episode8 第23話
真夜花は手のひらに乗る真っ白い握り飯を不思議そうに見つめている。
静まり返った教室は普段の喧騒を忘れさせ、どこか神秘的なおもむきを感じさせる。体育担当の俺は、基本的に外での実技が主なので、教室での授業は数えるほどしか経験していない。
もうここで授業することもないだろう。今回の任務は、真夜花の正体が分かったことで終わりを迎えようとしている。つまり、俺がこの学園に来るのも、これで最後になるかもしれないということだ。
整列した机の間を一回りして、ひとり教壇に立つ。
短い期間だったが、思えば色んなことがあったような気がする。恐らくそれらは、この先二度と経験しうることのない貴重なものばかりだった。
古びた伝統ある教室。その歴史を物語るように、綺麗に並んでいる机の表面は細かな傷が散見する。
「俺は、ここから見える景色が好きだ」
教卓のへりを掴んで教室内を一望する。
「ここには沢山の夢の蕾が溢れている」
40名も入れば、いっぱいになる教室。深呼吸をすると、どこか懐かしい、胸をすく想いが湧き上がる。
「最初は乗り気じゃなかった。事件の調査のためだと自分を納得させて、姿を偽り教師の真似事もやった。でも、ここで生徒たちに授業をしている内に、俺は自分が本物の教師にでもなったような気がしたんだ」
目を閉じれば、椅子に座って授業を受けている生徒たちの姿がイメージ出来る。
「先生の話に聞き入っている生徒、一生懸命板書を書き写している生徒、不安そうにノートに視線を落としている生徒。色んな生徒がいた。だけど、どんな子たちもみんな前を向いていた。同じものを見ていた……。最初は何か分からなかったけど、ここの生徒たちと共に過ごすことでそれが何なのか分かったんだ」
今まで黙っていた真夜花が顔を上げる。
「それが、夢――だったんだ」
教壇を降りて上着を脱ぐと、俺は机にうつ伏せで寝ている彩音にかけてやる。
それから、真っ直ぐに真夜花へと向き直った。
「この子たちは夢に向かって頑張っている。だけど、真夜花が見える俺には自分の夢が分からない。つまりは俺自身が分からないってことなんだよ。そういう意味では俺たちは似ているのかもしれないな」
真夜花は複雑そうな表情を浮かべた。
皮肉なものだ。俺たちは自分の夢を知らなかったからこうして出逢うことが出来たんだ。
「いや、みんなそうなのかもな。自分自身のことを真に理解している人なんて、ほとんどいないんじゃないかな? スポーツが好きな子、本が好きな子、歌が好きな子。好きなものは千差万別だ。昨日好きだと思えたものも、今日や明日はそうじゃないのかもしれない。そうやって、長い時間をかけて、もがいて、あがいて、あがきまくって自分の好きなことを……。本当の自分を見つけるのかもしれない」
手に持っていたおむすびの米粒が輝く。一粒一粒が寄り集まって出来たおむすび。それらがキラキラと輝いている。
俺はラップをはぎ取って三角おむすびの山頂を一口かじる。冷めてはいるがほんのり塩味が全身に沁みいるように広がる。しょっぱい、まさに青春の味ってやつだ。
こんなことを考えるなんて、俺自身も変わっていっているのかもしれないな。
「ホント、凄いよ子供ってやつは……。黙っていたって、一人でどんどん変わっていく。成長していく……」
ふう~と胸に溜まっていたものを吐き出す。
「俺もさ、いつも心配で、妹みたいな存在がいるんだけど、どうやらそんな必要はなかったみたいだ。勝手に大きくなっていく」
ナナコが握ったおむすびをもう一口食べる。
「うん。やっぱり美味い」
何の変哲もない白米に、ほんの少しのお塩をまぶして握っただけの、料理なんて言えない代物。でも、それがなぜかおいしく感じる。
「これもさ、その子が作ってくれたんだ。俺のためにってね」
「あなたのために、作った?」
おむすびに視線を落としたままの真夜花。その表情が悲しげに映る。
「手作りだ。まあ、真夜花の口に合うかどうかは分からないけど、俺にとっては好物で、数少ない好きなものってやつだ」
そう言って、「だから、食べた食べた」と真夜花を促すと、おむすびを突き返された。
「なら、あなたが全部食べるべきよ」
俺はかぶりを振ってそれを否定する。
「その逆だよ。好きだからこそ分かち合いたい。大切なものだからこそ知って欲しい」
突き出されたおむすびのラップを丁寧に外して再び促す。
「俺が何者かは真夜花自身の目で見て判断すればいいさ。俺が何を好きなのか、嫌いなのか……」
「別にあなたのことなんて知りたくないわ」
「そうだな、俺なんかのことはどうだっていい……。何より君は自分自身をもっと知るべきだ。何が悲しくて涙したのか、本当にやりたいことは何なのか? そして、何を愛しているのかをね」
「これを食べれば、それが分かるとでも言うの? 馬鹿げてるわ」
「まっ、そこまでは分からないけど、少なくとも、見ていたってどうにもならないのは確かだぜ」
肩をすくめる俺に、観念したのか真夜花は控え目におむすびの端をかじる。
「どう……だ?」
かすかに動いていた頬が停止するのを見計らって、味の感想を訊ねた。
「分からないわ」
無味乾燥な返答。
「そうか。それは当てが外れたな」
しかし、そんなのは最初から織り込み済みだ。そう簡単に落とせるとは思っていない。
「だけど、食べたな」
俺はニヤリと笑う。
米粒の塊でも飲み込んだのか、真夜花は引き気味に口元を手で覆うと、目を丸くした。
「大丈夫だ。別に変なものは入ってないさ。ただ、そいつを食べたからには、ほんの少しくらい見返りを要求したっていいんじゃないか?」
一歩後ずさる真夜花に、にじり寄る。おむすびを机の上に置いて、こちらの様子をうかがっている。
「一体、何をする気?」
「なーに。簡単なことさ……」
口の端を上げたまま、つま先から真夜花を舐めるように見つめ、
「もう一度、聞かせて欲しいだけだ……。君の本当の夢をな……」
「しつこいですよ。あなたに何の権利があってそんなことを訊くんです」
「別に権利なんかないさ。だけど、同じカマの飯を食べたら家族も同然だ。そいつが複雑な事情を抱えているんだ。無視なんて出来ない」
「何が家族よ……。私にはもうすぐ消えるだけの存在……。終わりがもうすぐそこまで近づいているのよ。だから、もう放っておいて」
「終わり? まだ何も始まってすらいないじゃないか」
「そう……ね……。何も始まっていない。始まらない。私の……絶対に……」
消え入りそうな声。最後は何を言っているのかうまく聞き取れなかった。
「叶うなら、最初からなかったことにして欲しい……。私ははじめから存在していない。今までのことは全て夢だったと……。それでいいのよ」
「それ、本気で言っているのか?」
あり得ない、あってはいけない願望に自然と声のトーンが低くなる。真剣なまなざしに真夜花がたじろぐ。
「それが真夜花の夢かって訊いてるんだ」
「だから、そう言って――」
答え終わるの待たずに俺は言い放つ。
「なら、イメージしてみろよ。自分自身が存在しない世界をさ」
俺はまぶたを閉じて想像してみる。真夜花がいない世界。真夜花が誰とも出逢わなかった過去を……。
目の前に広がるのは暗闇。何もない空間。何もイメージ出来なかった。
だが、その暗闇の中、かすかに嗚咽が漏れ聞こえた。
ゆっくりと目を開けると、閉じた瞳からこぼれ落ちる涙が映った。
「どうやら、気付いたようだな」
真夜花がいなかった世界。それは、今の由愛のいない世界だ。
「これが、私の望んだ……世界?」
「その通りだ。真夜花が知らない由愛のいる世界。夢をみていない由愛がいる世界。真夜花のことなんて初めからいなかったと、あの子の中に脈々と生き続けている真夜花の面影さえもない世界だ」
「違う……。ただ私は……」
真夜花はいやいやをするように首を横に振って、自らが思い描いたものを否定する。
「そう……。そんなの間違いだよな。由愛に夢を与えたのは間違いなく真夜花だ。だから、そんなまがいものの夢を認めるなんてことは絶対にしちゃいけない」
俺は一歩踏み出す。
「冗談でも、自分が最初からいなければいいなんて、どこにもいないなんて言うなよ。本当になかったことにしていいのか? 由愛との思い出を。幸せだった日々を……」
さらに一歩前に出る。華奢な肩に触れて、優しくこちらへと引き寄せて抱きしめる。
「真夜花は確かにここにいるじゃないか。誰にも見えなくても、俺が知っている。保障する。少なくとも俺は君と出会えて良かったって思ってるよ。だから、もっと楽しい世界をイメージしようぜ。みんなが幸せになれる世界をさ」
「だけど、わたしは……。わたし……は……」
両腕に感じる痛み。何かにすがりつくように、しがみついている。
「くる……しい……」
奥歯を噛み締めた、擦り切れた声が静寂に響く。
「胸が……苦しい……」
二人の体で押しつぶされて弾力のある胸が形を変えている。
「悪い」
体を離そうとするも腕が掴まれたままなので、それは叶わぬ願いとなる。
「そうじゃない」
かぶりを振る真夜花。そのまま俺の胸板にコツンと額を当ててくる。
「分からない……。どうしていいのか。どうすればいいのか、私にはもう、分からない……」
胸元に雫が流れ落ちて染みを作る。それが、かすかに震えている。
「怖いの……。このまま消えるなんて想像したくない。忘れて欲しくなんてない……。だけど、私にはあの子に会いにいく資格なんてない」
「そんな……。なんでだよ?」
「最初に裏切ったのは私の方なのよ」
「裏切った?」
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