第22話 子淡の回想⑤



 蒼穹が澄み渡った素晴らしき日に、冠礼の儀は恙無つつがなく執り行われ、リン皇太子は、「麒煉チーリィェン」、ツァィ皇子は、「章絢ヂャンシュェン」のあざなを賜った。


 当初、今回の儀式は麒煉チーリィェンだけの予定だった為、皇后は出席しない心積もりであった。

 だが、急遽、章絢ヂャンシュェンも一緒に受ける事に決まった為、彼女は息子の晴れ舞台を見る為に、病を押して出席した。

 リィゥ太傅たいふの視線は険しく、彼女の身を貫くような鋭さで、居心地の悪さは拭えなかったが、息子の晴れ姿を拝む事が出来、感慨無量であった。

 静かに涙を流す彼女を見守る皇帝、劉章リィゥヂャンの目は、愛おしさに溢れており、それが更にリィゥ太傅たいふの目を険しくさせる原因となっていた。


 その後、直に章絢ヂャンシュェンが臣籍降下する旨が発表されると、リィゥ太傅たいふの視線は見るからに柔らかくなった。

 あまりの分かりやすさに、周りの者達は苦笑する。


 師君シージュンもその様子を見て、呆れ返った。

 それでも、これで麒煉チーリィェン章絢ヂャンシュェンがコソコソする事なく堂々と仲良く出来るようになるのならば、それに越した事はないと、安堵の息を吐いたのだった。


 臣籍降下することになった章絢ヂャンシュェンは、特別にこの場にて科挙の殿試でんしを受ける事となった。

 その結果、配属される部署が決まる。

 緊迫した空気の中、章絢ヂャンシュェンは堂々とした風格で、試験をこなしていった。

 その実力は一目瞭然で、リィゥ太傅たいふも納得せざるを得ない程、優秀であった。

 後日、章絢ヂャンシュェンは門下省へと配属され、黄門侍郎こうもんじろうに就任した。

 黄門侍郎こうもんじろうとは、副長官の事で、新人からの抜擢は異例の事である。

 結果的に特別扱いになってしまった章絢ヂャンシュェンは、そのことでも後々苦労する事になるが、実力で全てを黙らせていった。



 冠礼の大々的な儀式は済み、麒煉チーリィェンの婚礼の準備が終わるまでの間、官僚達は一度退席となる。

 この間に、劉章リィゥヂャン師君シージュン麒煉チーリィェン章絢ヂャンシュェン、それから子淡ズーダンは、天迎ティェンイン宮で天帝への拝謁の儀式に参列する。

 天帝への拝謁の儀式は、皇族の冠礼の儀以外でも、毎年、元日に執り行われる。

 二人の親である劉章リィゥヂャンがこの儀式をした時に、天帝がいらっしゃることは一度もなかった。

 その為、今回も形式的なもので終わるだろうと、師君シージュン以外は思っていた。

 師君シージュンは、前皇帝の時に天帝に拝謁する機会があった為、麒煉チーリィェン章絢ヂャンシュェンならば、お出でになるのではないかと、心持ち期待していた。

 劉章リィゥヂャンが暗愚だというわけではないが、前皇帝や麒煉チーリィェン章絢ヂャンシュェンに比べると、どうしても見劣りする。

 リィゥ太傅たいふに良いようにされているのがその証拠と言えよう。

 それ故に、天帝は姿を現されなかったのではないかと師君シージュンは考えていた。


 師君シージュンの予想は当たり、劉章リィゥヂャンに次いで麒煉チーリィェンが天帝に言祝ぎを奏上すると、天迎ティェンイン宮の中に雲が立ちこめた。

 師君シージュン以外が右往左往する中、祭壇の上に神々しく光り輝く、人型を模した天帝が御出座おでましになった。

 天帝の姿は、まぶし過ぎてはっきりと拝むことは困難だったが、大層麗しいご様子であった。


 すかさず、師君シージュンは最敬礼をする。

 それに習って、呆然としていた劉章リィゥヂャン達も慌てて、最敬礼をした。

 その様子を、天帝は目を細めて眺める。


 皆、頭を垂れたまま、天帝の御一声を待っていた。


白雲バイユンよ。久しいな。應劉インリィゥも元気かえ?」

 天帝は先ず、見知った愛し子である師君シージュンへと喜色満面で話し掛けた。

 「白雲バイユン」とは、師君のあざな、「應劉インリィゥ」とは劉章リィゥヂャンの父である前皇帝のあざなである。


「はっ! 直答をお許し願えますか?」

「おっと、そうであったな。人とは面倒なものだ。皆の者、顔を上げるが良い。直答も許す」

 師君シージュンの、畏まった物言いに、一瞬眉をひそめた天帝であったが、諦めたようにそう言った。

 天帝の言い様に、思わず相好を崩した師君シージュンは、とても嬉しそうに答える。


「有り難き幸せ。應劉インリィゥ前皇帝は、今は離宮の方でお過ごしですが、お元気でいらっしゃいます」

「そうか。なれば、重畳。……その方が應劉インリィゥの子であるか?」

 天帝は、劉章リィゥヂャンの方を見て険しい表情を浮かべる。

 それにひるみながらも、劉章リィゥヂャンは、「はっ!」と、肯定の返事をした。


「その方が悪いわけではないのだが、周りの者達のじゅを身にまとっていた為、そなたの傍近くに行くことが出来なんだ。今はそれが多少薄れているから、ここに来られたが、そのじゅはらわねば、その方の寿命もわずかばかりとなるであろう」

「そう、で、ありましたか……。ご啓示賜り、恐悦至極に存じます」

 天帝の言に、劉章リィゥヂャンは顔面蒼白となったが、何とかそう返事をし、虚ろな目でその場に立ちすくんでいた。


 天帝は、憐れむように劉章リィゥヂャン一瞥いちべつした後、慈しむような目を子淡ズーダンへ向けて、手招きした。

「さて、そこな愛し子よ。こちらへ参れ」


 子淡ズーダンはとても緊張していたが、まるで操られているかのように天帝の方へとその身を近づけて行った。


「愛いのう。白雲バイユンも数瞬前は、このように愛らしい見目であったのにのう……」

 天帝は、それは、それは愛おしそうに、子淡ズーダンの頭やほおでた。

 子淡ズーダンはくすぐったそうにしながらも、はにかんだ表情を浮かべて嬉しそうにしていた。

 それを見ていた章絢ヂャンシュェンは、やはり子淡ズーダンは神の御子であったのかと、益々その存在を遠くに感じて胸が苦しくなった。


 次に天帝は、麒煉チーリィェンを指し示し師君シージュンへと尋ねた。

「さて、白雲バイユンよ。そこな次の皇帝たる者は、天子の力を授けるに足る者と見えるが、如何いかがか?」

「はっ! 私もそのように愚考いたします」


 師君シージュンの返答に、満足げな表情を浮かべた天帝は、今度は麒煉チーリィェンへと問い掛けた。

「左様か。そなた、名をなんと申す?」

「はっ! 李麟リーリンあざな麒煉チーリィェンと申します」

 麒煉チーリィェンは堂々とした受け答えをし、天帝は目を細める。


 そして、その後ろに一歩下がって控えていた章絢ヂャンシュェンに、天帝は目を留めた。

「もう一人居るではないか。そなたは?」

「恐れながら、李彩リーツァィあざな章絢ヂャンシュェンと申します。私は、陛下方をお助けする一家臣に過ぎませんが、このような機会を賜り恐悦至極に存じます」

「そのように、へりくだる必要はない。そなたも天子に劣らぬ人財であると思うが? のう、白雲バイユン?」

「仰せの通りに御座います」

「ならばそなたらに、我が子の力を貸そうではないか」

 天帝はそう言って、麒煉チーリィェン章絢ヂャンシュェンへと御手をかざした。


麒煉チーリィェンには、『天子』を名乗ることを許し、上級の『ザオ』と『シィェン』、『ツァォ』を合わせた『天子』の力を。天子を補佐する者たる章絢ヂャンシュェンには『シィェン』の力を貸そう。使い方は自ずと分かるであろう」


「有り難き幸せ!」

 麒煉チーリィェン章絢ヂャンシュェンは、ほぼ同時にそう答えた。


「この力はあくまでも貸すだけだ。自らの力だとおごるようなことがあれば、即刻失うものと心に刻み込め。良いな?」

「はっ!」

 二人は神妙に首肯した。


「それから、分かっておると思うが、『ザオ』の力を持つ者は、我の愛し子である。決して無下に扱うではないぞ」

 これにも二人はしっかりと頭を垂れた。


 頭を上げた章絢ヂャンシュェンは、恐る恐る口を開く。

「恐れながら、我が身には過ぎたる力と、愚考いたします」


 天帝は、慈しむような眼差しを章絢ヂャンシュェンに向けた。

章絢ヂャンシュェン。そなたの父は傀儡かいらいの王であった。愛する者が出来てから変わろうと頑張ったみたいであったが、残念ながら凡庸にしかなれなかった。尚且つ、それを上回る力を持った悪知恵の回る者ばかりに囲まれておった。じゅの所為で近づけなかったこともあるが、周りの奸臣狸に天子の力を悪用されては困ると思い、そなたの父に授けることは叶わなかった。その分をそなたに『シィェン』の力として貸してやっている。それ故、そなたが引け目を感じる必要は一つもない。だから、我が愛し子のこと、くれぐれも頼む。そなた程、この子のことを大切にしてくれる者は現れまい。そなたのことを信じているぞ」

「はっ! 有り難う存じます。彼女のことは、この身を賭して、一生涯お守りいたします」

 章絢ヂャンシュェンは天帝の言葉に、胸が震え、感極まって涙を零した。


「うむ。それでは、皆の者達者でな。また会う日を楽しみにしているぞ」

 そう言って、天帝は一瞬後に姿を消した。


 天帝が去るのと同時に、立ちこめていた雲も跡形もなく消え去った。

 すると、壁に描かれている龍が目に入り、次の儀式に移るよう師君シージュンが促す。

「さぁ、子淡ズーダン。天帝にも拝謁が叶った目出度い日である。きっと、龍もたちまち昇るであろう。これで目を描き入れるのじゃ」

「はい!」

 師君シージュンから筆を受け取った子淡ズーダンは、気合いを入れて、目を描き入れたが、残念ながら龍が実体化することはなかった。

 その後、麒煉チーリィェン章絢ヂャンシュェンも試みたが、結果は同じであった。

 三人は、残念に思いながらも、師君シージュンですら叶わなかったことが未熟な自分たちが出来るはずもないと、納得して、天迎ティェンイン宮を後にした。


 その後、麒煉チーリィェン武耀華ウーヤォファの婚礼と祝宴が続き、龍居ロンジュ城は深夜を過ぎてもお祭り騒ぎでにぎやかだった。


 その影で、芙蓉フーロン宮では医者や侍女達が、慌ただしく行き来していた。

 無理をして、冠礼の儀式に出席した皇后は、張っていた気が一気に緩んだようで、芙蓉フーロン宮に戻った直後に高熱を出した。

 その熱は、上がるばかりで、皇后は見る間に衰弱して行った。

 そして、一週間後、皇后は章絢ヂャンシュェンと偶々お見舞いに来ていた麒煉チーリィェン耀華ヤォファが見守る中、息を引き取った。

 劉章リィゥヂャンは、今際の際には間に合わず、その一時いっとき後にやって来て、泣き崩れた。


 その姿を見て、劉章リィゥヂャンはちゃんと皇后を思っていたのだと、他人事のように二人の息子は感じていた。


 お目出度めでたい行事から一転、龍居ロンジュ城は暗い空気に包まれていた。

 劉章リィゥヂャンは打ちひしがれていて、仕事ができる状態ではなく、麒煉チーリィェンがその分の公務をこなすようになっていった。


 そして、章絢ヂャンシュェンも暗い表情で、粛粛と新しい仕事をこなしていた。

 忙しくなった為、子淡ズーダンと会う回数が極端に減ったことも、章絢ヂャンシュェンが暗くなった要因であった。


 ちなみに、二人が成人したのを機に、子淡ズーダン待詔たいしょうへと昇進し、多忙な章絢ヂャンシュェンの代わりに、正式に武官が護衛として付くことになった。

 その為、子淡ズーダンは安心して画院へと通うことが出来ていたが、章絢ヂャンシュェンと会う機会が減り、とても寂しく思っていた。



 久方振りに休みとなった日、章絢ヂャンシュェン子淡ズーダンの家を訪れた。


 子淡ズーダンは、章絢ヂャンシュェンの余りのやつれように、沈痛な面持ちとなった。


 この時、子淡ズーダン章絢ヂャンシュェンの支えになりたいと強く思った。

 そして、誰よりも彼の傍で彼と共にありたいと心の底から願った。


 子淡ズーダンの入れてくれたお茶で一息吐いた章絢ヂャンシュェンは、真剣な表情を子淡ズーダンに向け、口を開いた。


子淡ズーダン。俺はいずれ君主になる麒煉チーリィェンを支えられるような官吏になる。そして、造士ザオシーである子淡ズーダンに相応しい人間になれるように上を目指す。だから、それまで待っていてくれないか? その時になったら、子淡ズーダンに求婚したい」

師哥兄さん……」

子淡ズーダン。今はもう、君の師哥ではなく、一人の男として見てもらいたい。だから、『師哥兄さん』ではなく、『章絢ヂャンシュェン』と呼んではくれないか?」

「それは……」

「駄目か? 私のことをそのようには見られないだろうか?」

「違うの。嬉しくて……。私で良いの?」

子淡ズーダンが良いんだ」

「うっ、ひっく……」

「泣かないで、子淡ズーダン

「うっ。私、待ってる。ずっと。だから、いつの日か、貴方の妻にして下さい」

子淡ズーダン、ありがとう。名前を呼んでくれないか? 『章絢ヂャンシュェン』と」

「……章絢ヂャンシュェン師哥兄さん?」

「『師哥兄さん』は余計だよ。『章絢ヂャンシュェン』だけだ」

「うー、ヂャンシュェン……」

「フフ、良いね。これからはそう呼ぶんだよ」

「……はい」





 それから、二人が結ばれるまでには実に八年の歳月を要した。


 二年後に麒煉チーリィェン耀華ヤォファとの間に第一子が誕生して暫くすると、この頃殆どの公務を麒煉チーリィェンに任せていた劉章リィゥヂャンが、遂に退位し、麒煉チーリィェンが皇帝となった。

 その二年の間でも後宮では、様々な陰謀が渦巻き、多くの者が命を落としていた。

 劉章リィゥヂャンの退位をもって、後宮はかなり縮小された。

 耀華ヤォファの関係者以外は全て追い出されたが、それまでに流された血はあまりに多かった。

 劉章リィゥヂャン龍居ロンジュ城を去った後も、暫くは後宮が落ち着かなかったが、更にその一年後、耀華ヤォファが第二子を身籠る頃には体制が整いつつあった。

 この頃になると章絢ヂャンシュェン侍中じちゅうに出世していた為、第二子が生まれたらいよいよ子淡ズーダンに求婚しようと考えていた。

 だが、耀華ヤォファは産後の肥立ちが悪く、その数日後に帰らぬ人となった。

 そして、落ち込んでいた麒煉チーリィェンを慰めた子淡ズーダンに、彼が横恋慕して一悶着があったり、反乱の兆しや近隣諸国とのいさかいがあったりと、中々、章絢ヂャンシュェン子淡ズーダンに求婚することが出来なかった。


 日々に追われ、気がつけば随分と月日が流れていた。

 それでも二人の気持ちは変わらなかった。

 むしろその分だけ気持ちが膨らんで、あふれていた。

 そして、ついに昨年、少しだけ落ち着いた時期を見計らって、章絢ヂャンシュェン子淡ズーダンになんとか求婚することが出来た。

 子淡ズーダンは直に承諾し、婚礼の準備を進め、日和の良き日に、芙蓉フーロン宮で麒煉チーリィェン師君シージュン子淡ズーダンの家族などが見守る中、慎ましやかな結婚式を挙げたのだった……ーー。





  *    *    *   





「−−……そうして、私は章絢ヂャンシュェンと結ばれることが出来たの」

 子淡ズーダンはそう言って、話を締め括り、すっかり冷めてしまった苦いお茶を一口含んだ。


「へー。子淡ズーダン大姐姉さん章絢ヂャンシュェン大哥兄さんには何て求婚されたの?」

 フゥァンは興味津々の顔を隠すことなく尋ねた。


「ふふ。それは二人だけの秘密よ」

「えー」

 勿体もったいぶるように笑って言った子淡ズーダンに、フゥァンは口を尖らせて不満顔をする。


「何でそんなに聞きたがるの? もしかして、好きな子でも出来た?」

「なっ!? そっ、そんなの、い、いないよ!」

「まぁまぁ。フゥァンも隅に置けないわね」

「だから、違うって!」

 子淡ズーダン揶揄からかわれたフゥァンは、真っ赤な顔で否定した。


「ふふ。そう言うことにしておいてあげるわ」

「意地悪」

 フゥァンねたようにして、そう言った。

 その姿を微笑ましく思いながら、子淡ズーダンは立ち上がる。


「さてと。随分、話が長くなってしまったわね。いつの間にか、夕食の時間になってしまったわ。花梨ファリー老娘母さんのお手伝いに行かないと。用意が出来たらご飯にしましょう」

「また、色々話してくれる?」

「ええ。また今度ね」

 そう言った子淡ズーダンの声音は、先程までの暗く沈んだものではなく、無理のない、明るく温かなものに聞こえた。

 色濃かった彼女の顔のかげりが、先程よりも少しだけ薄らいだように感じられ、フゥァンはホッと安堵の息を吐いたのだった。







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※ 殿試……科挙の最終試験で、進士に登第した者が、皇帝臨席の下に受ける試験を言う。試験であるが不合格者は出さず、合格者の最終的な順位を決めるだけのものであった。

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