第四章

 高二である千早にとって残りの部活生活は長くない。基本的に部活は三年の夏休み前、七月には引退になってしまうからだ。千早自身も当然そのことを理解していた。

 陸上部を退部してすぐに美術部に入ることもできたが、麗奈に謝るのが先だと思った。だからこそ、麗奈と仲直りした日の週明け月曜日には美術部に入部した。朝一で美術部顧問の山内先生のところへ行って入部したい旨を伝えてその場で入部届のテンプレートを送ってもらい、すぐに書いて提出した。千早は期待に胸が高鳴るのを感じた。麗奈と出会った時とも違う、初めての感覚だった。放課後まで待ちきれず、ニヤニヤしているのを七海にからかわれたくらいだ。そして放課後、心の中でスキップをしながら美術室へ行った。部員と思われる二人の生徒と山内先生が既に美術室にはいた。山内先生に「とりあえず部員がもう少し集まるまで待ってて」と言われて、千早は端の方の席に座った。部員は各々作業を勝手に始めていた。しばらくして部員が五人集まると、山内先生がみんなに新入部員として千早を紹介した。その後は各自作業に戻り、千早は山内先生から部活のルールを教えてもらう。何をやるかは自由、鉛筆画でもいいし油絵でもいいしデジタルイラストでもいい。コンクールに出すかどうかも自由。ただし、文化祭の展示には必ず何かしら出すようにとのことだった。また、日頃の活動も緩く、週二回参加すればそれでオーケーというルールらしい。その代わり、休むのか参加するのかは把握しておきたいから休む場合は美術部専用のチャットスペースにその旨を一言書いておいてほしいとのことだった。

 千早は何をやるか考える。普段はノートパッドに線画を描いているだけだった。他の部員は彫刻をやっている人が一人、他の四人はノートパッドに向かって作業をしていた。千早はこれまで線画しか描いてこなかったので、彩色の基本を知らなかった。そのことを山内先生に相談すると、夏休み前までに色の塗り方の基本の勉強をして、夏休みに入ったら文化祭に向けて作品を描こうということになった。千早は山内先生にお願いして彩色の教科書をメールで送ってもらった。

 部員同士はちょくちょく話をしていたが、千早は上手く入っていけなかった。他の部員から話しかけられることもなく、初日は彩色の教科書を読んでいたら部活の終わりの時間になってしまった。部活後に帰ろうとするとようやく他の部員から話しかけられて千早はほっとする。帰りながら美術部について色々なことを聞いた。部員は今日来ている五人と千早で全員ということ、彫刻を彫っていたのは唯一の三年生で現部長だということ、その部長も夏休み前に引退予定だということ。千早と同じ二年生の部員は二人いて、どちらも千早とは今は別のクラスだが、かつて同じクラスだったことはあった。特別話したことがあるわけではないが、仲が悪いわけでもなかった。その二人は当然千早のことを知っており、転部したことに驚いていたが、昔から絵に興味があったと千早が言うとすぐに打ち解けた。


 そして今日は美術部に入部してから最初の土曜日である。事前に毎週土曜は休むと山内先生には伝えていたが、ルールなので美術部チャットに「休みます」と書き込んでから下校した。美術部のことを麗奈に話したい、そんなことを思いながら帰りの電車に乗っているとスウォッチが振動する。ノートパッドをカバンから出して確認すると、それは真千からのメールだった。数学の問題集が難しくてわからないから教えてほしいとのことだった。千早は「いいよ」と打って返信しようとしたところで手を止める。少し考えてから「喫茶店で勉強しない?」と追記してから送った。

 自宅最寄り駅で待つこと三十分、真千がやってきた。

「ごめん、待った?」

「ううん、大丈夫だよ」

「なんで今日は喫茶店なの。やっぱり家だとやりにくい?」

「そうじゃないの」

 千早が「うーん」と考えてから、

「私の大切な人がその喫茶店で働いていて、真千にも紹介したいなと思って」

 と言うと、真千はグイっと顔を千早に近付けて、

「大切な人って……、もしかしてお姉ちゃん彼氏できたの?」

 と問いただす。

「彼氏じゃないよ。でも、一目惚れだった。すぐに告白したけど、会ったばかりだし付き合うことはできないって言われた。その代わり友達から始めようってことになって、よくその喫茶店に行ってるんだ」

「へー、そんなことがあったんだ」

 自分の知っている姉がそんなことをするとは思わず、真千にとってはとにかく意外であった。だからこそどんな人だろうと気になった。

 千早に連れられて真千は見知らぬ道を歩く。普段は全く使わない薄暗い道に足がすくんだ。

「お姉ちゃん、本当にこっちに喫茶店なんてあるの?」

「そうだよ。ここは人通りも少ないしちょっと薄暗いけど、とっても素敵なお店なんだよ」

 真千は不安な気持ちを抱きつつも千早の後をしばらくついていく。すると、薄暗い通りには似合わないレンガ造りの建物が現れる。

「ここだよ。それじゃ入ろうか」

 不安そうな真千をよそに千早は躊躇なく扉を開ける。

「いらっしゃいませ」

 いつもの流麗な声と笑顔で麗奈は千早を出迎える。麗奈はすぐに千早の後ろに少女が隠れていることに気付いた。

「そちらは?」

「妹の真千。麗奈に紹介したくて連れてきちゃった」

 隠れていた真千がそっと千早の横に並ぶ。

「妹さんですか」

 麗奈は珍しいものでも見たかのような表情をする。

「霧島真千です。よろしくお願いします」

「京堂零奈です。こちらこそよろしくお願いします、真千さん」

 透き通った目で麗奈に見つめられ、あまりの美しさに真千は惚けてしまった。

「今お品書きを持ってきますので、お好きなところに座ってください」

 千早はいつも座っている窓際の席に真千と向かい合わせで座る。

「すっごい綺麗な人だね」

 真千がこっそりとそう言うと、千早は真千が見たことのないほど嬉しそうな顔をしていた。そんな千早を見て、真千の表情も自然と柔らかくなる。

「こちらお品書きです」

 麗奈がお品書きを持って二人のもとにやってくると、真千の表情は一変して緊張していた。その様子を見て今度は千早が楽しそうにする。

「私は店長おすすめコーヒーで。真千はどうする?」

 真千はメニューを眺めていたが、初めて来たときの千早同様にたくさんあるコーヒーの違いがわからなかった。

「えーっと、じゃあわたしも同じのでお願いします」

「かしこまりました」

 真千からお品書きを受け取った麗奈は、そう言ってカウンターへ戻った。

 紙のメニュー、木のテーブル、淡くきらめくシャンデリア、美しい店員。真千は知らない世界に来たような気分だった。そしてもう一つ気になることがあった。

「カウンターに男の人いるけど、あれは店長さん?」

「そうだよ」

 真千はまさかとは思ったが念のためこっそりと確認する。

「お姉ちゃん、あの店長さんが好きなの?」

 一瞬キョトンとする千早。すぐに顔を赤くして焦ったように訂正する。

「ち、違うよ!」

 思いのほか大きな声が出てしまい、千早は余計に顔が赤くなっていた。千早はカウンターの方を一瞥して麗奈とマスターがこちらを見ていないことを確認してから小声で言う。

「私が好きなのは麗奈だよ……」

 恥ずかしそうに頬を赤らめ、少し真千から目をそらした。

「やっぱりそうなんだ」

 真千はいじわるそうにニヤニヤしだした。

「麗奈さん、なんとなくお姉ちゃんが好きそうな人だなと思ったの。これでもお姉ちゃんの妹だからね、なんとなくわかるよ。でも、お姉ちゃんの愛しの人が女性っていうのは想定していなかったから念のため、ね?」

 千早は「だったら最初から麗奈が好きか聞いてよ」と思い、少しふてくされてみた。

「もう、からかわないでよ」

「ごめんごめん」

 そこへ麗奈がコーヒーを持ってくる。

「仲が良いのですね」

「うん。今日はね、真千に勉強教えてほしいって言われて。少し長居になるかも」

「構いませんよ。真千さん、勉強頑張ってくださいね」

 コーヒーの良い香りが千早と真千を包み込む。

「それじゃあ始めよっか」

 互いにカバンからノートパッドを取り出す。はじめのうちは真千に教えながら千早自身も課題を進めていた。しかし、すぐに全て終わってしまったので、山内先生にもらった彩色の教科書を読み始めた。

「お姉ちゃん何読んでるの?」

「彩色の本だよ。実はね、少し前に陸上部をやめて美術部に入ったんだ」

「えーそうなの⁉ もっと早く言ってよ!」

 千早としては隠していたわけではなかったのだが、「ごめんごめん」と苦笑いで釈明した。

「でも前からよく絵を描いてたもんね。美術部、すごくいいと思う!」

 真千はすごくうれしそうにしていた。

「ありがと」

 しかし真千はすぐに不安そうになった。

「……お母さんにはもう言ったの?」

 呼応するように千早の顔も曇る。

「……言ってない。私が何の部活やってるかなんてどうでもいいだろうし。お母さんが興味あるのは私の……」

 そう言った千早は、真千が泣きそうな顔でこちらを見ていることに気付いてハッとする。

「そんな顔しないの、大丈夫だから。お母さんにも一応メールで伝えておくよ」

 その後、真千は勉強を再開していたが集中できない様子だった。千早はわざと真千からも見えるように父と母にメールを書いた。父からはすぐに「千早が好きなことを頑張るといい」と返信が来た。しかし母からの返信は来なかった。しばらく千早と真千の間には静寂が流れていたが、真千が沈黙を破る。

「お姉ちゃん、私が不出来なせいでごめんね」

「なんのこと?」

 千早はとぼけてみせる。

「わかってるでしょ」

「真千は気にしなくていいんだよ」

 千早の微笑みに、真千は切なくなる。

「でも、だって……」

 真千は幼いころから勉強が苦手だった。千早にもよく勉強を教えてもらっていたが、大きく改善することはなかった。そのため母からはもはや期待されていなかった。結果的に母の期待は千早に集まってしまい、そのことを真千は申し訳なく思っていた。

 そんな真千のことを千早はとても大切にしていた。母からどんな目で見られ、母にどんな思いを抱いているか、それを互いに知っているのは真千だけだった。

 その後、真千の課題が終わるまで千早は勉強に付き合い、結局店を出たのは日が沈みそうな夕暮れだった。麗奈の笑顔に見送られて二人は家路につく。

 千早はふと思ったことをそのまま口にした。

「先生ってどうなんだろう」

「どうって?」

「こうやって真千に勉強教えるの私は楽しいから、その……、学校の先生になるのってどうなんだろうなって」

「お姉ちゃんは先生になりたいの?」

 真千の質問に千早は珍しく幼げな表情で答える。

「うーん、まだわからない」

 真千は嬉しい反面、そう簡単にはいかないことを理解していたので複雑な気持ちだった。

 その時、千早のスウォッチが振動する。カバンからノートパッドを取り出して確認すると、それは母からの返信だった。真千に見られないようにメールを開くと、そこには「そう。千早のことだから当然大丈夫だと思うけど成績は落とさないでね」とあった。真千にもそれは見えてしまったようで、

「お姉ちゃんがやりたいことをやってほしいって私はずっと思ってるよ」

 と千早は言われた。情けない気持ちになりつつも千早は感謝した。

「ありがと」



 六月下旬、季節はすっかり梅雨だった。その日は雨こそ降っていないものの、重たい雲が朝から空を覆っている。

 千早はいつにもまして暗かった。美術部に入って浮かれていたことに先日の母とのメールで気付いたからだ。七月に入れば試験期間で部活は休みに入る。だからこそ今は部活に集中したいのに、このまま放課後を迎えても集中できないのは容易に想像できた。

 心臓に刺さった針が抜けることはないまま、気付けばその日の最後の授業、六時限目の総合の時間になった。総合の時間は東光学園に取り入れられている特別な科目だ。と言っても実態は自由時間で、毎週各クラス自由にやることを決めている。中学の頃はレクリエーションをすることも少なくなかったが、高校に入ってからは大抵自習時間か先生の気まぐれで小テストをさせられる時間になっている。今日も自習だろうと思って千早はノートパッドを用意していた。

 千葉先生が教室に入ってくると、やる気のなさそうな声を出す。

「えー、朝のホームルームで言ったように文化祭で何やるかこの時間で決めます」

 千早は思わず「えっ」と声を出しそうになった。そんなことを言っていたか思い出そうとしたが、そもそも今朝のホームルームの記憶がない。おそらく部活や母のことを考えていてあまり聞いていなかったからだ。文化祭での出し物決めとなると長引きそうな予感がしたので、千早は美術部チャットに遅刻するかもしれない旨を書き込んでおいた。

 千葉先生の音頭のもと、様々な意見が電子黒板に書かれていった。千早はそれほど興味がなかったため自分から案を出すことはなく静観していた。東光学園では毎年九月の最後の土日に文化祭を開催する。各クラスが出し物をするのはもちろんのこと、部活単位や有志の集まりで何かをやることも許可されていた。美術部は文化祭での展示に力を入れており、千早自身も作品を制作しないといけないので、クラスの手伝いにはあまり時間を割きたくなかった。

 電子黒板にはお化け屋敷、クイズ大会、脱出ゲームなど様々な候補が出たが、最終的には多数決で演劇になった。それは七海が提案したものだった。千早は一番準備の手間が少なそうなクイズ大会に投票したが、むしろ最下位だった。

 次に役職の割り当てをしていくことになった。大道具、小道具、シナリオ担当、音楽担当、衣装担当、役者。特に役者は主演一人とその他の助演に分けられた。

「えー、それじゃ順番に行くぞ。二回手挙げるんじゃないぞ。大道具やりたいひといるかー?」

「先生、ちょっと待ってください」

 突然七海が先生を遮って立ち上がる。クラスのみんなが七海の方を見たが、七海のすぐ前に座っていた千早だけは「早く終わらないかなあ」と思いながら前を向いて頬杖をついていた。

「その前に主演に推薦したい人がいます」

 クラスが少しざわつく。七海は大きく息を吸ってはっきりと、

「千早を主演に推薦します」

 と言った。一瞬の静寂のあと、

「え、ちょっと、七海それってどういうこと⁉」

 千早もつい大きな声が出てしまう。振り向いて七海を見上げると、真剣な表情でこちらを見つめていた。またしても教室が静寂に包まれそうになったとき、千葉先生がクラスを見渡して言う。

「他にやりたいやつはいるか?」

 誰かが手を上げることも、他の人を推薦することもなかった。代わりに、「霧島さんなら美人だし盛り上がりそう」とか「このクラスから選ぶなら千早だよね」といった小さな声が聞こえ始める。困惑した千早が千葉先生の方を見ると、

「どうする、霧島」

 と問われ、千早は必死に逃げ道を探す。

「えーと……」

 肩をつんつんされて再び七海の方に振り返る。

「お願い!」

 そう言って七海は両手を合わせて軽く頭を下げた。千早は大きなため息をついた後に千葉先生の方に振り返って言う。

「わかりました、やります」

 主演を押し付けられた千早とは対照的に、七海は本人の希望通り衣装担当となった。千早も見たことはないが、コスプレをやっていることは千早含めクラスメイトの何人もが知っているので、既に衣装に期待する声も聞こえる。

 実際の文化祭準備は脚本ができてからということで、夏休みに主に練習することになった。結局、全員の役職も滞りなく決まり、六時限目は無事時間通りに終わった。時間が伸びそうという千早の予想は見事に外れたのだった。

 気を取り直して部活へ向かおうとすると、

「千早、ありがとね」

 後ろからそう声をかけられた。千早と七海は二人で廊下を歩きながら話し始めた。

「七海じゃなかったら断ってたよ」

 そう、千早は七海からのお願いでなければ断っていた。転部の件を通して断ることを千早はもう知っているのだ。だから、周囲から期待される自分でないといけないという気持ちではなく、親友への恩返しのつもりで主演を引き受けたのだった。

「でもどうして私を推薦したの?」

「純粋に千早みたいな綺麗な人に自分で作った衣装を着させたいっていうのと……」

「のと?」

「千早との思い出作りかな」

 二人は隣に並んで前を向いたまま廊下を歩く。

「部活も別々になったし、来年同じクラスになれるかもわからないから……。何か千早と派手なことやりたいなって思って」

「えーなにそれ」

 千早はおかしくて笑ってしまった。その勢いで「ずっと友達でしょ」と口から出そうになったが、それを言うのはやめた。そして改めて言う。

「良い文化祭にしようね」

「もちろん!」

 七海は元気にそう言った、七海らしい笑顔で。「それじゃ」と言って二人はそれぞれ美術室と部室棟へと向かっていった。



 七月中旬のある日、夏らしい日差しが廊下に差し込む午後。千早は教室前の廊下に置かれた椅子に座っていた。いつもは賑やかな廊下もその日は閑散としており、蝉の鳴き声が響いている。横を向けば、隣のクラスでも千早のように椅子に座っている生徒がいた。

 東光学園では七月上旬に一学期の期末試験が行われた。部活動は例のごとく試験一週間前から禁止となり、そしてこれも例のごとく千早は喫茶店にも行かず勉強漬けの時間を過ごした。七海でさえテスト期間中は千早にあまり話しかけられない。声をかけるのは母だけである。心臓に刺さった針が普段より深くまで押されるような感覚だったが、その針を押しているのが自分自身なのか母なのか千早にはわからなかった。

 そんな期末試験も終わり、ちょうど昨日結果が一斉に返却された。千早は今回も断トツで学年一位だった。家族に報告をしても、父と妹は複雑な表情をしていた。母だけが脅すように褒めた。

 そして、今日に戻る。東光学園では、一学期期末試験の結果が返却された後の三日間が面談期間となっている。生徒全員が担任と三十分間必ず面談をしないといけない。面談内容が決まっているわけではないが、高校生は自然と進路の話をすることになる。この面談期間が終わった翌日に終業式を向かえ、晴れて夏休みに入るわけだ。教師からしたら三日間ずっと面談、生徒からすると早く夏休みに入りたいということで、教師も生徒もこの三日間を我慢日和と呼んでいた。

 面談期間中、生徒は面談の時間だけ学校にいればよいので、自然と校内は静かになっている。千早は午前中から美術室で部活をしていたが、面談のため部活を一時的に抜けてきて、今こうして廊下で順番を待っているのである。

 教室のドアが開くと、前の生徒の面談が終わって教室から出てきた。教室の中から「次入ってー」という声が聞こえ、前の生徒と入れ替わりで「失礼します」と一言言って千早は教室に入る。教室の最前列にある二つの机が向かい合わせに並べられており、近くの机は少しどかされていた。その向かい合った机の窓側に座る千葉先生は、ノートパッドを見つめながら右手を頭の後ろにあてて少し困ったような様子だった。千早はドアを閉めてから、千葉先生の向かいに座る。

「よろしくお願いします」

「はい、よろしく」

 そこでようやく千葉先生が前を向いて目を合わせる。

「といっても霧島は成績優秀だしそんなに話すことはないんだけどね」

「はあ」

 やる気のなさそうな千葉先生を前にして、「なんだかなあ」と思う。すると、千葉先生がおもむろに体を前のめりにして、握手を求めるように左手を差し出した。意図を図りかねた千早は首を傾ける。千葉先生は不敵な笑みを浮かべたまま、握手を待っていた。千早がその手を握り返すと、千葉先生は体を後ろに倒して椅子に寄り掛かった、腕だけは同じ場所に残ったまま。

「きゃあ⁉」

 身体から分離した腕を見て思わす声を上げる。その様子を見て千葉先生は豪快に笑った。

「驚いたか?」

 突然のことで動揺したが、その分離した腕と健在の千葉先生を見て考える。

「えっ……、先生義手だったんですか?」

 一瞬千葉先生もアンドロイドなんじゃないかと頭をよぎったが、あくまで麗奈は特殊なケース。冷静に考えると義手と判断できた。

「ああ。大学生の時に事故に遭ったんだ」

 千早は義手を見るのが初めてだった。見た目や手触りは本物の人間の腕と変わらない。しかし、その断面だけはそれが無機物であることを物語っていた。

「驚かせてすまないな。霧島は真面目過ぎるところがあるから、少し和ませようと思ってな」

「悪い冗談です」

 そう言って千早は腕を千葉先生に返した。ガチャという機械音と共に再び千葉先生の身体に腕がくっついたようだが、その結合部は白衣に隠れて見えなくなる。

 千早のコメントは苦笑いでスルーして千葉先生は話題を移した。

「そういえば部活の方はどうだ? 美術部に移ってから結構経っただろ」

「とても楽しいです」

「そうか、それはよかった」

 少しの間を置いてから、

「その決断は霧島にとっては良い経験だったんじゃないか」

 と千葉先生は聞く。まだ針が刺さったままの千早は、素直に「はい」とは答えられなかった。

「まあいい」

 ため息をついたとも、単に一息ついただけとも取れる様子で千葉先生はまたしても話題を変える。

「他の生徒は大体進路の話をするんだが、霧島はどうだ?」

 千早はどこか自信なさげに聞く。

「先生、教師の仕事ってどうですか?」

「教師に興味があるのか?」

 こくりと千早は頷く。

「大変だぞ。給料安いし、保護者からクレームが入ることもあるし、生徒が問題起こせば責任問題になるし」

 千早は真剣に千葉先生の目を見て聞く。

「でも、やっぱり楽しいんだよな」

「どうしてですか」

「言葉で表現するのは難しいが……。授業をしたり生徒の相談に乗ったりしながら成長を見守るのはとてもやりがいを感じるからかな」

 千葉先生は珍しく照れ臭そうな顔をしていた。

「霧島はどうして教師に興味を持ったんだ?」

「妹に勉強をよく教えるんですが、それが楽しくて興味を持ちました。だから、何の科目の先生になりたいとかは決まってなくて、漠然と興味を持っている感じです」

 自信なさげな千早の表情は「それじゃあダメですか」と聞いているようで、千葉先生はその背中を押すように言った。

「そういう素朴な感情は大切にした方がいいな」

 結局、面談は千早が千葉先生の教師生活の話を聞いて終了した。席を立ち教室から去ろうとする千早に向かって、千葉先生は「いつでも相談に来ていいからな」と最後に言って千早を見送った。



 千早の中で漠然とではあるが形が見えてきた進路。そして、その道を進むためには乗り越えないといけない壁があることも千早は理解していた。面談後の部活中、帰ったら母に今日の面談のことを言おうと考えた。しかし、帰りの電車の中でも考え続け、結局は無理だと諦めてしまった。その代わりではないが、何か行動はしたという言い訳欲しさに、帰りの電車の中で父にメールを書いた。メールには「学校の教師に興味があるんだけどどう思う?」とだけ書いた。教師でない父からしたら、どうと聞かれても困るかもと思いつつ、そのまま送った。しかし、結局返信は来ないまま、千早は帰宅した。父もその後帰宅し、家族で夕食を済ませた。夕食の場でも父は何も言ってこなかったが、千早も特にそのことについて言及はしなかった。

 そして今、千早は自室のベッドで天井を見ていた。漠然とした感情に身をゆだねて空虚を泳いでいると、机に置いたスウォッチが振動する。千早は驚いて体がビクッとした。起き上がってノートパッドを確認すると父からの返信だった。返信を開いてみると千早はさらに驚いた、そこには長文が書かれていたのだ。


連絡ありがとう。

千早の気持ちを聞けて父さんは嬉しいです。

教師に興味があるんだね?

千早のような心優しい人が先生なら、生徒もきっと嬉しいだろうね。

なにより、千早が自分から興味を持ったのなら、その道に進むのがいいと思うよ。

もちろん、決めつける必要もないよ。

他にやりたい仕事が見つかったら変えればいいさ。

でも、今一番興味があるのが教師なら、一度その方向に歩き出していいんじゃないか?

母さんにはもう伝えたのかい?

まだなら父さんから伝えようか?

きっと母さんのことだからすんなりとはいかないだろうけどね。

父さんは千早にも真千にも自由に生きてほしいと思ってるんだ。

だから、あまり口を出さずにいた。

今思うと、それが裏目に出てしまったね。

母さんは千早に良い大学に入って有名な企業で働いてほしいと思っている。

収入や見栄に強い執着があるからね。

母さんは千早に期待している。

逆に真千は見放されてしまっている。

母さんと千早、母さんと真千の関係はあまり良いものではないと父さんは思っている。

きっと真千もそう思ってるんじゃないかな?

本来なら父さんが解決するべきなのだろうが、母さんはもう父さんの言葉には耳を貸さない。

千早と真千には本当に申し訳なく思っている。

だからこそ、もし力になれることがあるならいつでも頼ってほしい。

それから、真千とはこれからも仲良くしてあげてくれ。

真千は明るく振る舞っていることが多いが、内心感じていることもあるはずだ。

父さんにこんなことを言う資格はないが、せめて姉妹は助け合って生きてほしい。

話が逸れてしまったけど、教師になりたいのならその道に進むといい。

どんな選択でも、千早が自分で選んだ選択なら父さんは応援するよ。


 読み終わると千早はノートパッドを机に置き、そのままベッドに仰向けになって倒れた。そして、片腕を顔に乗せて目を隠す。しばらく千早は動かなかった。

 少し経ってから起き上がり、再びノートパッドを手に取る。


返信ありがとう。

嬉しかった。

私が教師に興味を持ってること、まだお母さんには言わないで。

今すぐに伝えたれるかはわからないけど、自分から伝えないといけない気がするから。

また何かあったら連絡するね。

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