episode9 第69話

 荷物をまとめて俺たちは座古田と対峙していた。俺と富田を先頭に、後方にはナナコとクルミが控えている。

「お別れはもう終わりましたか?」

 ご満悦の表情を浮かべ座古田がほくそ笑む。

「時間です。さあ、行きましょうか?」

 声をかけられた富田は微動だにしない。

 無言の富田の態度がその意思を雄弁に語ったのか、座古田の顔が真剣なものに変わっていく。

「ここに来て心変わりをすると言うのですか? これだから、人間は……」

 富田は一歩前に踏み出した。

「申し訳ございませんが、期待には沿うことは出来ません。今一度、しばし、お時間を頂けないでしょうか……」

 はああ~と大きくため息を吐き出す座古田。

「富田教授。あなたがこここまで頑固だとは思いませんでしたよ。こちらには怪我人も出た。貴重な時間も散々使わされた。さっきも言いましたが、もうスマートに交渉なんて出来ませんよ」

「先に手を出したのはそっちじゃないか?」

 思わず割って入った俺を無視して座古田は続ける。

「だが、我々は寛大だ。あなたのこれまでの成果も高く評価しています。だから、あえて、もう一度だけお聞きしましょう」

 芝居じみた台詞と共に、手を差し伸べる。

「研究所に戻ってきませんか?」

 その問いかけに、富田は目を瞑り黙りこくった。

「何が不満なんです。あんなに精力的に研究に尽力してくれていたのに、教授自身も充実しているように見えました。待遇が嫌になったのですか? ならもっと改善しますし、上のポストだって用意させます」

 変わらず無言を貫く富田に、座古田は不敵な笑みを投げかけた。

「我々は知っているんですよ。その被検体の秘密を」

 秘密? 何のことだ?

「海や神社での被検体の動き。あれは通常の人間のものではなかった。それで本部に問い合わせて分かったんです。娘さんの他に別の人格が存在していると。それ故、人間離れした動作が可能だったのです」

 そうだったのか。娘さん――人間の意識しか持っていなければ、ボディがいかに高性能であっても、運動能力もそれなりに落ち着くというわけか。

「そして、今、そのガラクタが自我を崩壊させていることも分かっていますよ。もはや、いつ動作停止してもおかしくはないはずです」

 確かに今は落ち着いてはいるが、さっきの動揺ぶりからすればその話を頭から否定することは出来ない。

「なのに、そんな失敗作を抱えたままでいいんですか? まだ本物が手に入るというのに」

「どういう、こと、です?」

 押し黙っていた富田が顔を上げる。

「研究所には抽出したままの記憶データが保存されています。私の手を取れば再びやり直すことが出来るんですよ」

「やり――直せる?」

「そうです。富田教授は今の自分の姿を見たことがありますか? ひどいものですよ。かつてのパリッとした白衣に身を包んだ姿とは程遠い」

 座古田は仰々しく手を動かし、その場で左右を行ったり来たりする。

「では、その原因は何か? あなたは、娘の復元に失敗してしまった……。それに尽きる。そうでしょ? だから、今、そんなに辛い想いをしているんです。不幸な境遇に置かれているのです」

「そうか……。私は、不幸、だったんですね……」

 虚ろな富田の呟き声に、座古田は大きくうなずく。

「だけど、やり直せる。取り戻せるんです! しかも、一度だけじゃない。理想の娘さんを取り戻すまで、何度だってやり直せるんだぞ!」

 意図したのか、座古田の語気が強くなる。まるで胡散臭いネット広告や深夜のテレビっショッピングのような説明台詞。

 しかし、これはまずいぞ……。富田の願いは、まさにそれだったんじゃないのか? はたから聞いている限りは説得力皆無の話しも、その当事者からすれば藁にも縋る、天使の囁きに聞こえる。

「ならば、あの子はどうなるんです?」

 富田は振り返り、背後のクルミを示してみせる。

「そんなものは回収し、データを初期化するに決まっています。ボディ自体はそれなりに高価ですから、メンテナンス後、オリジナルのデータを入れ直しますから、あなたは再度娘の作成をすればいい」

 座古田に背中を向けたまま、富田の肩がワナワナと震える。

「また、私は失うのか……。私の人生は誰かを犠牲にしなければいけないのか……」

 隣にいる俺にだけ、その言葉が微かに聞こえた。

 富田の眉が、10時10分になり、それから、ゆっくりと9時15分になる。

「座古田主任。ありがとうございました」

 再び座古田の方に向き直ると、深々と頭を下げる。

「あなたは、配属当初からよくしてくれました。施設も、スタッフも、待遇も、自分には申し分ないものでした」

「そうでしょう。また、これからもよろしくお願いしますよ」

 だが、差し出される手を、富田が取ることはなかった。

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