第五章
夏休みに入って二週間が経った。ぎらつく太陽に負けず、校内には運動部の声や吹奏楽部の音色が午前から響いていた。
千早は教室にいた。クラスの人がそれぞれに文化祭に向けて作業をしている。セリフの自主練習、大道具や小道具の準備、衣装の裁縫。夏休みに入ってからというものの、午前はクラスの文化祭準備、午後は部活、そして帰宅後の夜は宿題と千早は忙しい毎日を過ごしていた。部活が終わって自宅最寄駅に着く頃には午後七時になっており、喫茶店に行けない日々が続いている。
「はあ」
千早は七海に採寸してもらっていた所だった。ため息にすかさず七海が反応する。
「どうしたの?」
「最近麗奈に会いに行く時間がないなあって」
「のろけかよ」
切れのいい突っ込みをして、心配して損したといった感じで七海は採寸を続ける。
演劇は「毒に覆われつつある終末世界での人間の欲と破滅、少女の奇跡」といった内容で、かつてヒットしたアニメ映画を三十分程度の演劇になるように練り直したものだ。千早は主人公の少女を演じる。千早自身もその映画を観たことはあったが、千早の目からしても脚本は二時間の映画を上手いこと三十分にまとめられていた。脚本担当の生徒が夏休み前から入念に準備をしていたようで、夏休みに入った時には既に脚本は完成していた。そのため、他の役職の生徒も夏休み開始と同時に作業をスタートしていた。
採寸が終わった七海は「サンキュー」と一言言ってミシンが置いてある教室の端の席に戻っていった。千早も自身の練習に戻り、他の演者と台本の読み合わせをした。監督はいないが、脚本担当が自然と演技指導も行っていた。
十二時になると千早はクラスの文化祭準備から抜けた。千早以外にも部活もある生徒は同様に午後からは抜けていったが、引き続き教室で文化祭準備を続ける生徒もいた。千早は食堂へ行って登校中にコンビニで買ったおにぎりをさっと食べ、すぐに美術室へ向かった。
美術室には顧問の山内先生と二年生部員が一人いて、それぞれが作業していた。唯一の三年生部員は夏休み前に引退し、今作業している二年生部員が部長を引き継いだ。といっても、美術部は基本的に個人作業なので特に部長だからと言ってやることはないようだ。美術部の夏休みの活動は基本的に自由で、完全に個人任せであった。文化祭展示に間に合うように各自作業を自由に進めてよいが、顧問による監督の意味で通常と同様に美術室で作業予定の日程はチャットで共有することになっていた。毎日参加しているのは新部長と千早くらいで、他の部員は二、三日に一度くらいであった。千早も文化祭の作品を完成させるだけなら毎日参加する必要はなかったが、純粋に楽しいのと上達したいという思いで毎日通い、作品作りだけでなく日々絵の練習もしていた。
千早はノートパッドを開き、美術部に入ってからインストールしたイラストソフトを起動して作品の続きを描く。途中で新部長や山内先生と雑談を多少はしたが、基本的には黙々と作業をしていた。あっという間に午後六時になり、部活終了の時刻になった。
帰りの電車ではノートパッドを開いて英単語の勉強をする。つり革を右手で握り、左手でノートパッドを持つ。夏休みとはいえ、勉強を疎かにすることはできない。それに、以前よりは誰かのためでなく自分のために勉強をする理由が見えてきた気がしていた。
帰宅すると家事アンドロイドが夕食の準備をしていた。母と真千はリビングにいるが、父はまだ帰宅していないようだった。真千はイヤホンをしながらノートパッドを、母はテレビでニューズを見ていた。
「おかえり、今日も遅かったわね」
「うん、ただいま……」
母の言葉が心臓に刺さり、千早は弱り気味の返事をする。イヤホン越しに二人のやり取りを察した真千がイヤホンを外して千早をねぎらう。
「お姉ちゃん、おかえり。夏休みなのに毎日大変だね」
「文化祭の準備、みんなが気合入ってて」
母がいる手前つい「自分の意志ではなく仕方なく」といった言い訳がましい言い方をしてしまう。
「そういえばお姉ちゃんのクラスは何やるの?」
千早は文化祭準備で学校に行っていることを家族に言ってはいたが、何をやるかはまだ話していなかった。
「演劇だよ」
「すごーい! お姉ちゃんも出る?」
真千のキラキラした目に、千早は照れながら答える。
「うん。一応、主役」
「ホントに⁉ 絶対に観に行くね!」
嬉しそうな真千を見て千早も少し笑みをこぼす。その勢いでつい母にも言ってしまった。
「お母さんもよかったら……」
「そうね」
一瞬の間ができ、千早は聞いたことを後悔した。
「ところで勉強もちゃんとやっているのよね?」
「はい、大丈夫です……」
会話はそこで終わった。真千も悲しそうな顔で再びイヤホンをしてノートパッドに目を落とす。母と目が合うことはなく、千早はそのまま自室へと入っていった。
「はあ……」
何をするでもなく、ただカーテン越しの雨音を聞きながら千早はいつもの窓際の席で大きなため息をついた。相変わらず他の客がいない店内。いつもならため息さえも大きく聞こええるが、今日は雨音に消えていった。
千早は久しぶりに喫茶店に来ていた。夏休みが始まった頃に来て以来なので、二週間以上来ていなかったことになる。それだけ忙しかったということだ。
「お疲れですか?」
そう言って麗奈が千早の前にコーヒーを置く。今日はマスターがいないようで、麗奈がコーヒーを入れていた。麗奈にはため息は聞こえていなかったが、千早の顔を見れば疲れているのは一目瞭然だ。
「うん、まあちょっとね」
文化祭準備や勉強で忙しいこと、進路のこと、母のことで心身共に疲労が蓄積していた千早は、その日の予定を全てキャンセルして一人喫茶店に来ていた。
「最近あまり来てなかったので心配していました」
麗奈に心配させてしまったと千早は申し訳なく思う。安心させようと笑顔を返そうとするが疲労が表情から抜けることはなかったようで、
「私でよければお話を聞きますが」
と、麗奈に言われてしまった。今日の自分はダメだと思い、疲れた笑みのまま素直に麗奈の提案に乗る。
「お願いしようかな」
麗奈は心配そうな顔のまま千早の向かいに座る。
千早はここで考える、何を話すか。文化祭の準備で忙しかったこと、美術部で文化祭展示用の作品を描いていること、クラスで演劇をやること、自分が主役をやること、進路のこと、母のこと。文化祭のことを話そうかと思ったが、文化祭当日は店番があるから麗奈は来られないだろうと思った。きっと文化祭のことを話せば麗奈に来てほしいと余計に思ってしまう自分がいると思い、話さなかった。すると、自然と話題は絞られる。千早はコーヒーを一口飲んだ。
「進路のことで悩んでて」
「はい」
麗奈は真剣な顔で相槌を打つ。
「学校の先生に興味があるの。元々は真千に勉強教えるのが楽しいなって思ったのがきっかけ。教科とか、中学校か高校かとか、まだまだ具体的には決まってないんだけどね」
「そうなのですね。なんだか、とても素晴らしいと思います」
麗奈の表情が少し柔らかくなる。
「少し前は漠然とした気持ちだったんだけど、真千やお父さん、それから担任の先生にも相談して、自分の中で少しずつ固まってきた感じがあるの。でも、問題があって……」
「はい」
麗奈は再び真剣な顔で相槌を打つ。決して千早から聞き出そうとはせず、千早から話す言葉に耳を傾ける。千早はコーヒーを両手で持ち、うつむくようにしてコーヒーに映る自分の哀しそうな顔を見ながら言った。
「お母さんはきっと反対する。ううん、間違いなく」
麗奈はその言葉を聞いて、真剣ながらも少し悲しそうな顔をした。千早は下を向いたまま、麗奈のその表情は見ずに続ける。
「お母さんはね、私に誰もが知ってるような大企業で働いてほしいと思ってる。そういう人生を歩むように私を育ててきた」
麗奈は千早に問いかけた。
「お母様には、先生になりたいという千早の気持ちをお話しされたのですか」
その優しくも厳しくもある言葉が千早の心をえぐり、過去を思い起こさせる。
「それは……」
あれは小学三年生の十二月だった。その日は雪が降っていたのを覚えている。二学期の終業式が終わり、通知表をもらって昼前に家に帰った。通知表は少しショックなものだった。それまで母親から勉強を頑張るように優しく育てられ、幼い頃から物覚えが良かったこともあってか、主要な科目はいつも評価が五段階中五だった。しかし、その時初めて社会で四を取ってしまった。音楽や図画工作といった科目で四だったことはあったが、主要科目では初めてだった。決して勉強を怠っていたわけではないが、たまにはそういうこともあるものだ。少し落ち込んだものの、他の成績は芳しかったので母はきっといつもみたいに優しく褒めてくれるだろうと思っていた。
帰宅すると母が昼食の準備をしていた。この頃はまだ霧島家には家事アンドロイドはいなかった。真千はまだ幼稚園児で、千早より一足早く冬休みに入ってリビングで昼寝をしていた。料理中の母にせがんでノートパッドを渡し、早速通知表を見てもらった。きっとまた褒めてもらえる。そう思ってにこやかに母の言葉を待っていた。
しかし、返ってきたのは言葉ではなく平手だった。
はじめ何が起こったのかわからなかった。次第にひりつく頬と共に、しばらくの間母の怒号が続いた。途中から真千が起きて泣き叫んでいた。この時母が具体的に何を言っていたのかをはっきりとは覚えていない。しかし、最後に優しく抱きしめられて言われた言葉だけははっきりと思えている。
「ごめんなさい。でもね、悪いのは千早、あなたなのよ」
その時に初めて自分で自分の立場を理解した気がした。その日、昼食が与えられることなかった。父が帰宅して夕食になるまで感情を殺して黙って勉強をした。そこにはもはや母に褒められたいという気持ちはなかった。
これをヒステリーと呼ぶことを知ったのはもう少し年を重ねてからだった。この時のことを父に話したことはない。真千とも話したことがないので、真千が今でも覚えているのかはわからない。
母が手を挙げたのはこの時限りだった。それは、母がその時たまたま衝動的に手を挙げたからなのか、それ以降成績が常に良かったからなのか、理由はわからない。
しかしこの一件以来、母は徐々に変わっていったように思う。そして、それが普通になってしまった。私と母の関係はいつの間にか固定されてしまった。
私が何とかしようとすれば何とかなるのだろうか。
このおびえた心で足を進めることができるというのだろうか。
いや、そんなことは――。
カップを持つ千早の手を覆うように麗奈が手を重ねる。千早はハッとして顔を上げる。
「大丈夫ですか、少し顔色が悪いようです」
「うん……、大丈夫」
反射的に大丈夫と返事をして、千早は会話を続ける。
「先生になりたいって話、まだお母さんにはしてないの」
「では一度お母様と話し合ってみては」
心配する麗奈を遮るように、
「いいの」
と言い、一呼吸置いてから悲しげに続ける。
「いいの……。わかるの、話してもどうにもならないって」
「そんな……」
「まあなんていうか、色々あるんだよ」
千早は悔しげな笑みを見せてそう言うとこの話題を終わらせた。結局、千早は麗奈に過去のことは話さなかった。
その後はどうということのない雑談をして、しばらくして店を出た。帰る時には雨は一層強くなっており、傘をさしていても容赦なく制服を雨が濡らす。雨音と水しぶきで音も視界も世界がぼやける中で、千早は自分がどこに立っているのかわからないような感覚に襲われた。建物の壁に囲まれた空をビニール傘越しに見上げて、
「何もわからないよ」
そうポツリと言う。濡れる靴下や袖に体温を奪われながら、千早は帰っていった。
九月最後の土曜日。銀杏の葉を朝日が照らす。秋晴れの下、東光学園は文化祭で朝から賑わっていた。一般客の入場開始である九時から三十分程が過ぎ、客が続々と来校する。やる気に満ち溢れ準備万端のクラスもあれば、トラブルでオープンできていないクラスもあり、生徒の表情も笑顔から疲労、興味なしと様々である。
そんな中、千早はクラスメイトと共に講堂にいた。千早のクラスは夏休みにしっかり準備をしていたため、かなりの余裕を持って当日を迎えることができた。演劇は約三十分、それを午前十時、午後一時、午後三時の一日三回行うプログラムだ。これは自分たちも文化祭を回れるように配慮しての設定だった。
一回目の公演に向けて千早は舞台袖で衣装の準備をする。
「どう?」
衣装を着終わった千早が、自分で自分の服装をじろじろ確認しつつ七海に聞く。夏休み終盤の練習では衣装を着ていたが、改めて見ても完成度が高い。
「うん、バッチリ」
グッと親指を立てて七海はウインクした。あとは十分後に迫った開始時刻を待つばかりである。
「お客さん、たくさん来てるよ」
そう言って七海が客席の方を指さす。千早がそっと舞台袖から客席の方を見る。講堂は学年集会などで使われ、一学年全員が入れるくらいなので三百席はあるはずだが、八割ほどは埋まっていた。一部のクラスメイトが自主的にSNSやビラなどで宣伝を頑張っていた効果かもしれない。あるいは主演の千早目当ての生徒もいるだろう。才色兼備として同学年だけでなく学年をまたいで有名であるからだ。
そんな中、前の方の客席に真千が座っているのを千早は発見した。来てくれるとは言っていたが、それでも千早は嬉しかった。その右隣には父が座っていた。父に演劇のことを話した記憶はなかったが、きっと真千が誘ったのだろう。しかし、その隣は知らない人が座っており、母の姿はなかった。母が来ないであろうことはわかってはいたが、それでもやはり悲しかった。顔をぶんぶんと振って、千早は気持ちを切り替える。
「緊張してる?」
千早の行動を勘違いしたのか、七海がからかう。
「してないよ」
そう言い返すと同時に照明が消え、間もなく開演であることを知らせる。暗闇の中、七海はこっそりと千早に言う。
「頑張ってね」
七海が突き出したグーに、千早も頷いてグータッチした。
「最後まで観ていただきありがとうございました」
そう言って千早は深々と一礼をする。壇上に並んだ全クラスメイトが千早に続いて一礼をし、拍手の中で舞台袖にはけていった。
一回目の公演は滞りなく終わった。舞台袖では皆がホッとした様子でいた。千早は衣装姿から制服に着替え、客席に降りて行く。まだ席には真千が残っていた。
「どうだった?」
千早がそう声をかけると、真千は興奮気味だった。
「すっごく良かった! お姉ちゃん最高にかっこよかったよ!」
真千とは対照的に落ち着いているが、それでもどこか嬉しそうに父も言う。
「千早の演技も見応えがあったし、とても面白かったよ。頑張ったね」
「ありがと」
千早は素直に喜ぶ。しかし、聞かずにはいられなかった。
「ところで、お母さんは?」
「お母さんは……」
言いにくそうな真千をフォローするように父が答える。
「声はかけたんだが、自分はいいって」
この様子だときっと声をかけたのは真千で、母に何か言われたのだろうと千早は察した。
「そう……」
「すまないな」
「お父さんが謝ることじゃないでしょ」
千早がそう言っても父は申し訳なさそうにしている。その横で真千が思い出したように周囲を見渡した。そして、少しにやつきながら聞く。
「午後もまた公演やるんだよね?」
「うん、そうだけど?」
よくわからない真千のニヤニヤに千早は首を傾げる。
「父さん達は他のところを見て回って、適当な時間に帰るよ」
「わかった」
そう言って真千と父は出口の方へ歩き出した。別れ際に真千が振り返って、
「残りの公演も頑張ってね!」
と楽しそうに言って手を振ってくれた。
その後、千早は七海と共に文化祭を見て回った。十二時半には講堂に戻って再び公演の準備をする。
二回目の公演ということで千早は落ち着いて臨むことができた。そう、舞台に出るまでは。いざ舞台に上がって客席の方を見ると急激に鼓動が激しくなる。客席は暗くなっているが、千早にはわかった。一番前の席に麗奈が座っていたのだ。千早の緊張は最高潮に達したが、練習の甲斐もあって無事に最後まで演技を終えることができた。
全員が舞台袖にはけて、拍手も鳴りやみ客が立ち去っていく。千早は衣装のまま客席へ降りて、席から立ち上がろうとしていた麗奈の元へ走った。
「麗奈!」
その声に気付いて麗奈は振り返る。
「千早、お疲れ様です」
麗奈の優しい笑顔に嬉しくなるが、それ以上に素直な気持ちが言葉になる。
「ど、どうしてここに⁉ 文化祭のこと知ってたの⁉ なんで⁉」
「秘密です」
ふふっと笑いながらそう言う麗奈。千早はあっけにとられてポカーンとしていた。しかし、段々と麗奈の顔が恥ずかしそうになっていた。
「あの、それより……」
麗奈はそう言うと、顔は千早の方に向けたまま視線だけ他の客の方へ向けた。千早もその視線の方を見て、そこで初めて気付く。衣装のままであること、大きな声を出してしまったこと、それらのせいで千早はどうしようもなく目立っていることに。帰りかけの客みんなが千早と麗奈を見ていた。千早は急に顔を赤らめる。
「講堂の出口で待ってて、着替えてくるから」
そう麗奈に言った千早は舞台袖に戻っていった。舞台袖では男子が「霧島のあんなところ初めて見た」だの「霧島と話してたのって誰だ、超美人だぞ」とヒソヒソ話しており、女子からは「ねえねえ、あの人霧島さんとどんな関係なのー?」とからかわれたりした。七海のフォローもあって適当にやり過ごした千早はささっと制服に着替えて講堂の出口へ向かった。
「お待たせ」
小走りで来た千早は少し息が上がる。
「今日は私服なんだね。すごく似合ってる」
その日の麗奈は普段のメイド姿とは打って変わってとてもシンプルな服装だった。ベージュ色のシャツに栗色のロングスカート、秋にぴったりの装いだ。
「ありがとうございます。いつものメイド服では変に目立つだろうということで、マスターが用意してくれました」
そう言って麗奈は嬉しそうに笑う。千早はもしかしてと思って聞いた。
「ひょっとしてマスターも来てるの?」
「はい、今日はマスターと来ました。ですが、パソコン部の展示を見に行くということで、別行動になってしまいました」
千早は「なるほど」と一人で納得した。マスターが文化祭のことを元々知っていたかSNSで知って麗奈を誘って来たのだろうと千早は想像した。
「じゃあさ、一緒に見て回ろうよ。次の公演もあるから一時間くらいしか一緒にいられないけど」
「はい、ぜひ」
楽しげな麗奈を見ていると嬉しくなる。千早は演劇で主演をやってよかったと思った。
「ところで、お店は休んで大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ、商売というよりマスターの趣味ですから。それに……」
「それに?」
「今日お店を開けていても千早は来られないでしょう?」
その麗奈の笑顔に千早は照れてしまう。
「千早はどこか行きたいところありますか?」
千早は特に行きたいところがなく、楽しそうな麗奈を見られるだけで嬉しかった。
「私はいいから、麗奈が行きたいところに行こうよ」
「そうですね……」
少し悩んでから言う。
「美術部は何かやっていないのですか」
「やってるよ。といってもこじんまりと作品展示してるだけだけどね」
「千早の作品も展示しているのですか?」
見られると困るわけではないが、恥ずかしいことがわかり切っていたので口ごもる。
「うん、まあ、一応」
「では、それを見たいです」
楽しそうな麗奈を見て、当然に千早はそれを断ることができなかった。
二人は講堂から中庭に出た。吹奏楽部が奏でる楽しげな音楽が自然と高揚感を煽る。様々な年代の来客者、東光学園の生徒、他校の生徒、多くの人が行きかい賑わっていた。その様子を眺める麗奈は楽しそうでもあり、どこか遠くの世界を見ているようでもあった。
中庭を抜けて美術室がある建物の前まで来たとき、麗奈は足を止めた。反対から一人の男子生徒が歩いてくる。それは五十嵐先輩だった。五十嵐先輩も二人に気付き、そして麗奈と目が合う。千早は陸上部を退部した後、一度も五十嵐先輩と言葉を交わしていなかった。校内ですれ違うことがあっても互いに声をかけることはしてこなかった。五十嵐先輩がどう思っているかはわからなかったが、少なくとも千早にとってはもう解決した問題であったからだ。しかし、麗奈が五十嵐先輩と顔を合わせるのは喫茶店での因縁があって以降初めてだ。この状況を想定していなかった千早は思わず麗奈を見る。麗奈は一瞬うろたえた様子だったが、すぐに顔を引き締めた。そして、やや強引に千早の手を握り、引っ張るように歩く。すれ違い様、五十嵐先輩は視線をそらして舌打ちをし、そしてそのまま互いに離れていった。
「ちょっと麗奈、急にどうしたの」
少し歩いたところで麗奈は立ち止まる。
「すみません。ですが、今の方は以前お店に来てた方ですよね?」
「そうだけど」
「私が千早の隣にいるためにはこれくらいできなければと思ったので」
麗奈はしてやったりという顔だ。
「まったくもう、律儀だなあ。まあ嬉しいけど」
そんなこんなで二人は美術室にやってきた。そこには部員と山内先生の作品が展示されていた。数人の生徒が鑑賞していたが、美術室はとても静かだった。千早は麗奈を連れて一枚のイラストの前に行く。
「これが私の作品だよ」
それは千早が夏休みから描いてきた作品だった。デジタルイラストだが、縦横一メートル以上ある大きな紙に印刷したものを額に入れて飾っていた。そこには二人の少女が描かれていた。大きなカーテン、コーヒーカップの置かれた木のテーブル、制服姿の少女。そしてその向かいに座るメイド服の少女。制服の少女はペンを持ちながらメイド服の少女を無垢な眼差しで見つめ、メイド服の少女は制服姿の少女に微笑んでいる。その空間を柔らかい暖色が包んでいた。
「もしかしてこれは……」
それは知っている人が見れば一目瞭然だった。
「麗奈に見られるのはちょっと恥ずかしい……」
麗奈はその絵にくぎ付けのようで、目を輝かせて見ていた。
「初めて麗奈に会った日のこと、今でも忘れられないの。運命だと思った。その気持ちを描きたかったの」
その言葉に引き寄せられるように麗奈が千早の方を見る。
千早は改めて思った、この人に出会えてよかったと。
「私ってちょっと重い?」
ふと聞いた質問に、麗奈は楽しそうな笑顔で言う。
「そう思う人もいるかもしれませんね」
一瞬千早はうっとなるが、
「でも、私は千早の真っすぐな気持ちがとても嬉しいです」
という麗奈の言葉を聞いて、二人は一緒に笑った。
美術室を出た後、二人はいくつかの教室を見て回った。あっという間に時間は午後二時半になり、千早は次の公演のために戻らないといけなくなった。最後にパソコン部の教室に行ったが、マスターが何やら部員と楽しそうに談笑していたのでそっとしておいた。
「ごめんね、あんまり一緒に回れなくて」
「いいえ、とても楽しかったです。次の公演も頑張ってください」
麗奈が楽しんでくれたのが千早にとってはこの文化祭で一番嬉しかった。
「ありがとう。麗奈はもう帰るの?」
「マスターに声をかけてそろそろ帰ろうと思います」
「そっか」
迷惑かなと思い躊躇いつつも千早は聞いてみる。
「少し遅くなっちゃうかもしれないけど、今日文化祭終わった後にお店行ってもいい?」
「もちろんです」
麗奈とはそこで分かれて、千早は講堂へと戻った。
その日最後の公演も無事に終わり、文化祭初日が終わった。文化祭は二日間行われるため明日の準備もしないといけないのだが、千早のクラスは初日と基本的に同じなので特段の準備も必要なく早めの解散となった。千早がカバンを手に取り帰ろうとすると、七海が声をかけてきた。
「このあと暇? みんなで夕飯食べに行こうって話してるんだけど」
千早は申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん、今日は予定あるの」
察した七海は、
「ふーん」
と言いながらニヤニヤする。千早も照れるが、七海は少し寂しそうに聞いた。
「明日の打ち上げも来ないの?」
明日は文化祭後にクラスメイトで打ち上げと称してカラオケに行くことになっていた。そういった賑やかな場はあまり得意ではなかったが、それもいつかきっと七海との思い出になるだろうと思って千早は行く約束をしていた。この文化祭は七海との思い出でもある。だから七海の寂しそうな顔は見たくなく、千早は勢いよく言った。
「明日は絶対に行くから!」
七海は無邪気に言い返す。
「絶対だよー」
千早は七海と改めて約束をしてから、クラスメイトより一足先に学校を出た。家族にも「文化祭関連で遅くなるかも」と念のため連絡をしておいた。
喫茶店に行くと扉にはCLOSEDの札がかかっていた。だが事前に確認を取っていたので千早は扉を開けた。店内からは誰の声も聞こえない。しかし、奥の席に文化祭の時の服のままこちらに背を向けて座っている麗奈がいた。「なんだいるじゃん」と思い近付いてみると、麗奈の首の辺りから髪を分けてケーブルが出ていた。そのケーブルはテーブルの下の壁にあるコンセントに刺さっていた。回り込んで麗奈の顔を見てみると、目をつぶっている。
「麗奈……?」
そう声をかけると、麗奈はゆっくりと目を開けた。
「……千早……?」
麗奈は徐々に頭が回ってきたようで、急に早口になって恥ずかしそうに、
「あの、すみません、これは、その……」
と言ったが、少しの間を置いて諦めと恥じらいの表情に変わった。
「……寝てました」
麗奈が慌てる様子は滅多に見られないので千早はちょっと嬉しかった。
「アンドロイドも寝るの?」
「正確にはスリープモードです。充電中だったものですから」
千早は「そういうものなのか」と一人で納得する。自宅の家事アンドロイドは充電中も目が開いたままなので、こういう細かいところもきっとマスターの独自設計なのだろう。
「そういえばマスターがいないみたいだけど、一緒に帰ったんじゃないの?」
「マスターは二階にいます。二階が私たちの家ですので」
「そっか」
「後で千早が来ると言ったらマスターは二階に行ってしまいました。気を使ってくれたのかもしれません」
それを聞いた千早は麗奈の隣に座って、麗奈に肩を預けて目をつぶる。
「ちょっと、千早?」
驚いた様子の麗奈をよそに、千早は肩を預けたまま言った。
「ダメ?」
麗奈はうれしそうにため息をつく。
「千早はずるいです」
結局、その後一時間ほど千早は麗奈とイチャイチャしてから帰宅した。少し甘えすぎたかもしれないと千早は思った。夏休みから文化祭にかけてあまり麗奈に会えていなかった反動かもしれない。
帰り道、見上げた月はかすみがかった満月だった。
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