第三章

 五月中旬。梅雨の足音が少しずつ近づいてきて湿っぽい日が増えてきていた。そんな中、東光学園では一週間後に一学期中間試験が控えていた。試験期間ということで部活は休止、多くの生徒が放課後早めに帰宅していた。

 千早は強迫観念に取り憑かれたかのように勉強をしていた。試験期間は放課後に七海と過ごすことも喫茶店に行くこともなく家にすぐに帰り、日付が変わるまで毎日勉強していた。今に始まったことではない。試験の度の恒例だった。普段から勉強はしっかりしている千早だが、特にその期間は恐ろしいほどに勉強していた、まるで一問でもミスしたら命を取られるのではと恐れているかのように。そのことは真千や父も当然知っていたが、あまりにも痛々しく見ていられなかった。母だけは毎日のように底深い笑顔で「頑張ってね」と声をかけ、その度に千早は心臓がぎゅっとして身体が硬直しかけた。

 中間試験の結果は学年一位だった。これも今に始まったことではない。千早以外にも学業優秀な生徒はいたが、学校の廊下にある電子掲示板に表示された成績上位一覧の一番上は千早の特等席となっていた。そのことでクラスメイトや先生にもてはやされるのは嫌ではなかったが、心の底では何とも思っていなかった。もっと別の、恐ろしいことを考えていたから。

 成績が開示された日、千早は拒否する足を無理に速く動かして帰宅した。その日ばかりは麗奈のことも考えている余裕はない。家には母だけがいた。帰宅して早々、千早はただいまも言わずに、

「お母さん、中間試験の結果が返ってきたよ」

 と、ノートパッドを取り出して結果を見せる。そこには各教科の得点および総合得点と学年順位が表示されていた。ノートパッドの電池が残り少なくなり、画面が暗くなる。千早は母の目を見られなかった。

「どれ、見せて」

 笑顔の母にノートパッドを渡す。誰が見ても千早は委縮していた。

「今回も一位ね、おめでとう」

 そう褒めた直後、母の顔が曇る。

「英語の点数、少し下がったんじゃない?」

 千早は沈黙したまま、その身体に一瞬の緊張が走る。

「まあいいわ、これからも勉強頑張るのよ」

「……はい」

 うつむいたまま千早は返事をした。最後まで母の目を見ることはできず、ノートパッドを受け取るとそのまま自室へと入った。机に座って虚ろになっていると、スウォッチが振動してメールが来たことを知らせる。ノートパッドでメールを確認すると真千からだった。そこには「無理しないでね」とだけ書いてあった。その時千早は思い出した、真千はまだテスト期間中のため早めに帰宅していることを。きっと真千は自室にいて、母との会話が聞こえていたのだろう。

 真千の優しさは嬉しい。しかし同時に「そんなことわかってる、それができたら苦労しない」とも思った。そして、そう思っていら立ちを覚えた自分が嫌になる。

 大きなため息をついてから「わからないよ」と口から漏れた言葉は空虚に消えた。



 中間試験が明けてから部活が再開した。千早にとっては二週間後に県大会が迫っていた。

 練習が再開しても、千早は五十嵐先輩に退部の意思を伝えていなかった。その一方で、土曜日には部活をさぼってまた喫茶店へ行っていた。もはや千早の中では県大会後に退部することは決定的になっていたものの、引き止められるのが嫌で何も言っていなかった。逆に五十嵐先輩も千早に何かを聞くことはなかった。そんな五十嵐先輩がやや不気味ではあったが、千早はあまり気にしなかった。

 そして迎えた六月上旬の金曜日、県大会の日。千早は準決勝で敗退した。レースは懸命に走ったものの、結果にはこれといった気持ちは湧かなかった。いつも準決勝あたりで敗退するというのもあるが、千早にとって結果はもはやどうでもよかった。

 夕焼けに背を染められながら千早は競技場を後にする。

 五十嵐先輩には退部届を提出してから報告すればいい、その時はそう思っていた。



 次の日。まだ大会の疲労も残っていたが、そんなことは関係なく学校は当然通常営業だ。土曜日ということで放課後すぐに喫茶店に行きたいところだが、千早はその前に職員室に向かった。下校する生徒、部室に向かう生徒、教室で無駄話に興じる生徒、色んな音をかき分けるようにして足を進める。千早は職員室の扉をノックして、

「失礼します」

 と大きくも小さくもないのっぺりしたトーンで言ってから職員室に入った。担任の千葉先生を見つけて歩み寄る。

「先生、退部届をいただきたいのですが」

「そうか」

 千葉先生は千早の顔を覗き込む。何か問おうとしたようだったが、結局何も言わずにデスクに置かれたパソコンをカタカタと操作する。

「退部届のテンプレートを添付して霧島宛てにメール送っといたから。名前とか部活名とか書いて顧問に提出してくれ」

 極めて事務的な対応だった。千葉先生はこれといって千早に部活のことを聞かなかった。

「わかりました」

 そういって軽くお辞儀をしてから千早は職員室を後にした。千早は退部届をすぐその場で書くこともできたが、落ち着いて書きたかった。七海に「今日も部活さぼるから部長にテキトーに言っておいて」とメールする。これまではさぼる言い訳も毎回考えていたが、どうせ辞めるしと思って深く考えなかった。

 学校を後にした千早は、そのまま真っすぐに喫茶店へ行った。

「いらっしゃいませ」

 いつもと変わらない笑顔で迎えてくれる麗奈。千早は疲れたような笑顔を返して、窓際の席に座る。その日、喫茶店にマスターはいないようだった。

「今日は何にしますか?」

「甘い飲み物がいいな……。任せるよ」

 普段はメニューを見てから選ぶが、今日は何だか考えるのが面倒だった。

「かしこまりました」

 そう言って麗奈はカウンターの方へ戻る。その間に千早はノートパッドを取り出し、千葉先生からのメールを確認する。添付された退部届テンプレートを開き、しばらくそれを眺めていた。

 その時、七海からメールが届く。そこには「ごめん」とだけ書いてあった。千早には何のことかわからなかった。何に対する「ごめん」なのか気になったがとりあえずスルーして、千早は再び退部届を見つめる。

 しばらくして麗奈が飲み物を運んできた。

「コーヒー牛乳です」

 予想外のものが出てきて千早は驚く。

「嫌いでしたか?」

「ううん。でもコーヒー牛乳がメニューにあるって知らなかった」

「いいえ、メニューにはありません。甘いものがいいとのことだったので特別に作りました」

「うれしい、ありがとう」

 千早は一口飲んで目をノートパッドに戻す。おそらくコーヒーを元にしてオリジナルでコーヒー牛乳を作ったのだろう、市販のものよりも甘さが控えめで、どこかビターな後味がした。

 麗奈はいつものように千早とおしゃべりしようかと思ったが、ノートパッドを深く見つめている千早の姿を見て、そっとカウンターの方に戻っていった。

 千早はコーヒー牛乳を少しずつ口に含みながら、しばらくノートパッドを眺めていた。ちょうど飲み干して「さあ書くか」というまさにその時だった。店の扉が開く音がして、千早が目を向ける。

「いらっしゃいませ」

 麗奈がカウンターから出てきてそう言ったが、その客は麗奈を無視して玄関で立ったまま店を見回していた。

「部長、どうしてここに……」

 千早はつい思ったことが口から出てしまった。そこには険しい顔をした五十嵐先輩が立っていたからだ。その千早の声で五十嵐先輩も千早に気付き、二人の目が合う。五十嵐先輩は獲物を見つけたと言わんばかりの目をして、真っすぐに千早のそばに来た。

「おい霧島、部活さぼってこんなところで何してんだ」

 千早は混乱していた。どうして部長がここにいるのか。どうして自分がここにいるのがわかったのか。千早は黙りこくってしまう。

「土曜も練習来いって言ったよな?」

 さらに自身の罪を追及されてしまい、言い訳が出てこない千早。その時、五十嵐先輩の目が千早のノートパッドに向かう。

「お前それどういうつもりだ。なに勝手に退部しようとしてるんだよ。俺言ったよな、お前を次の部長に指名するつもりだって。俺だけじゃない、他の部員もお前が陸上部を引っ張っていくことを期待してるんだぞ、なあ?」

 千早は反射的にノートパッドを腕で隠した。うつむく千早の身体が震えだす。

「なんとか言ったらどうなんだ!」

 そう大声で言い放った五十嵐先輩は、うつむいたままの千早の腕をつかんで引っ張り、無理やり顔を自分の方へ向けようとした。

「きゃあ!」

 千早が叫ぶ。するとその時、麗奈が千早と五十嵐先輩の間に入り、二人の腕をつかんで引き剥がした。

「千早が嫌がっています。やめてあげてください」

 今にも泣きそうな千早は麗奈の声を聞いて顔を上げる。麗奈は毅然とした表情をしていた。対照的に五十嵐先輩は不愉快そうだった。

 五十嵐先輩は明らかに不満そうに、しかし初対面なので丁寧語で言葉を投げつけた。

「店員さん、部外者は邪魔しないでもらえますか」

「友人が暴力を受けているのを見過ごすわけにはいけません。それに部活の選択は千早の自由のはずです」

 五十嵐先輩は不満そうな顔を崩さないまま、千早に向いていた身体を麗奈の方に向ける。

「そうですか、友人ですか。では聞きますが、あなたは霧島と何年の付き合いですか」

「まだ数か月です」

 麗奈は以前毅然とした態度を崩していなかったが、それでも五十嵐先輩は麗奈の方に一歩踏み込んで言う。

「私は陸上部の先輩として霧島が中一の時からずっと見てきました。あなたより霧島のことをわかっているつもりです」

 それを言われて麗奈は一歩下がる。続けざまに五十嵐先輩は攻めた。

「霧島は陸上部のエースだし、他の部員からも慕われている。陸上部に必要とされているし、陸上部なら霧島の能力も発揮できる。陸上部を続けるべきなんです」

 本来なら麗奈はここで何か言い返さなければならなかったし、麗奈自身もそれを自覚していた。しかし、言葉が出てこない。

「たった数か月の付き合いしかないあなたに、霧島の何がわかるというんですか!」

 とどめだと言わんばかりに語気を強めたその言葉の前に、麗奈は何も言い返せず、ただうつむいてその場に立ち尽くすことしかできなかった。邪魔者はこれで再起不能になったと思ったのか、五十嵐先輩が千早の方に再度身体を向けようとした時、

「わたし陸上部やめます! 次期部長も他の人に頼んでください!」

 千早がそう叫んだ。その頬には大粒の涙が流れていた。千早は麗奈が責められているのを見ていられなかった。

 五十嵐先輩は千早がこれほど自己主張するのを見たことがなかった。そして、本当に理由がわからないという様子で聞き返す。

「ど、どうしてだ! 陸上部の何が不満なんだ!」

 間髪入れずに、そして五十嵐先輩よりも大きな声で大粒の涙と共に、

「部長には何言ってもきっとわからないです! 退部はもう決めたことなんです!」

 と千早は叫んだ。そして、続ける。

「だからもう、私に構わないでください……」

 叫んでいた声は最後には萎んでいき、弱弱しく涙と共に流れていった。

 信じられない、解せない、理由がわからない、五十嵐先輩はそんな面持ちであった。しかし、その後は何も言わず、麗奈を一瞥してにらんでから黙って店を出て行った。

 それからしばらく千早も麗奈も黙ったままで、二人の間に沈黙が続いた。麗奈は千早に声をかけたかったが、自分にその資格があるのかもわからず言葉が見つからなかった。それでも何か言わなければと思い、かける言葉が見つからないまま言う。

「千早、あの」

「ごめん、麗奈。今日はもう帰るよ」

 千早は麗奈の言葉に被せるようにそう言うと、ノートパッドをカバンに投げ入れ、麗奈と目を合わせないまま走って店を出て行った。

 テーブルには空になったコーヒーカップが残され、麗奈はそれを見つめながらしばらく立ち尽くしていた。



 週明けの月曜日。千早は授業が始まる前に朝一で退部届を顧問に提出した。メールで退部届を提出した後、念のため礼儀として直接顧問に口頭でも伝えた。顧問は普段から陸上部を放任していることもあってか、特に何も言わず了承した。

 放課後には部室へ行った。辞めたかったとは言っても、親しい部員もいたので直接伝えたかったからだ。部室には女子部員が何人かいて体操服に着替えていた。その中には七海もいた。千早が退部のことを伝える前に、その場で七海から謝罪があった。どうやら千早が喫茶店にいることを五十嵐先輩に漏らしたのは七海だったらしい。朝から七海の様子がどこかよそよそしいとは思っていたが、いつ謝ろうかと迷っていたとのことだった。七海は深く頭を下げて謝罪したが、すぐさま他の部員が説明してくれた。

 あの日、五十嵐先輩は千早が土曜日に練習に来ないことについに怒り、千早と仲の良い七海に居場所教えるように迫った。それはそれは鬼気迫るものだった。普段明るい七海が涙目になって許しを請うほどで、もはや恫喝のレベルだったという。他の部員が止めに入ったが聞く耳を持たず、結局七海は居場所を答えてしまった。

 それを聞いた千早は、自分のせいで七海につらい思いをさせてしまったことを申し訳なく思った。

 七海による謝罪の後、千早は退部の件を伝えたが、今朝顧問と退部のことを話しているのを見た生徒がいたようで既に皆が知っていた。退部に関しては寂しがってくれたものの、美術部に入ってみたいと伝えると背中を押してくれた。男子部員やその場にいなかった女子部員にはメールで退部の挨拶をしたところ、皆返信をくれて応援してくれた。

 千早は迷ったものの礼儀だと自身に言い聞かせ、形式的ではあるが五十嵐先輩にも退部の挨拶のメールをした。しかしその後、五十嵐先輩から返信が来ることはなかった。

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