叫びの残響
りん、りぃん……。
優しく耳を撫でる音に目を覚ます。光の奔流に飲まれた瞳は、金色に輝く世界の中で出口を探していた。程なくしてやっと見つけた出口。明るさになれた視界に広がるのは、汚れ一つない真っ白な天井。過剰なほどの優しさによって構成された人工的な白。そして薄桃色のカーテンに囲まれた空間。
辺りが気になり、起こそうとした身体が僅かに軋む。
きぃ、と音を鳴らすベッド。
光の漏れるカーテンの隙間から覗いた窓の外には、青空があった。僕の知っている空。そう、青が覆う空。あぁ、涙が出るほど懐かしい。
激しく叫ぶ心臓を落ち着かせようと、何度か深く息を吸っては天井を見上げた。この行為に特に意味はないが、今は誰かの手が入った穢れの無い白に安心させられる。
りん。
不規則に聞こえていた鈴の音は、誰かのキーホルダーに付けられた小さな鈴が原因らしい。
それにしても、僕はいつからここにいて、誰がここに運んだのだろうか。近くに日付の分かるものは全くない。
積もる疑念と不安。絡まりあった記憶の紐を解いても、一向に記憶の欠片すら手に入らず、吐き気を催す歪んだ断片だけが浮かんでは脳裏へ染み込んでいく。
自分自身が分からなくなる感覚。
こうやって人は発狂していくのだろうか。
眩暈がして頭を押さえていると、揺れるカーテンの向こうに人の気配がした。人影が揺れる。
人影。
思い浮かんだ光景に指先が震え、全身の血の気が引く感覚が襲う。それでも吸い寄せられるように手を伸ばす。滑らかで柔らかなカーテンを摘まむ指先が重かったが、迷いを振り切るために勢いよく左へと引いた。
「きゃっ」
軽快な音と共に聞こえた小さな悲鳴に、思わず手を引いて視線を上げた。視線の先には目を見開き、左手を口元に当てた少女が一人。光を浴びて佇むその姿を思わずじっと見つめる。
どこかで見たことあるような。
「こんにちは」
僕よりも先に落ち着きを取り戻した彼女が口を開く。
「良かった、目を覚ましたんですね。えっと……覚えてますか、私のこと」
何かを避けるように、一言ずつ言葉を選んでは声を出して首を傾げた。その瞬間、逆光だったその顔に光が当たり、困ったように笑う表情が見えた。
「もしかして、さっき駅で」
「はい、先ほどはありがとうございました。斑鳩さん」
「名前、言いましたっけ?」
「病室の入り口に書いてありましたので、勝手に見ちゃいました。改めて、はじめまして、そしてお久しぶりです。私、神山鈴です」
そういって軽く頭を下げる彼女につられるように、こちらこそ、とベッドの上に座ったまま頭を下げる。その視線の先に伸びた細長い光を見て、はっ、と頭を上げた。この状況、果たして現実なのか。
覚醒しつつある思考を必死に働かせる。
「どうしました」
心配したような神山さんの声に対して、ぽつりぽつりと自分の思考を口に出していく。
「これって現実ですよね」
「たぶん現実のはずです。私も現実だと思っています」
「なら、僕たちが出逢ったあの場所は……夢? それとも幻覚みたいなもの?」
「残念ながら、現実っぽいですよ。少なくても夢ではないようですね」
ベッド脇の小さな椅子に腰を下ろしながら話を続ける。柔らかかった表情が神妙なものに変わり、じっと視線を向けられているが、その表情から伝わるのは彼女の言葉が嘘でも、偽りでもないということだけ。
「これ、憶えていますか」
そういって小さなプラスチックケースから取り出したのは、どこにでもありそうな小さなススキの穂。
「ススキなんですけど、見覚えある……かな?」
それは彼女と出逢ったあの駅。目の前に広がるススキ、生々しい案山子、腐敗臭、そして掴んだ彼女の手。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。
「……もちろんあるけど、それはどこで」
「うん。私たち二人が倒れていた場所に、お供えされるようにいくつも落ちていたようですよ。たぶん聞きたいことは沢山あると思います。あると思うけど、少しだけ私の話に付き合ってくれますか」
「良いですよ。むしろ話してくれると助かるかな」
現状に疑問が多すぎて、質問すら考えられない。
「これは私もさっき先生に聞いたことなので、どこまで本当か分からないのですが、少なくても冗談ではないようです。まぁ、冗談でも受け入れざるを得ないですけど。私としてはたぶん事実だと思っています」
ついさっき聞いたという話。
先生とはたぶん医師だろうし、そもそも初対面の僕らが一緒に倒れていたというのも気になる。
「最近、行方不明の人が増えているのは知っていますか?」
「いや、聞かないですね。それに行方不明って大々的に取り上げられにくいイメージがあるし、調べたり身近な人が関係しない限り気にしないかもしれないな」
「行方不明は年間で届出が八万件ほど出されるくらいには発生しているようです。想像できないですよね、この平和そうな国で」
「八万人か……全然気にしたことなかった」
「ですよね、気にするわけがない。十数人でも知っていれば多い方ですよ。あ、別に気にしてない斑鳩さんを責める気はないですよ、私も同じですし。……言い訳じみた話になるけど、私は毎日、明日が来なければ良いのにって願いながら眠っては、朝の日差しに絶望していたの。自分のことで精一杯で、他人のことを気にする余裕すらなかった。本当に生きていて良いのか悩むことしか出来なかった」
なぜか彼女の言葉が懺悔のように聞こえる。生きていて良いのかと漏らす彼女の姿を思い出す。
「神山さんもそれ以上自分を責めないでよ。みんな、多かれ少なかれ自分のことで精一杯だと思うし」
「そうかな、ありがとう。ごめんなさい、話が逸れちゃったね。それで最近、行方不明者数が増えているっていう話だけど、別にこれは件数を計算したわけじゃないらしいの」
「計算していない?」
「うん、だからこれは体感の話で、本当は増えていないのかもしれないです。さっき、斑鳩さんも言っていたけど、普通ならそこまで行方不明者って身近に感じないでしょ」
「うん、数人の情報を聞けば多い方だと思っていますね」
「ですよね。でもこの病院に運ばれてきた人数だけでも、数日から数週間行方が分からなかった人が二か月で十人以上。正直偶然とは思えないって」
「この地域に限って増えているかもってことか。ただ偶然が重なっただけではなくて?」
「最初はそう思っていたらしいけど、目を覚ました患者さんがみんな、あの変な世界のことを話しているという噂が看護師さんの間で広まったの」
あの変な世界。
思い返したくもないが、同じ光景を見ていた人がこの場にいる二人だけではないらしいという事実が、僅かな安堵をもたらしてくれる。僕は正常だと。
「僕が言うのもあれだけど、かなり荒唐無稽じゃないですか、幻覚や悪戯だとはならなかったんですか」
「繋がりが無いらしいです。私たちもそうですけど、あの世界で出会う以前は全く接点が見つからないようで……。そうだ、一つ聞いても良いかな」
「大丈夫ですよ、なんでも聞いて」
「斑鳩さんはあの世界に入る前、誰かに変な言葉を囁かれなかった?」
「変な言葉?」
「そう、耳元で囁かれるような。実は私も看護師さんに聞かれて思い出したんですけど……」
「ちょっと待って、今思い出す」
神山さんとの会話で落ち着き始めた記憶をゆっくりと手繰り寄せ、その先に描かれた絵を眺める。出来るだけ正常な記憶を、正確な記憶を。
取り留めのなく下らない、意味の無い記憶が次々と浮かんでは消え、心を握られるような鈍い痛みが身体の奥底で繰り返される。
そんな中、突然ふわっと香った金木犀の匂いと共に何かが聞こえた。
『――い』
見つけた。
「そういえば、聞こえた」
「その言葉、聞いても良いですか?」
「……たしか、『死にたくない』って」
その言葉に神山さんは表情を変えなかった。まるで予期していたかのように、想定の範囲内だったかのように、小さくうなずいて困ったように笑った。
「私もその言葉を聞いていたんです。他の人もほとんどが同じことを言っていたみたいで」
「さすがに偶然とは言えないか。あの言葉、無視すれば良かったのかな」
「どう……でしょうね。でも、あんな死にまみれた場所にはもう行きたくないかな。自分が自分じゃないみたいだったし」
「そうだね。最後の最後まで異変に気付かなかったし、もしあのままだったら、僕たち死んでいたのかな」
「そんな気がするよね。あの時、手を掴んでくれたから、今の私がいるのかもしれないです」
「あれは僕のエゴだよ。本当に、生きていてくれてありがとう」
「こちらこそ、生きる意味をくれてありがとう」
神山さんの言葉を聞いて、自分の利己的な行動が救われたような気がした。カーテンが揺れる。どこからか風が入ってきたようで、窓を閉めようと立ち上がるが久しぶりの地面に一瞬ふらつき体勢を崩した。よろけた僕を彼女が抱きかかえるように支えてくれる。
「大丈夫?」
「ごめん、久しぶりに動いたせいで」
「気にしないで、私もそんな感じだったし」
「そういえば、入院してからどれくらい経っているか分かりますか」
「私は三時間くらいで目を覚ましたみたいだけど、斑鳩さんは八時間くらい眠っていましたよ。ちなみに看護師さんに知り合いか確認して欲しいって紹介されて、斑鳩さんも一緒に運ばれたってことを知ったの」
「そんなに眠っていたのか。ごめん、もう大丈夫」
想像以上に眠っていたことに驚きつつも、彼女の体から離れるようにして自分の足で立つ。
「突然立ち上がってどうしたの」
「いや、窓が開いていたみたいでさ」
そう言いながらベッド横へと進み、窓枠に触れて力を籠めようとしたが動きを止める。窓は嵌め殺しで、一切開いていなかった。冷たい金属の感触が火照った手から熱を奪う。
「気のせいだったみたい」
「そうなの? ……あれ、これ何だろう。押し花?」
彼女が窓際に落ちていた白い花を拾って首をかしげる。
手元にはどこかで見たような小さな花。
「その花、あの世界で咲いてなかった?」
「言われてみれば。ちなみにこの花、スノードロップですよ」
「へぇ、これがスノードロップか。もしかしたら、過去にあの場所へ行ったことのある人にでも聞ければ、何かしら関係性が分かりそうだけど」
「それが退院した後、ほとんどの人と連絡がつかなくなるらしいですよ」
「え、それって」
またあの場所に、と言おうとしたところで、彼女がゆっくりと首を振る。
「悪いことは考えないようにしようよ」
「そうだな。せっかく生きようと思ったのに」
小鳥の囀りが聞こえる。
悪い想像に飲まれてはいけない、たとえあの光景が現実でも、これから先どんな悪夢が待っていても。
「本当に私、生きていても良いんだよね。幸せになっても良いんだよね」
隣に立った彼女がぽつりと言葉を漏らす。
「うん、生きていてくれると僕が嬉しいから。無理にとは言わないけど、僕の為に生きて。そうすればいつか、もっと別に良い生きる意味が見つかるかもしれないし」
「生きるから、斑鳩さんも生きてよ。貴方がいないと生きる意味が無くなっちゃうからさ。ちゃんと責任取ってね、なんて」
微笑んだ彼女に小さく頷き、窓の外へと目を向ける。
そうだ、あのとき思った気持ちは偽物じゃない。
絶対に生きようと思ったんだ。
「うん、神山さんに生きていて欲しいから僕も生きるよ。無意味でも、無価値でも、あの場所で叫んだ言葉は本物だから、どんな小さな希望にでも縋って生きるよ」
透き通るような空は、どこまでも青く、どこまでも繋がっている。溶けて消えそうな雲へと手を伸ばせば、すぐにでも届きそうになる。それでも掴みたいと願うたびに、届かない指の隙間から静かに逃げていくのだ。そんなもどかしさに塗れて生きている。
幸せだってそうだろう。
願い祈るほど、幸せは逃げていく。それでも僕たちは幸せへと手を伸ばし続けていこうと思う。
――さぁぁ
風が吹いた。外の木々がゆっくりと揺れている。
その瞬間、大きな影が窓のすぐ外を落下した。長い髪に汚れた紐。
一瞬、たった一瞬の出来事だったが、身体を硬直させるには十分だった。
「今の見えた?」
隣に並ぶ神山さんも、窓から目を離さずに力なく呟く。
「見えた。人間だったと思う」
「男のひと?」
「僕には女の人に見えたけど」
「え、なにあれ」
彼女が指をさした先には、ただの電柱が立っている。何の変哲もない電柱。
なにが見えているのか。
「だってあそこで首を、首を吊って……」
彼女がそっと手を握ってくる。
どれだけ見回しても首を吊っている姿はない。何を、誰を見ているのか。
視界の端から端をしっかりと見渡す。広がるのは青い空に、色付いた木々。そこには、ただのありふれた日常が存在するだけで、彼女の言う非日常の影はどこにも侵食していなかった。侵食していないはずだった。
「そんなはず……」
思わず声が漏れ、繋いでいた手を強く握る。僕の視線の先には地平線へとまっすぐ伸びる道。道の中央には空よりも青く塗装された歩道橋が寂し気に存在し、そこに立つ小さな人影が目に入った。
歩道橋の手摺の上で空を見上げる少女。
その姿にノイズまみれの記憶が強引に呼び起こされる。朦朧とする意識の中、あの少女の飛び降りを無視した記憶。
少女がゆっくりとこちらを向く。
距離は離れているが、なぜか僕を見ているという確信が持てた。
やめてくれ、こっちを見ないで。
少女の口元が歪む。
見棄てたんじゃない、赦してくれ。
届くはずのない無意味な懺悔。これは罰か。
見棄てたくなかったんだ、赦してくれ。
そして、歩道橋から少女が消えた。
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