episode9 第89話
「はい。川、でした。サラサラと穏やかに流れている、上流も下流も果ての見えない、『川』が私の前に立ちはだかったのです。
近づき、私は川面に自分の顔を映してみました。自分でも不思議なのですが、その顔はなぜか見覚えがないものでした。けれど、どこか見慣れたものでした。だから、私はその顔としばらく、にらめっこをしました。
やがてそれにも飽き、顔を上げたた私は、薄い靄の中、川向こうに人影があるのに気が付きました。私は人影に向かって叫びました。と、その人がこちらへ振り返りました。私はその顔を見て驚きました」
思い出し笑いでもするように、クルミは自然と笑みを浮かべた。
「だって、私が私を見つめていたのですから。川向こうには私が立っていたんです。
何もない世界で、ようやく自分の手がかりを見つけたのです。思わず、川に足を踏み入れていました。けれどもう一人の私は悲しそうに顔を伏せました。その瞬間、私の体は金縛りにあったように動かなくなりました。
見ると、川向こうの私は背を向けて歩き出します。だから、私は必死で叫びました。
『待って下さい! 私も一緒に連れて行ってください! 私は、あなたなんです。だから、ずっと一緒にいさせてください』
そう懇願する私に、向こう岸の私は、背を向けたままかぶりを振って拒絶を示し、
『私はあなたじゃない。あなたも私じゃありません。だから、一緒には行けないんです』
そして、『ここはあなたがいるべき場所じゃないよ』って、『どこに行くかは自分で決めればいい。あなたはあなたの行きたい場所に――あなたを想ってくれる人の場所に帰って下さい』と言われました。
けど、私には何も分からなくて、そこから一歩も動けなくて、悲しくて、寂しくて……」
クルミの表情に暗い影が落ち始める。寒いのか、震える両手で自身を抱き締めていた。
「頬を涙が伝い、川面に波紋が広がりました。だけど、すぐにそれは川の流れにかき消されました。
冷たい川の水は体温を容赦なく奪い、留まることもなく、膝小僧を通り過ぎていました。
思えば、私には行きたい場所なんてなかった。いつも、流されて……。誰かが囁く声に耳を傾けてばかりで……。
私に、意思なんて最初からなかった。
最初からいなかった私、誰の心にも残ることのない自分。もう一人の自分にも拒絶され、一人きりなんだと思ったら、胸がとても痛みました。
胸が、痛くて、押しつぶれそうなほどに辛くて……」
クルミはシャツの胸を握り締める。
「私は痛む胸に触れました。けれども胸には傷なんてどこにもなくて、その代わりに、なぜかそれがあったんです」
「それ?」
「絆創膏、だな」
今まで黙って話を聞いていたナナコがクルミの代わりに答えた。
「はい。絆創膏、でした。自分で貼った記憶はなかったので、誰かが私のために、貼ってくれたはずなのに、それが誰だか分からないのです。
だけど、確かにいたのです、私を想い、傷を覆い隠してくれた人が……。いたんです……。それが思い出せず、再び頬に涙が伝いました。こぼれ落ち、再び水面に波紋が出来ました。
波紋は川の流れにかき消されることなく留まり続け、大きな円を描きました。
ポタリ、ポタリ。流れては落ちていく雫。
次々に広がっていく波紋の中に、私はいつか見た景色を見つけました。
電車から見た風景、綺麗なお月さま、味のある旅館の天井、真っすぐに続く田舎道、神社、ヒマワリ畑……。
憶えていないのに、その光景は、私の胸を熱く焦がし、涙がこぼれて止まりませんでした。
波紋に呼応するように、『トクン――。トクン――』と胸に鼓動が戻るのを感じました。
私は浜辺に立っているように錯覚しました。冷たかった川の水はいつしか温かく、膝小僧で寄せては返す波になり、目を閉じると、遠くで潮騒が聞こえました」
大きく息を吸うクルミ。
「鼻孔をくすぐる潮の匂い。ジリジリと照り付け肌を焦がす陽の光。風に吹かれゴワゴワにきしむ髪の毛。その全てが私の……。私だけの大切な思い出でした」
嬉しそうに吐息を吐き出す。
「私は、『海に行きたい』。そう口にしていました。すると、『正解……』。そんな声が聞こえました。
目を開けると、海は消え、再び私は川に膝まで浸かっていました。川向こうにはもう一人の私。
もう一人の私は振り返るとニッコリと笑い、『海か~、いいなぁ~』と柔らかく穏やかな声を上げました。私は、彼女にも海での楽しい思い出があるのだろうと感じました。私の知らない、彼女だけの大切な思い出が……」
目を細め俺やナナコの姿を見つめるクルミ。
「私は、私の『いきたい』場所に、会いたい人の元に帰ることに決めました。
私が手を振ると、彼女も手を振り返してくれました。だから二人で手を振り合いました。しばらくそうしていると、彼女の隣に、顔は見えませんでしたが髪の長い女性が立っていました。お二人は顔を見合わせると、互いに手を取り川向こうへ歩いて行きました。二人の背中を見送っている間、なぜか私は寂しいと感じていました。
けれど私は決めたのです。私は私の道を生きるのだと」
クルミは憂いに帯びた瞳で水平線の先を見つめ、「二人が靄の向こうに消えたと思ったら、私はヒマワリ畑で横になっていました」と話を締めくくった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます