録音は、問いかけで終わった。うんともすんとも言わなくなったスマートフォンを取り上げて、隆二は引きつった笑顔を沙耶に向ける。


「これで、勘弁してもらえね?」

「捕まえんのは諦めようってこと?」


黙って肩を竦める彼に大きくため息をついてから、沙耶は立ち上がった。


「珈琲?紅茶?」

「……珈琲。」


不機嫌な声は明確な返事を避けたからか。マグカップを取り出しながら、彼女は小さく笑う。


「ねぇ隆二、証拠は?」

「は?」

「確かに私もそれ聞いた上で人魚捕まえるのは若干気が引けるけどさ。でもその子が本当に人間じゃなかったのかなって。あんたが人魚探すの面倒くさくなって、でっち上げたかもしれないでしょ。」


電子ケトルからこぽこぽと注がれるお湯の音と同時に、部屋中に珈琲の香りが広がる。


「お前さぁ。俺がでっちあげたとしてもさぁ……こう良心とか……」


面倒くさそうに文句を垂れるものの、彼の顔には笑みが浮かんだ。もう彼女に人魚を捕まえる意思がないことが分かったからだろう。なにしろ長年の付き合いなのだ。伊達にこの水族館を譲り受けるよりずっと前から軽口を叩きあってきたわけではない。


「ほら。」


録音の再生で随分と電池を食ったようだ。充電を促すメッセージを無視して、隆二は沙耶に画面を見せた。


白い長髪、赤い目、白い肌。肩より下、腕も含めて水面から出ている半身は白い毛に覆われている。


隆二が話を聞いてきた『少女』の写真だ。


「獣人なんてこんな近くにまだいたんだね。別に彼女でも良かったのに。」


そう。彼女でも良かったのだ。スマートフォンのかわりに握らされたマグカップへ視線を落とし、彼は舌の上でその言葉を転がした。彼女でも良かった。水族館に増やす生き物は、珍しいものなら、なにも人魚でなくて良かったのだから。


水族館の経営を沙耶が任されてから、ここは特に経営難になることもなく、特別繁盛するわけでもなく、一応黒字でここまで来た。新しく生き物を増やすことも出来そうだとなった時、沙耶は付き合いの長い隆二を捕まえてこう提案した。


ここで人魚を飼ってみないか、と。


現在、人魚はその肉を求めた乱獲により数が激減している。乱獲は規制されたが、むしろ水族館が野生の人魚を保護して飼育することは推奨されていた。人魚は警戒心が強く未だ保護に成功した水族館は存在しないため、成功すれば入館者増加が期待されるというわけだ。勿論、一飼育員である隆二も二つ返事で承諾した。保護に成功すれば政府から補助金も出る上、人魚が毎日見られるのも魅力的である、と。


そうして隆二の人魚探しが始まってからそろそろ二ヶ月が経とうとしていた。昨日来館者の女性から、白い髪の毛の女の子が池から顔を出しているのを見たという情報を得、隆二は今朝、水族館からすぐ近くの池を見に行ったわけだ。池と言っても並んで二つある池のどっちかなぞ分からず、隆二が二つの池から少し離れたところに体育座りする不審者になり果ててから三時間ほど。ひょこりと顔を出した獣人の少女に「ひぎょわっ」と奇声をあげ腰を抜かした彼の心中はお察しの通りである。何をしているのかと楽しげに少女から問われ、録音を開始しながら「人魚を見たことがあるか」と聞くことが出来ただけ褒めて欲しい。


「獣人なんて、ウン十年前から保護の対象じゃない。話を聞く限り、彼女なら住処を変えるのにも抵抗なさそうだし。」


人魚よりもずっと前から、獣人は人間によって絶滅に追いやられたと思われていた。それこそ百年、二百年も前の話だ。


「いやさ、獣人にしろ人魚にしろ俺はもっと……んー、なんつーかな、獣に近いと思ってたんだよ。ありゃあ、保護というより誘拐にならないか?」


ふぅん、と少し馬鹿にしたように沙耶は口の端を吊り上げた。


「何、知能の話?それとも日本語が通じて驚いたとか。」

「まぁ、そんなところ。」

「でも、人じゃない生物でしょ。知能が低い生物なら捕まえても罪悪感がないってこと?」

「うん、まぁ、そうなるんだけどよ。」


沈黙。まぁ妙な話だ。見た目が人に近く、知能が人に近く。それだけで『動物』とは線引きしたくなってしまう。


「私ここの魚達も動物達も幸せだと思ってるんだけどなー。」


無音を破って、いつも通りの声色で沙耶は笑う。隆二はちらりと彼女を伺い見たが、目は合わなかった。


「……だと、俺も思うけど。」

「まぁ、『保護』って難しいよね。あーあ、何をとっても私達のエゴだ。」


カタン。マグを少々乱暴にテーブルに戻し、沙耶は唸った。目線はまだスマートフォンから離れない。


「隆二。」

「何だよ。」


ゆっくり顔を上げて、沙耶はニッと笑った。すっかり、いつもの顔で。


「ここの裏から池まで買い上げようか。誰も使ってないしさ、確かそんな高くなかったはずだし。ちょっと余裕あるから。そんで、池のあたりは立ち入り禁止にしちゃおう。」


隆二の動きが止まる。傾きかけのカップが危うい。


「そんでさ、その手前までちょっと増設とかしよーよ。うん、いいんじゃない。」

「なん、だよそれ、」

「エゴ。」


小さな低い声で、いやに力強く。半ば睨むように目を細めて、彼女はもう一度呟いた。


「私のエゴだよ。」


返事をしない隆二から、沙耶はひょいとマグカップを取り上げた。


「飲まないの?」

「……冷めた。」


憮然として返す彼にからからと笑い、そのままカップを持って立ち上がる。


「ねぇ、これでこの話終わりにすっからさ、一個いい?」

「んだよ。」


二人分の、本当はまだ冷めてなんかいない珈琲を電子レンジに並べる。いっそ沸騰するくらい温めてやろう、なんて考えて一人で笑いながら、彼女は振り返る。


「最後さ、なんて返したの?」

「さーな。」


曖昧に笑った隆二に、臆病者、と笑った沙耶の声は、電子レンジを閉める音でかき消された。

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