閑話休題その二
時は少し遡って八月下旬のある日。まだまだ暑い日が続いていたが、真千は冷房の効いた自室で机に向かっていた。
「ダメだ、全然進まない……」
天井を見上げてそうつぶやく午後二時。誰もいない自宅で真千は一人嘆いた。
夏休みの残りも少なくなる中、真千はまだ宿題が終わっていなかった。千早ほどではないものの、真千も部活があってそれなりに忙しかった。とはいえ、千早のように時間を上手く使って勉強したりはせず、遊んでいることも多かった。その結果が現状である。いざ机に向かっても、元々勉強が得意ではない上に、夏休み気分で勉強に集中できず、宿題はなかなか進まずにいた。こんな時はいつもなら千早に勉強を見てもらっていたが、千早はこの夏休み連日学校で作業しており、頼める状況ではなかった。
「……よし、決めた」
真千は場所を変えることにした。しかし、今から学校の図書室に行くのは時間がかかる。そこで思いついた、あの喫茶店に行こうと。一度しか行ったことはないが、あそこは静かな上に良い雰囲気で勉強に集中できそうな気がした。
早速着替えて準備をする。白いTシャツにデニムのショートパンツというラフなスタイルだ。真夏の太陽に備え、キッチンでコップ一杯のジュースを一気に飲む。空のコップを家事アンドロイドに渡して元気に言った。
「行ってきます」
自宅から喫茶店までは決して遠くない。歩いて十分ほどだ。しかし、真夏の太陽が容赦なく体力を奪い、喫茶店に着く頃には汗をかいて喉がカラカラだった。扉を開けて一歩店に入ると、冷房の効いた心地良い空気が身体を包み込む。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
カウンターにいる麗奈が綺麗な声で出迎える。隣にはマスターがいて、いろいろなコーヒー豆の瓶を出して実験のようなことをしていた。新しいコーヒーの開発でもしているのだろうか、そんなことを考えながら以前来た時と同じ窓際の席に座る。相変わらず他の客はいなかった。麗奈がお品書きを持って真千の元に来る。
「お久しぶりです、真千さん。今日はお一人ですか?」
麗奈からお品書きを受け取りながら真千は、
「はい。夏休みの宿題をやってたんですけど、家だとなんだか集中できなくて」
と言って苦笑いをした。
「ここは雰囲気も落ち着いているので、確かに勉強に向いているかもしれませんね」
そう言った麗奈の微笑みは美しく、千早が惚れたことに真千は改めて納得した。
真千はお品書きを開いて何を飲むか考える。とにかく冷たいものが飲みたかった。
「今日も暑いですね。アイスカフェオレはいかがですか」
真千が汗をかいて店に来たのを気付いてか、麗奈がそう提案する。真千も麗奈がおすすめするならそれでいいやと思った。
「あ、じゃあそれお願いします」
「かしこまりました」
麗奈は真千からお品書きを受け取りカウンターに戻っていった。カウンターでは麗奈から注文を聞いたマスターが、実験を中断してアイスカフェオレを用意していた。
その間に真千は麗奈の言葉の意味を考えていた。「『今日はお一人ですか』っていうのは、やっぱりお姉ちゃんに会いたかったってことなのかな」と。真千の目から見ても千早はとても忙しくて喫茶店に来る余裕があるようには見えなかった。
麗奈が戻ってきてグラスを置く。
「アイスカフェオレです」
真千はふと思ったことを聞いてみた。
「麗奈さんも姉の文化祭行くんですか?」
「文化祭?」
予想外の反応だった。当然麗奈は千早から文化祭のことを聞いていると思っていたからだ。真千は思い付く可能性を聞いてみた。
「もしかして夏休みに入ってから姉と会ってなかったりします?」
「いえ、十日ほど前に一度来られています」
「そうですか……」
千早が文化祭のことを意図的に話さなかったのだろうことを真千は察した。迷ったものの、真千はあえて言うことにした。
「九月の最後の土日に姉の学校で文化祭があるんです。その準備で夏休みは忙しいみたいです」
「確かに夏休みあまり顔を見ていませんが、そういった理由だったのですね」
麗奈は寂しそうな顔をする。
「姉のクラスは演劇をやるんですけど、なんと主演は姉がやるんです。麗奈さんも行ってみたらどうですか。きっと姉も喜びます」
そう提案すると、
「この前来たときに千早は文化祭の話をしませんでした。私が行くと何か不都合があるのではないでしょうか」
と、麗奈は不安そうに言った。意外と子供っぽいところもあるんだなと真千は思いつつ、自信ありげに、そして優しく言う。
「そんなことはないと思いますよ。きっと姉のことだから、麗奈さんに気を使ったのかもしれません。相手のことを考えすぎてしまう節があるので」
麗奈が首を傾ける。
「姉が誘ったら麗奈さん絶対に文化祭に行こうとすると思うんですよ。でも土日はここの店番もあるから麗奈さんに無理をさせることになっちゃう、とか思ったんじゃないですか」
真千は一番千早が考えそうなことをそのまま言った。長い付き合いだ、考えることはなんとなくわかる。しかし、それでも麗奈は不安な表情のまま答えに窮しているようだった。見かねたのか、マスターがカウンターから聞く。
「麗奈は行きたいのかい?」
麗奈は素直に答えた。
「はい、千早の出る演劇を見てみたいです」
「わかった。私も一緒に行くから、文化祭に行こう。麗奈が来たらきっと喜んでくれると私も思うよ。それに店は休みにすればいい、どうせろくに客は来ないしな」
マスターに後押しされて麗奈の気持ちが決まったのか、その表情は晴れ晴れとしていた。それを見た真千が補足するように言う。
「私から文化祭のこと聞いたのは姉には秘密にしといてもらえますか」
「どうしてですか?」
麗奈がまたしても首を傾ける。
「姉は私に気を使わせたくないようなので」
真千が苦笑いする。それを聞いた麗奈は宝石を見つけたような表情で言う。
「真千さんと千早、お互いのことをとても大切にされているのが伝わってきます」
真千は思った、こういう素直で純粋で危ういところが千早と似ていると、だからこそ惹かれたのだろうと。
ここで麗奈は「真千さんならば」と思い、思い切って聞いてみた。
「あの、千早のことでお伺いしたいことがあります。真千さんだからご相談できることです」
「なんでしょうか?」
今度は真千が首を傾げる。麗奈は真剣な、しかしどこか悲しげな表情で真千を見つめた。
麗奈が立ちっぱなしだったので、真千は手で向かいの席をさして麗奈に座ってもらった。
「以前千早が来たときに進路のことでとても悩んでいました」
「はい……」
真千はその時点で察した。
「千早は言っていました、学校の先生になりたいと。そしてお母様がきった反対するだろうと」
「姉が先生に興味を持っていることは私も聞いています」
この話はここで話してもきっと解決しないことを真千は知っていたが、それでも麗奈の話を聞いた。
「こんなことを言うのは傲慢かもしれません。ですが、千早の力になりたいのです。何か千早のために私ができることはないのでしょうか」
「それは……、とても難しい質問ですね」
そう言って黙りこくる真千に必死に麗奈が訴える。
「お母様に話してもきっと無駄だろうとも言っていました。千早はあまり語ろうとはしませんでしたが、お母様との関係はよろしくないのでしょうか。差し支えなければ、教えていただけないでしょうか」
「姉と母の関係はあまり良いものではありません。それは私や父、姉自身も理解していますが、簡単に解決できるものではありません」
真千は「仕方ない、それに麗奈さんなら」と思い、打ち明けることを決めた。
「母は『他人からどう見られるか』というのをとても気にする人なんです、多分。だから、姉にも良い大学、良い会社に入ってもらわないといけないと思っています」
麗奈の真剣だった顔が曇る。
「しかも、私の出来が悪いばっかりに、母の期待は姉に集中してしまっています」
麗奈が何か言いそうな素振りをしたので、真千は、
「いえ、いいんです。事実なので」
と遮るように言った。
「私がまだ幼稚園児だったとき、今でも忘れられない出来事が起こりました」
この人はきっとこのことを知っておくべきなのだろうと真千は思う。
「冬休みが始まろうとしていた日です。姉が母に通知表を見せたとき、母がヒステリーを起こしました。姉の成績が少し下がったことがきっかけだったようです。母のヒステリーは何時間も続いたと思います。それを見ていた私は泣いてしまいました。姉は茫然としていましたが、その時に何を考えていたのか私には知りようもありませんでした。その日を境に、姉は母に対して委縮するようになりました。テスト前には強迫観念にかられたように勉強をして、成績は常にトップを維持するようになりました」
「そんなことが……」
麗奈のけがれない表情が、その時真千には幼さに見えた。
「何も知らない人からしたら、姉は才色兼備で魅力的に見えるでしょうか。ですが、実際は傷だらけなんです。見ているこっちが痛々しいほどに……」
「千早と仲良くなったつもりでしたが、知らないことばかりで自分が恥ずかしいです」
「別に麗奈さんを責めているわけではないんです。ただ、知っておいてほしかったんです」
「真千さん、話してくれてありがとうございます」
「で、話を戻すと、麗奈さんにできること、かあ……」
しばらく考えたが、やはり結果は同じだった。
「すいません、やっぱりわからないです。私自身、どうしたらいいのかわかってないですし。それに、もしかしたら他人がどうこうできることではないのかもしれません」
「千早自身が向き合わないといけない問題ということでしょうか」
「そうですね」
結局、真千の予想通りこの問題をこの場で解決することはできなかった。
その後、真千は宿題をやったが結局集中できずあまり進まなかった。店を出たのは夕方だった。喫茶店から続く薄暗い道を抜けると西日が差し込む。日が落ちるのが日に日に早まっており、夏休みの残りが少ないことを感じさせた。
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