episode9 第90話

 水平線の向こうに朝陽が顔を出し、俺は目を細めた。

 足元の影がゆっくりと伸びていく。

 青くさい生命の香りが匂い立つ。草木についた朝露が朝日を浴びて輝く。ヒマワリの花が静かに顔を上げる。

 いつからそこにいたのか、整列したヒマワリたちの列に富田が立っていた。

「その女の子は、笑って、いましたか?」

 一歩前に踏み出し、逆光を背にした富田がクルミへ問いかけた。

 戸惑うクルミ。

 これはクルミでなくても戸惑ってしまう。もしかすると、この旅で富田がクルミに話しかけるのは初めてじゃないだろうか。

「その女の子は、笑って、いましたか?」

 面食らっているクルミに、もう一度同じ質問をする富田。

「はい。幸せそうに」

「そうですか……」

 眉を3時45分にした富田が口の端を上げる。

「二人は無事会えていたんですね」

 逆光を受け、目の端の雫がキラリと光る。

「私はずっと自分に問いかけていました。何度も、何度も。だけど、答えは出ませんでした。いえ。出せなくて当然だったのでしょう」

 大きく息を吐き出し、富田はクルミへと歩み寄る。

「私は既に答えを、『知って』いる、のに」

 一歩。

「ずっと『知って』いた、のに」

 二歩。

「それを解答用紙に記入することが怖かった。もう二度とあの子に会えなくなるような気がして、あの子の死を認めてしまうようで」

 三歩。

「私に勇気がなかったばかりに、ずっといらぬ想いを抱かせてしまいました」

 クルミが富田を見上げる。

「私は父親失格ですね」

 ビクッとクルミの肩が跳ねた。

 富田は震える肩に手を置き、

「今まで聞いたことなかったけど、お母さんに、会いたい?」

 クルミは口を紡ぎ、身じろぎひとつしなかった。

 その代わりに富田が口を開く。

「私は会いたいなぁ~。すごく」

 その言葉に同意するようにクルミは富田のシャツの裾を握り締めた。

「私も……。会いたい……」

 富田はわずかにうなずき、

「そうか……。私たちはずっと同じ想いを抱いて、過ごしてきたんだね……。なら、一緒に暮らしても、いい、のかもしれませんね」

 優し気に微笑んだ。

「けれど、私は壊れてしまっています。一緒にいたら、傷つけてしまうかもしれません」

 複雑そうな表情を浮かべるクルミに、富田はかぶりを振った。

「そんなことはありません。それに、壊れているのは私の方です」

「え…………?」

 クルミの瞳が大きく見開かれる。

「ずっと一人でいたことで、私は寂しさに晒され続け、すっかり心がさび付いてしまっていた。自分が寂しいことにも気付けなかった。だから、話そう……。今までのこと。そして、これから起きる沢山の未来(こと)を」

 そう言うと、富田は手を差し伸べ、

「一緒に帰ろう……。我が家に……」

 クルミはその手をジッと見つめる。

「本当にいいんですか? 私は久留未さんにはなれないんですよ?」

「そう、君は久留未にはなれない。あなたは久留未とは違います。そんなことは最初から分かっていたんです。だけど、似ているからこそ思い出してしまう。私の心が弱いから、久留未と重ね合わせてしまった。二人は、ただ、似ていただけなんです。それがはっきりと分かりました。だから、もう間違えません」

「どうして、そう言い切れるんですか?」

「言い切れるさ。私は君のお父さん、なんだから」

 富田は真剣な眼差しでクルミを見つめた。

「そして、君はトワ、なのだから」

「私が、トワ?」

 クルミだけでなく、富田以外の全員が首を傾げる。

「お母さんは、どんな時も未来を描くことを止めなかったんだ」

 小さな子供に語り掛けるように、富田は優しく語り始めた。

「たとえ、明日が悲しいものだとしても、いつか来る未来に希望を見出していました。床に伏すことが多くなっても、『明日何をしよう。明後日何をしよう』といつもそんな風に話してくれました。お父さんはいつも聞いてばかりだったんだけど、いつだったかお母さんはこんなことを言いました。『もしも久留未ちゃんに弟か妹が生まれたら、どんな名前がいいかしら?』と」

 きちんと姿勢を正し、「その時、二人で考えたものが――」と富田は続ける。

「トワ――。未来がどうなろうとも、永遠に愛し抜くと誓った、両親(わたしたち)から、最初に贈るプレゼント――君の名前だよ」

「トワ……?」

 消え入るような呟き声。

「私は、トワ……」

 再び、噛みしめるようにクルミが――、いや、トワがその名を口にする。

「受け取って、くれるかな?」

 照れくさそうに言うと、富田は不器用に笑って見せた。

「はい……」

 震える手で、富田の手を取るトワ。

「ありがとう、お母さん……。ありがとう……。お父さん」

 二つの影が重なるその瞬間、俺は寄り添う親子の姿を目にした。



 俺には、浦島太郎の物語がハッピーエンドかどうかは分からない。そして、目の前の二人の物語も……。

 大変なのはむしろこれからなのだと思う。神の創りたもうた命ではない、本来ここにいるはずではないトワ。一泊二日の旅行とは比べ物にならないほど困難な道のりを歩むことになるだろう。

「けど、これで良かったんだよな……」

 誰に聞かせるでもなく口をついて出た問いかけ。

 当然答えは返ってこなかった。

 ただ、生命の起源、生命のスープとも言われる海からウミガメが顔を出した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る