episode8 第24話

「そうよ。私は別れも告げずに、あの子の前から突然いなくなってしまった。だから、きっと傷つけてしまった。そんな人間がどんな顔して会いにいけばいいの……」

「けど、それは君のせいじゃないだろ」

 夢をもった人には真夜花の存在を認識できない。そのせいで二人は引き離された。

「あの子にしてみればそんな事情は知る由もないことなのよ。だから、今さら会いに行ったとしてもきっと……。受け入れてもらえなかったら、拒絶されてしまったら、そう考えただけで……」

 俺の胸に全体重がかけられる。

「忘れる、はずがない。忘れられる……はずがない。あの子は私の生きがいだった。それを失ってこれからどうやって生きていけばいいのか分からなくなった……。だけど、私はいつも期待していた。毎朝目が覚めて私の姿を見つけてくれるのを。微笑みかけてくれるのを、ずっと……」

 重く、胸の奥に突き刺さる想い。

 震えていた。

 ブルブル――。ブルブル――。

 俺も震えていたような気がする。

 たったひとり、叶わぬ願いをずっと抱いて、真摯に向かい続けたんだろう。願い裏切られ、ここまできてしまったのだろう。だとすると、そんなものは悪夢としか言いようがない。

 抱きしめる腕に自然と力が入る。と――。

 ブブブブ――。

 盛大に震えた。

 ブブブブ――。

 機械的で正確な振動。

「すまない」

 一言断ってから、スカートのポケットで震えていた携帯を取り出す。

「ナナコか。どうした?」

『ああ……。実は、由愛から――連絡があって――』

「?」

 ナナコの声が途切れ途切れになる。どうにも電波が悪いようだ。

『由愛が――、だから、早く――』

「由愛が、どうしたんだ。もしもし、もしもし!」

 何度も応答するが、雑音に紛れてナナコが何を言っているのかうまく聞き取ることが出来ない。そうこうしている内に、唐突に通話が終了してしまった。

 と、俺はシャツの端が引っ張られているのに気付く。

「どう……したの……?」

 控え目な声色。上目遣いの弱々しい瞳がこちらに向けられている。

「分からない……。けど、由愛が、どうしたとか、何かあったとか」

「え……」

 瞬間、何かが弾けたように大きく目が見開かれる。

「由愛がどうしたの! あの子に何かあったの!」

 必死な形相をした真夜花が掴みかかってくる。万力のような力でもって俺の腕を締めあげて離さない。

「っ――」

 思わず漏れた声に、真夜花はハッとして力を抜いた。

「ごめん……なさい……」

「いやいや、このくらい問題ないよ。全然大丈夫だ」

 フンと、力こぶを作って見せる。が、当の真夜花が取り乱したままで、こちらを見ていない。

「まさか、事故? 急病? どうしよう……。早く、あの子の所へ……」

 顔面蒼白で教室の出入り口へ向かい、足をからめてこけた。

 真夜花にかけよった所で、また携帯が震える。着信はナナコからで、今度は電波の調子がいいのか、手短に用件を伝えると通話を終了させた。

 真夜花へと手を差し伸べる。が、さっきまで一刻も早くここを出て行こうとしていたのに、真夜花はそれを無視した。なぜかと思って見ると、足の先端に向けて薄く透明になっている。そりゃ、こけて当然だな。それにしても、どうやら本当に時間がないようだ。

「由愛なら大丈夫だ。ちょっと俺の連絡が遅いんで、由愛からナナコの方に問い合わせがあっただけみたいだ。だから、心配ないよ」

 その言葉に、真夜花はお尻を床につけたままホッと胸をなで下ろした。

「これではっきりしたよな。自分の本当にやりたいことが……」

「ええ……。ようやく思い出しました」

 薄い笑み。

「だけど、もう間に合わないわ」

 手のひらを広げると、真夜花は半透明になった指先を見つめる。

「自業自得ね。あの日、私があの子にきちんとさよなら出来ていれば、きっとこんなことにはなっていないはずだった」

「あの日?」

 真夜花は、消えつつある手のひらに視線を落したまま語り始めた。

「そう……。あの日は、あの子がずっと目標としていた全国小学生統一テストの結果発表日だった。だから前から、その成績が良かったらお祝いしようって約束していたの。ご馳走や甘いお菓子をいっぱい用意して、頑張ったねって、ささやかだけど今まで頑張ってきたお祝いをしようって」

 真夜花の指先がビクンと震える。

「だけど、私には出来なかった。多分、自分でもその時には気付いていたんだと思う。私があの子に教えることは何もないんだと。これで自分の役目は終わってしまうんだと。だから、私は願ってしまった。もう少し、あと少しだけって……。そして、嘘をついた。『今日は用事があってお祝いが出来ないから、また明日ねって』あの子は、疑いもせずに、『うん』って言って、指切りをしたのよ」

 ――そして、その次の日からあの子には私が見えなくなっていた。

 そんな言葉が俺の耳に響いた。

「あの子は消えた私を探していた。クラスの子たち、近所の人に、いないはずの人間のことを聞いてまわっていたわ。私も叫んだわ。私はここだと、ここにいる。あなたのすぐ側にいるんだと、何度も、何度も叫んだのよ。だけど、その想いは届くことはなかった。そして、ひと月、ふた月、半年経った頃には、あの子は私のことなんて口にすることもなくなっていた。ただ、自分の勉強に没頭し、周りの人に気を使ういい子になっていたわ」

「そうか……」

「あなたの言った通りです。子供は勝手に育っていくものね。お祝いの日、一緒にお菓子も作ろうと思っていたのに、あの子は自分の力だけできちんと作れていたわ。私が想像していた以上にね」

 首をかしげると、真夜花は説明を付け加えた。

「いつだったか、あなたが見せてくれたクッキーのレシピ。あれは麻耶が由愛のために遺したものなんです」

 あの調理実習の時のやつか。

「そして、それこそが麻耶が由愛に一番残したかったものだったんです。自分の研究を引き継がせることなんて、本当はそんなに大切なものじゃなかったのよ。今ならそれが理解出来るわ」

「え……」

「麻耶が残した一枚のメモ。研究や実験漬けで、料理なんてほとんどやったはずなかったのに……。難しいレポートの間に大切に挟まれた願い……。麻耶が由愛に一番残したかったもの……」

 今さら、そんなことに気付くなんてと、真夜花は後悔の念と共に吐き出す。

「ただ幸せな時間を我が子に過ごして欲しい。両親の研究を引き継がせることなんかじゃない。それこそが、私が成すべきこと。託された想いだったんです。でも、私はその親子の想いを裏切ってしまった。悪いのは私だったんだ。だからこれは罰なんです。永遠にたどり着くことのないゴールを追い求める呪い」

 色を失っていく手足。刻一刻と終焉は近づいていた。別れはもう止めようがない。だけど、その結末を変えることくらいは俺にだって出来る。

「真夜花は悪くない……。誰も悪くない」

 俺はそれを隠すように、指をからめ取る。

「だから、消えたりなんてしない。俺は真夜花のことを見ている。まだ、きっと間に合う……。過去は過去だ。今は目の前にあるものだけを見るんだ。自分の中にある想いを信じればいい」

 真っ直ぐに目を見ると、真夜花も俺を見つめ返してきた。つぶらな瞳の中に俺の姿が見える。

「私は……。私は……」

 揺らぐ視界。

「焦る必要はないさ。ゆっくり思い出せばいい」

「私は、ずっと約束が叶う日を夢みていた。夢を分けて貰いながら、また会える日を待っていた。今日は、明日は……。そう思っていたけど願いが叶う日は来なかった。私の願いだけじゃない、今まで吸った沢山の人の願いも叶いはしなかった……。そしていつかこう思うようになっていたのね……。『夢は叶わないって――』」

「でも君は知っているはずだ。その叶わないはずの夢とひた向きに向き合い続ける人がいることを。すぐに夢は叶わないと。何年経っても、何十年かけても叶えようと頑張っている子を知っているだろ?」

「そう。私は知っていた。ただ私がそれを認めようとしなかっただけ。悪いのは由愛でも麻耶でもない。間違っていたのは、臆病だったのは私自身……。結末を先延ばししていたのは私の弱い心……。良かった……。夢は叶わないものなんかじゃないんだ」

 頑なだった心がゆっくりと溶けていくのを感じる。

「悪夢はここで終わらせよう。過去の亡霊は今ここに置いていけばいい。今から真夜花が目にするのは未来の自分自身だ。どう終えるとか、消えるとか考えるよりも、まずはどう生きるかを考えよう……」

 俺が微笑むと、真夜花も微笑み返してくれた。

「真夜花は何がしたい?」

「私は、もっと一緒にいたかった……。あの日の約束を果たしたい。夢は叶うんだと由愛に伝えたい」

「うん」と俺は大きくうなずいた。

「大丈夫だ。きっとその願いは叶えられる。俺がずっと見ているから。君が夢を叶えるまで――、最後の最後まで付き合うぜ。だから、叶えろよ。自分自身の夢をさ」



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