揺れる電柱

 『貴方に存在価値はありますか』

 目の前に突き付けられた問いに指が止まる。

 窓から差し込む揺れる夕日が、教室の古臭い机を摩るように照らしていた。メトロノームみたいに一定のリズムを刻む影を目で追いながら、僕はただ答えの無い答えを探す。いや、答えなんてもう決まっているはずだ。

「価値なんてあるわけがない」

 何度この答えに辿り着いては、現実から目を逸らしてきたのだろう。未だに解答欄は空白だ。次の問いも、そのまた次の問いも空白のまま。こんな言葉ひとつで悩み続ける中途半端さが嫌になり、机に転がる鉛筆の先端を指で弾いた。

 乾いた音を立てて回転する鉛筆のルーレットは、窓の反対側、明後日の方を向いて止まった。

 明後日。

 そうか、あそこが明後日のいる場所か。明日がどこにあるのかも分からないくせに、明後日の場所は分かるなんて変な話だ。鉛筆を持つ気にもならない。

 溜息。

 鴉の声が遠くに聞こえ、重い腰を上げて教室を出る。勿論回答欄は空白のまま。鉛筆は明後日の方を向いたままで。


 沈みかけの太陽が冷たく空を照らす。時折、水気を帯びた柔らかな地面を踏みながら、一歩一歩駅へと向かう。道端に今日も白い花が咲き誇り、僅かながら視界を明るく飾り付ける。

 そういえば数日前よりも花の本数が増えている気がする。

 気のせいじゃない。これが旬というやつなのかなと、ぼんやりと考えながら空を見上げた。青く、赤い空。その中間には紫は無く、濃紺だけが滲むように広がっていた。赤を侵食するような濃紺の影響か、自分の立つアスファルトの方が赤く見えた。どこまでも遠くへと続く、赤く、朱い路。

 再び視線を戻すと、どこからか香る匂いに意識が向く。

 馴染みのある匂い。

 思考がぐるぐると巡り巡って、答えを探す。さっきの「存在価値」の問いを考えている時間よりも必死になっている自分の姿が滑稽で、馬鹿々々しくて笑いがこみあげてきた。空気が漏れるような微かな笑い声が、顔の横まで侵食する夜の闇に吸い込まれていく。

『貴方に価値なんてあるの』

『生きている意味なんて無いよ』

 湧き上がる無数の言葉が、心の奥底を優しく撫でる。涙が出そうになるほど心地よく、どこか暖かい音色。

 りん――。

 金属音。

 りん、りん――。

 信号が赤へ変わると、この世界のすべてが呼応するかのように静かに息を潜めた。耳の奥が痛くなるような静寂。足元からじわり、じわりと熱がこみあげ目の奥が焼けるように熱くなる。そんな幻覚。妄想。


 駅までもう少し。

 囁くような声を無視し続け、歩みを進める。人気のない道端に咲く白い花の花びらが一枚、風で舞い上がって自由を謳歌し始めた。あの花びらはどこへ行くのだろうか。どこまで行けるのだろうか。生に縛り付けられている僕らは、いつになれば自由になれるのか。どうして、どうして、僕は……。

 花びらの先で、何本もの電柱が夕闇に並ぶ。

 電柱から伸びた紐がゆっくりと揺れる、ゆれる。優しく揺れる。

 不思議な光景だが、正直そんなものはどうでも良く、早く駅に行きたいという感情だけが徐々に心を支配し始めていた。足元に転がる石ころも、民家の壁に滲んだ染みも、何もかもどうでも良い。

 あぁ、心底どうでも良い。

 錆び付いた青白い歩道橋の上に立つ人影が、じっとりとこちらを見つめているが、それは些細なことで僕には関係ない。

『貴方に生きる価値なんてあるの』

 吐き出した息は、白く渦を巻く。その中心で囚われているのは、生か死か。

 僕もそんな渦の中に囚われ、虚ろに彷徨っているだけなのかもしれない。命を啜って、命に縋って、惨めに明日を待つだけの毎日。そんなものに意味はあるのか。

 誰かを幸せにできない人間に価値なんてあるのか。

『生きる価値なんてあるの』

 誰か。

 誰か、救いを……。


 動悸を抑えながら辿りついた駅には、色褪せ亀裂の入ったプラスチック製のベンチだけが置かれている。改札も無ければ駅員もいない殺風景な無人駅。

 この場にいるのは僕一人だけだ。あたりを見回しつつ、ベンチに腰を下ろす。

 きぃ。小動物の悲鳴のような音を立てて軋むベンチ。

 ススキが広がる黄金色の大地を横切る一本の線路。途切れることの無いその線路は、終わることなく延々と続いているようにも見える。

 風が吹く。

 揺れる黄金を巻き込みながら列車が走り抜けた。

 無意識に足が動き、縋る様に伸ばした指先は、走り去る列車には届かず力なく下ろす。白線の手前で止まった足は、僕を未だにこの場所に縛り付け続けていた。


 どれだけこの場に佇んでいたのだろうか。小刻みに震える指先の感覚がなくなり始めていた。鴉の声すらもう聞こえない。

 ふと横を見ると、遠くで同じように駅に佇む人影が霞んで消える。白線から一歩踏み出していたが、別にどうでも良いことだ。

 そんなことを考えていると、ふと視線を感じて前を向く。しかしそこには誰もいない。ススキの間に疎らに置かれた案山子だけが、僕を見つめていた。

『死にたくない?』

 鈴の音が聞こえる。

 微かに金木犀の香りがした。

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