第二章
四月最後の土曜日の午後。まだ時折冷たい風が吹くものの、春らしい日差しが街を照らしている。
その日、千早は喫茶店にいた。千早はコーヒーが苦手だが、それはこの喫茶店のコーヒーも例外ではない。初めてこの店に来た時に飲んだコーヒーは確かにおいしかったが、きっとそれは高揚感がそう感じさせたのだろう。その後何度か同じコーヒーを飲んだ時には、苦くておいしいとは思えなかった。とはいえ、何度か飲むうちにミルクと砂糖をたっぷり入れればそれなりに飲めるようにはなっていた。
マスターはカウンターでコーヒーの調合をしている様子であった。その横で麗奈はマスターの手伝いをしていた。とは言っても、あまりやることはなく手持ち無沙汰のようだった。
千早は麗奈のその様子を見ながら思い出す。
「そんなの関係ないです。だから、その……、よろしくお願いします」
そういって笑顔を見せると、呼応するように麗奈も笑った。
麗奈は思い出したように真剣な顔に戻って言う。
「一つ、約束してほしいことがあります。私がアンドロイドであることは誰にも言わないでほしいのです」
麗奈のまなざしに千早は冷静になる。
この時になって初めて奥にマスターがいることに千早は気付いた。マスターの険しい表情に唾を飲む。
勢いで「そんなこと関係ない」とは言ったが、千早は不思議に思っていた。これほど人間らしいアンドロイドを見たことがなかったからだ。かつては人間に近いアンドロイドも存在したらしいが、現在は禁止されていると千早は聞いたことがあった。それに麗奈には黒首輪がなかった。
麗奈が誰にも言わないでほしいというのならもちろん誰にも言うつもりはなかい。しかし、本当にアンドロイドなのか千早はにわかには信じられなかった。
「もちろん京堂さんがアンドロイドであることは誰にも言いません。でも、正直驚きました。私が知っているアンドロイドとは全然違っていて……」
麗奈がおもむろに後ろ髪をあげて首の後ろを見せる。そこにもう片方の手の人差し指を当てると、皮膚の一部がスライドして接続端子が現れた。それは明らかに生身のものではなかった。麗奈はそれ以上何も言わなかった。何か訳ありなのかもしれないと千早は思ったが、口外しないことを約束してそれ以上は聞かなかった。
この四月の一か月間ほど、毎週土曜日は部活をさぼって放課後を喫茶店で過ごしていた。土曜日は授業が午前で終わるので、麗奈に会うのに都合が良かった。さぼるのは相変わらず心苦しかったが、元々陸上部を続けるか悩んでいたこともあって、丁度良かったのかなとも思う。
店はいつ来ても貸し切り状態だった。麗奈が言うには他の客も週に一人くらいは来ることもあるらしいが、千早は見たことがなかった。麗奈には申し訳ないが、他の客がいない方が気兼ねなく話すことができて千早はうれしかった。麗奈との関係も良好で、学校の話をしたり麗奈の絵を描いたりしてのんびり過ごしていた。
その日も絵を描くために千早はカバンからノートパッドを取り出す。相変わらず客のいない店内を描いていると、麗奈がこちらに向かってきた。
「千早、ここよろしいですか」
そう言って麗奈は千早の前に座る。秘密を共有して以降、お互いのことは名前で呼び合うようになった。少しでも仲良くなりたくて千早から提案し、麗奈が快諾したのだった。
「今日は店内の絵ですね。いつ見ても上手です」
千早が絵を誰かには見せることは滅多になかった。見せたとしても七海や真千くらいである。褒められ慣れていなので、千早は妙に照れてしまう。
「そういえば陸上部に所属していると以前おっしゃっていましたよね。千早はなんでもできてしまうのですね」
その言葉に千早は顔を曇らせる。
「その陸上部なんだけど、やめようか悩んでるの」
「どうしてですか?」
麗奈は不思議そうに聞いた。
「本当はね、陸上そこまで興味ないんだ。中一の時に勧誘されてなんとなく入部しただけなんだよね……。当時は特にやりたいことなかったから。でも、だんだん絵を描くのが楽しくなってきて、美術部に移りたくなってきたの」
「そうなのですね」
気持ちを絞るようにして千早は言う。
「それで高校に上がるときに陸上やめようかとも思ったんだけど、やめられなかった」
「どうしてですか」
顔を上げた千早は、麗奈に苦笑いを向ける。
「私が私自身の気持ちをちゃんと聞いてあげなかったからかな……」
千早は自然とトーンの落ちた声になる。
「私、大会では地区予選で優勝して、県大会でも決勝まで行ったことあるの。弱小陸上部の中ではエース的な感じ。だから私が高校でも陸上を続けるとみんなが思っていた。私は、私が真面目で優秀な部員として慕われているのを自覚していたし、そうあり続けることを期待されているのも理解していた。私はそれを……無視できなかった」
そう言った千早は、恐る恐る麗奈に
「今の話を聞いて麗奈はどう思う?」
と聞いた。麗奈は少し考えてから真剣な表情で、
「陸上部をやめて美術部に入りたいというのが本当の気持ちなら、そうした方がいいのではないでしょうか。私には難しい人間関係はわかりませんが……」
と答えた、そして、優しい微笑みと共に続ける。
「千早に楽しい日々を過ごしてほしいと、素直に思います」
その言葉に千早の表情も柔らかくなったが、どこか苦笑いの余韻は残っていた。
すると、今度は麗奈が少し寂しそうな顔をする。
「私には、そういった悩みを持てる千早が少しうらやましく感じます」
予想外のコメントに千早が首を傾げる。
「私はほとんどの時間をこのお店の中で過ごしています。ですので、マスター以外の方との交流はほとんどないのです。基本的な知識はプリインストールされていますが、もっと色んなことを知りたいのです」
色んな事の中に自分は含まれるのだろうか、そんなことを千早は考える。どちらにしろ、麗奈の願いは叶えてあげたかった。
「これからもっと色んな話をしていこうね」
その時、思い付いたように千早が付け加える。
「そうだ、今度友達を連れてきてもいい?」
麗奈は少し悩んでいた。
「もちろんアンドロイドだってことは言わない。大切な友人だから、麗奈のこと紹介したいなって……。だめかな?」
大切な友人だからと言ったが、色んな事を知りたいという麗奈の願いを叶えるには他の人とも交流するのがいいと思っての提案だった。
千早が両手を合わせて「お願い」とダメ押しすると、
「そういうことでしたら構いませんよ」
と、麗奈は了承した。
一週間後の土曜日の放課後。来週金曜日には陸上地区予選が控えていたが、千早は七海を誘って喫茶店へ足を運んでいた。千早の最寄り駅と七海の最寄り駅は近くないので時間をとってしまうことになる上に部活もさぼらせることになってしまうが、「好きな人ができたから紹介したい」と千早が言うと七海は喜々としてついてきた。
千早が麗奈を紹介すると七海はきょとんとしていた。しかし、七海と麗奈はすぐに打ち解けて、三人は結局数時間もおしゃべりを楽しんだ。店を出る頃には日暮れになっており、千早は七海を駅まで送った。
「今日は付き合ってくれてありがとう。麗奈も楽しそうだった」
「ううん、私こそ楽しかったよ」
笑顔の七海だが、少し申し訳なさそうにする。
「なんか、今までごめんね」
千早は首を傾げる。
「いや、千早は女が好きだって知らなかったからさ。男の話題よく振ってたなって」
千早は心の中で「あーね」と相槌を打つ。
「気にしないで。それになんていうか……」
「なんていうか?」
千早は照れ気味にはにかむ。
「女が好きというか、麗奈が好き」
「なにそれ」
図ったようにお互いに笑った。
「それからね、今度の大会が終わったら陸上部やめようと思う」
「いいと思う。やりたいことやるべきだよ。陸上部やめて美術部に入りたいんでしょ?」
「うん。今から転部すると美術部にいられるのは一年くらいしかないけど、やっぱり絵描くの好きだし。陸上これ以上続けるのしんどいから」
千早は初めてはっきりと退部の意志を言葉にした。間違いなく麗奈の影響であることを自身でも理解していた。心の強度が下がってしまったような気もしたが、一方で麗奈のおかげで決断できたとも感じていた。
「他の部員からは引き止められるかもしれないけど、私は応援してるよ」
そう言うと七海は千早の肩をポンと軽く叩いた。
その時千早は心から思った、七海がいてくれてよかったと。
陸上地区予選の日。普段は活動を生徒に任せっきりの顧問も、流石に試合の日は引率として同行している。千早は百メートル走で優勝して県大会行きを決めたが、他の部員は悉く負けてしまった。五十嵐先輩や七海は決勝まで行ったが、惜しくも県大会行きを逃した。
陸上競技場から駅への帰り道、千早は七海と話しながら歩いていた。その時、五十嵐先輩が後ろから話しかけてきた。
「霧島、ちょっといいか」
七海は気を使ってか「先行ってるね」と一言言って前を歩く集団の方へ行き、千早は五十嵐先輩と並んで歩き始める。千早の心がざわついた。
「俺も含めて三年は次の七月の大会が終わったら引退だ」
その時点で千早は「あーあ、やっぱり」と思った。
「次の部長はお前を指名しようと思ってる」
陸上部をやめると言えばいい、そんなことはわかっているのに言葉が勝手にせき止められる。何か反論の言葉がないか必死に探した。
「部長は男子がやるものではないんですか」
「確かに例年は男子が部長をやっているが、規定があるわけじゃない。別に女子がやっても問題ない」
二人の間に沈黙が流れる。
「不満か?」
「いえ……」
言葉が続かなかった。そんな千早を五十嵐先輩は詰める。
「霧島は実力があるし、他の部員からも慕われている。みんな霧島に期待しているんだ。他に適任はいない。やってくれるな?」
そして、五十嵐先輩はとどめをさすように付け加えた。
「あと土曜も練習ちゃんと来い」
千早は「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。それが今の千早にできる精いっぱいのことだった。
それ以降五十嵐先輩とは言葉を交わすことなく駅まで歩いた。
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