音の鳴る歩道橋

 『貴方に存在価値はありますか』

 目の前に湧き上がった問いに指が止まる。

 窓から差し込む揺れる夕日が、教室の古臭い机を摩るように照らしていた。

 ぎぃ……ぎぃ……。

 不規則な音を立てる影が悲鳴を上げる。この気持ちの悪い問いかけと向き合うこの時間は、果たしていつまで続くのだろうか。目の前の空白が存在する限り、終わりが無いのか。一瞬だけ込み上げた束縛感と嫌悪感が、頭痛と共に忘れられていく。

「価値なんてあるわけがない」

 結局はそうだ。こんな人生に意味はなく、生きる価値なんてない。でもなぜかこの空白を埋めることが出来ない。ぽっかりと空いた穴は、埋められることを拒み、孤独でいることを望んでいるように感じた。虚無感の奥にある喪失感が手を伸ばし、心臓を掴んでくる。この苦しみだけが、薄れかけた感情を、生きているということを実感させている。救いを求めるように、目の前に転がる鉛筆の先端を指で弾く。

 ぎぃ……ぎぃ……。

 乾いた音を立てて回転する鉛筆は、ただ正面を、前を指して止まった。

 前とはなんだ、正面とは、後ろとは。

 これで何か変わるのか。

 いや、変わるわけがない

 溜息。

 鴉の声が遠くに聞こえ、重い腰を上げて教室を出る。勿論回答欄は空白のまま。

 ぎぃ……ぎぃ……。

 誰もいなくなった教室には、見棄てられた悲鳴だけが途切れることなく響き続けていた。


 沈みかけの太陽が冷たく空を照らす。時折、水気を帯びた柔らかな地面を踏みながら、一歩一歩駅へと向かっていた。僅かな弾力と、小石のような硬さが交互に足の裏から伝ってくる。滑りそうな足元を虚ろに見ながら歩いていると、道の隅に転がっていた西瓜程度の大きさの石に躓いて民家の塀へぶつかった。足元には潰れた白い花。

 脳が揺れる感覚のあと、激しい頭痛に襲われる。視界がぐるりと回り、遠くで鳴る鈴の音が聞こえていた。なんだよ……揺れる世界で幻覚が見える。

 そんな幻覚から目を逸らすように空を見上げた。残り僅かな赤い空へ、濃紺が侵食し始める。ねっとりとした感触の塀から体を離し、ゆっくりと歩き出す。一瞬感じた歪みはもう綺麗に拭い去られ、いつもの現実が帰ってくる。

 そう、いつもの身に覚えのない現実が。

 腐ったような悪臭に満ちた現実は、優しく体を包み込み背中を押してくる。濡れた掌を拭いながら、ただ駅を目指す。

『貴方に価値なんてあるの』

『生きていても幸せなんか無いよ』

 湧き上がる無数の言葉が、僕の手を引いて歩みを進ませる。優しく響く足音が微かな笑い声と共にぴったりと背中に張り付いていた。

 りぃん――。

 金属音。

 りん、りぃん――。

 信号が赤へ変わると、この世界のすべてが呼応するかのように静かに息を潜めた。耳の奥が痛くなるような静寂の向こう、遠くで陽炎の様に揺れる少女が一人。曖昧な視界の中で、はっきりとした輪郭を持って存在していた。そんな幻覚。妄想。


 駅まであと僅か。

 耳元で囁くような声を無視し続け、歩みを進める。人気のない道端に咲く白い花の花びらが何枚も、風で舞い上がって自由を謳歌し始めた。あの花びらはどこへ行くのだろうか。何も求めているのだろうか。苦しみのなかで藻掻く僕らは、身の丈に合わない幸せを求めても良いのだろうか。赦して、助けて、僕は……。

 花びらの先で、何本もの電柱が夕闇に並ぶ。

 電柱から伸びた紐がだらりと垂れ、力なく揺れる、ゆれる。

 紐が一本、ちぎれて落ちていった。そんな光景には大して気にならないほど、早く駅に行かなければという感情だけが心を支配している。足元に広がる泥や転がる石ころも、民家の壁に滲んだ染みも、何もかもどうでも良い。

 あぁ、心底どうでも良い。

 錆び付いた青白い歩道橋の上に立つ人影が、じっとりとこちらを見つめている。赤黒く汚れ、解れた足元のローファー。歪む口元。

『私に生きる価値なんて無い』

 誰かの声が風に乗って消えた。

 吐き出した息は、白く渦を巻く。罪と罰の螺旋の中で上げた叫びは誰にも届かず、贖罪の言葉は虚空へと溶けて消えた。

 無意味な言葉を綴って、上辺だけの言葉に縋って、無様に零れ落ちた虚構の優しさを啜って生きる。そんなものに意味はあるのか。

 誰かに必要とされない人間に価値なんてあるのか。

 逃げるように目を伏せて歩道橋の下を進む。

 ――ぐちゃ。湿度と粘度を持った鈍い音。

 あ……あぁ……。

 掠れるような声が徐々に遠ざかる。

『存在価値なんてあるの』

 誰か。

 誰か、赦しを……。


 虚ろに歩き辿りついた駅には、色褪せ亀裂の入ったプラスチック製のベンチだけが置かれている。改札も無ければ駅員もいない殺風景な無人駅。

 この場にいるのは僕一人だけ。冷たくなったベンチを横目に吸い寄せられるように、白線の手前まで歩みを進めていた。

 さぁぁ――。

 眼前に広がる黄金色のススキが揺れ、その合間合間に顔をのぞかせた案山子の落ち窪んだ眼窩が、僕を見つめながら地面へと縛り付けられていた。

 刺すような眼から逃れるように視線を逸らすと、近くで同じように佇む人影がくっきりと見える。ホームの際で立つ制服を着た少女は、ここからだと何を見ているのか分からない。

 風が吹く。

 耳を劈く様な音を立てながら列車が走り抜ける。頭痛と共に、視界の隅で揺れる長い髪はもう意識の外へ消えていた。

 縋る様に伸ばした指先は、走り去る列車には届かず力なく下ろす。白線を超えた足は、僕を未だにこの場所に縛り付け続けていた。


 どれだけこの場に佇んでいたのだろうか。小刻みに震える指先の感覚がなくなり、呼吸が荒くなっていた。鴉の声すらもう聞こえない。

 ふと思い出し横を見ると、少女の影が霞んで宵闇に消えていった。

『生きる価値なんて無い』

『貴方の存在は他人を不幸にする』

 ススキの間に疎らに置かれた案山子だけが、未だに僕を見つめていた。

 ――生きる意味を、価値をください。

『死にたくない?』

 鈴の音が聞こえる。

 腐臭に混じり、微かに金木犀の香りがした。

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