエゴという言葉を使ったことに千早は少し驚いた。

「それでも、千早にはお母様とちゃんと向き合ってほしい。だから、お母様に向き合うと言ってくれたこと、とても嬉しかったです」

 千早は自分の言葉の重さを改めて感じる。そして、この先のことが想像できた。

「私は千早に伝えた、千早も私に伝えた。同じように千早の本当の気持ちをお母様に伝えてください」

 その言葉を聞いた千早は、

「うん……」

 と涙声で返した。千早は泣いていた。きっと何かを壊してしまうのがわかった。それでも進むと決めたのだ。

 千早は冷めきったコーヒーを一気に飲み干す。そして、立ち上がる。涙をぬぐい、麗奈に言った。

「行ってくるよ」

 麗奈もその言葉に応える。

「はい」


 駅前のクリスマス気分の雰囲気とは違い、住宅地の街頭が薄暗い夜を照らす。一歩歩くごとに数センチ積もった雪を踏む音が鳴った。冷たい空気に息も白くなる。一つ一つの感覚を噛みしめながら帰った。


 目の前の自宅のドアを見つめて深呼吸をする。

 ドアを開け、千早は踏み出した。

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