episode9 第68話

 だが、その一方でこの場にただ一人顔を強張らせた人がいた。

 ナナコがクルミに、「良かったな」と耳打ちする。

「本当に良かったんでしょうか? どんなに時が過ぎようとも私は変われません。富田さんの望む存在にはなれません……」

「どうしてそんな風に思うんだ?」

「私は造られた機械です。私には私がありません。私は最初から存在していないんです」

「クルミが、いない? 馬鹿なこと言うな。わたしはここにいるぞ」

 訳の分からないことを口にするナナコ。クルミは自分が存在していないと言ったのに、何を勘違いしたのやら……。

 と、ナナコは胸を張り、正々堂々とクルミの胸に人差し指を突き立てた。

「海でわたしを助けてくれたのはお前だ。お前がいるから、わたしも今ここにいるんだ」

「それは違います。私は私の中の何かが囁く声に従っただけなんです。そこに自分の意思なんてありませんでした」

 目をうつむかせると、クルミは胸に押し込まれたナナコの手を下から添えるように取る。

「囁き声……か。それなら、わたしだってそうだ」

 そう言うと、ナナコは繋がれた手と手に視線を落とした。

「わたしはいつだって、自分の中の楽しいことに従い、嫌なことはしない。それが感情なのかなんなのか? わたしは、わたしの中にある何かに突き動かされている。友や愛する者を喜ばせたくて行動する。これは誰かの意思なのだろうか?」

 ナナコが顔を上げると、クルミはその目を見るように顔を起こした。

「話したと思うが、わたしはクローン――デザイナーズチャイルドだ。オリジナルが存在しているわたしは、本当の意味ではわたしではないのだ。だから、わたしを突き動かしている何かは、オリジナルの魂が語り掛けたもの……。今この胸にある感情も、お前が言うように誰か(オリジナル)のものなのかもしれない」

 今度は自らの胸にクルミの手のひらを押し付ける。

「お前に、この胸にあるものが見えないように、わたしにも見えない。存在しているのかも疑わしい代物だ」

「そんなこと……」

「だが、わたしはそれでも構わないと思う……。もしも、わたしの中に誰かがいて、わたしがその人の意思に従う操り人形だとしても、発した行為により誰かが喜んでくれるなら。その笑顔を、わたしに向けてくれるのなら……。それだけは、他の誰でもない、間違いなくわたし自身のものなのだからな」

 がっしりと指と指を交差させて、いわゆる恋人繋ぎをする。

「その行為に嘘はない。本物だ。だから、わたしを助けてくれたのは、お前だ。わたしの知らない久留未ではない。わたしが掴んだのはこの手なんだ。ひんやりと温かいこの手しか知らない……。わたしにとってのクルミはお前だけなんだ!」

 ナナコが握る力を強める。

「私、は……」

 同時に、クルミの指にも徐々に力が込められていく。

「わたしは今ここにいる。そして、お前もここにいる。確かな繋がりを感じる」

 その言葉に、クルミはとっさに繋いでいた手を離す。

「なぜだ? 自分を認めることが、本当の自分を知ることが怖いのか? 共に過ごした時間は短いが、わたしはお前を知っている。電車から見た海、一緒に走った砂浜、背中を洗い合った大浴場、並んで歩いた田舎道、二人で買ったおみくじ。全部、わたしにとっては楽しい時間だった。この旅行はわたしにとってはただの記録ではない。クルミとの、かけがえのない思い出だ」

 そう言うとナナコは、懐かしい友人にでも偶然出くわしたような穏やかな笑顔を向けた。

「生きていることはとても難しいことだとわたしも思う……。消えないでいることに精一杯だった時もある。だが、わたしもお前も、ここにいることに必ず意味があるはずだ。少なくとも、自分を知っていてくれる人がいる限り、わたしは生きていられる。だから、わたしはクルミのことをもっと知りたいと思っている」

 その小さな体で全てを受けいれてみせると、ナナコは両手を広げた。

「さあ、もっとお前を感じさせてくれ。教えてくれ。その存在をわたしに刻み込んでくれ」

 ナナコの曇りのない瞳に、クルミは一歩、二歩、後ずさる。

「違います。私は……」

 イヤイヤをするように頭を振り、

「こんなこと、望んでいません……」

 クルミはその場に力なくひざまずく。だらりと両手が垂れ下がっている。

 手を広げたまま無言で歩み寄るナナコを見上げるクルミ。

「望んでいない、のに……」

 クルミの上半身が傾き、

「どうして、私は……」

 ナナコの胸におでこがくっつく。

「つかまえた……」

 体を預けるクルミをナナコは優しく包み込んだ。

「間違いない。お前はわたしが知ってるクルミだ。これまでも、そして、これからもな……」

 震える両手でクルミがナナコを抱き締め返す。その瞬間、

「――――っ!」

 声にならない叫びが小さな胸に響く。

 その光景を見ていた富田の表情が真剣なものに変わる。

「これは……。あの姿は――!」

 唐突に手を握られる。

「私は幻でも見ているんでしょうか?」

 富田の目に何が映っているのか分からなかったが、俺はそれを否定することはしなかった。



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