第2話 きつねとたぬきの大晦日

「お母さん、今日もお仕事なの?」

「ごめんね。恵美の好きな赤いきつね、買ってあるから食べててね。もう小学4年生だから大丈夫だとは思うけど、火傷には気をつけるのよ。ポットにお湯は入ってるからね。じゃあ、お母さん行くから」

恵美は、喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。出かかった言葉の代わりに、なんとか「いってらっしゃい」と口にできた。

夕陽も沈みきって暗くなり始めた街へと消えていく母の背中を見送る。

しん、と静まり返る家に赤いそれは、ただただそこに1つだけあった。


忙しかった決算の時期もあっという間に終わってしまった。

暦はもう31日を指している。

年末年始休暇なんていらない。私はずっと仕事していたい。そうすれば、思い出したくないことを思い出さなくてすむのに。

そんなことを考えながら、薄日が射し込みはじめたリビングで、恵美は、一人でコーヒーを飲んでいた。

『赤いきつねからの、こんちゃん』

と屈託のない笑顔を向け、「こんこん」なんてやっていた来栖くるすれんの姿が恵美の脳内に浮かんだ。

何が、『こんちゃん』だ。

また一つ、思い出したくないことが増えた。

恵美は盛大な溜息をつく。

あの日の出来事に比べれば、こんなの痛くもないけど。

来栖廉とは、仕事納めまでに顔を合わせる機会は何度があったものの、恵美は極力彼のことを避けていた。コロナの影響で、忘年会がなくなったのもありがたい。

さぁ、私が人生で一番嫌いな今日をどう乗り切ろうかと考えているときに、ピロンとスマホから通知音が聞こえた。


「恵美!久しぶり!呼び出してごめんね」

目的の場所へ着くと、先に待っていた小柄な女の子が恵美の元へと駆け寄ってきた。

先ほど恵美の元に届いたメッセージは、彼女から来たものだった。

優愛ゆあ!久しぶり」

斎藤さいとう優愛ゆあは、大学時代の同級生で、こうして会うのは2年ぶりだ。

優愛が待ちあわせ場所に指定したのは、通っていた大学の近くにある喫茶店だった。

優愛が座っていた席の向かいにそのまま座る。

優愛の他にお客さんはいない。

「それで、LINEで言ってた報告って?」

「あのね、私、結婚するの」

「え!おめでとう!」

「ありがとう。実は、その結婚相手っていうのが、この喫茶店のマスターの、水瀬みなせとおるさんなの」

優愛の頬は、ぽっと桜色に染まっている。

この喫茶店は私も大学生の頃、たまにコーヒーを飲みに来ていたので、マスターである彼のことはなんとなく知っていた。

好青年な彼と、女の私から見ても可愛らしい優愛はとてもお似合いだと思う。

「恵美、大晦日、1人だって言ってたから、一緒に年越しソバでもどうかなぁって」

優愛のその言葉には、優しさの中に少しだけ遠慮さも混じっていた。

私の過去を知っているからかもしれない。

「でも、そんな新婚さんのところに私がお邪魔するのは申し訳ないから、今日は」

帰るよ、そう言おうとしたのに優愛は「恵美は絶対にそう言うと思って、透さんの友達も呼んでるの!」とにこやかに言った。

「今、透さんがその人を駅まで迎えに行っててもうすぐ着くと思うから……、あ!ほら、噂をすればだよ!」

「ただいまー」という透の声の方へと視線を向けると、彼の横に立っている人物に恵美は言葉を失った。

「透さんの友達の来栖廉さん」

にっこりと笑う優愛。紹介されなくても、この人のことはよく知っている。できるなら会いたくなかった。

「こんちゃんじゃん!どうしたの?狐につままれたような顔して」

来栖廉は、いつものように飄々とした様子でそこに立っていた。

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