episode8 第22話
「夢はなくならない――」
俺はうつむく真夜花にはっきりとそう告げた。
「夢って、失ってみて初めてその大きさを知るんじゃないかな? そして、その夢が自分にとってどういうものなのかを知って、前よりももっと頑張ろうと努力する。だから、あなたは誰の夢も奪ってはいない。ううん、あなただけじゃない、どんな人にだって奪えない。自分の夢を奪えるのは、自分自身だけ。夢みた本人が諦めた時だけなのよ」
かつての俺ならそんなことは考えもしなかったかもしれないが、今は何となくそう思う。この学園で過ごすことで、夢の大切さを、夢を持つことの意味を教えられたような気がする。
それを強く意識させてくれたのは由愛だった。そんな彼女の夢は、母親の叶えられなかった夢を追いかけたい。母と同じ景色をみたいと望んでいた。
「由愛さんはあなたに会いたいって思ってるわ。だから、やっぱり由愛さんに会いに行きましょう。あなたの言葉は私が伝えるから。それに、見えなくても、話せなくても、由愛さんの言葉はあなたには伝わるんでしょ? だから……」
真夜花はかぶりを振って拒絶する。
「あの子が、私に会いたい? どうしてあなたにそんなことが分かるの?」
「そうね……」と俺は頬をかいて思案を巡らせる。
「私も同じだから……かな。由愛さんと同じ気持ちだからよ」
「それって、どういう……?」
「私は生まれてすぐ両親に捨てられた……。だから、本当の両親の顔を知らないし、話したことも、笑いかけられたこともないのよ……。と言ってもこれは悲劇ではないわ。幸運にも私には個性的過ぎる親代わりがいたし、寂しい想いなんてする暇もなかったしね。もしも両親が目の前に現れたとしても、正直どうしていいかは分からないんだけど、会えるなら会いたいし、その選択肢があるなら何だってするわ……。だからさ……。私なんて比較にならないくらい母親への強い願望を抱いた由愛さんなら、なおさら会いたいんじゃないかしら」
肩をすくめてウィンクする俺から目を逸らすと、真夜花は悲しげな表情を浮かべた。
「でも、私はもうすぐ消えるのよ。そんな存在がいきなり現れて、いえ、現れることも出来ないのに、信じられるわけがないわ……。馬鹿な話だと、あなたの神経を疑われるだけよ。夢は夢だから綺麗なのよ。想い続けて……追い続けていられる。叶ってしまったら、形になってしまったらきっと……」
「大丈夫。由愛さんなら、きっと信じてくれる。あなたが育てた子は、真っ直ぐでとてもいい子に育ちましたよ」
「ええ……。知ってるわ……」
寂しそうに笑う真夜花。
「そう……。そうだったわね……」
天を仰ぎ見ると、何十年もの間、ここで学園の生徒たちを見続けてきた天井のシミが目に入った。毎年生徒たちを見守っては見送る。こいつらにも感情があったなら、そんな想いをしてしまうのかなと妄想してしまう。
「なら、あなたの方が忘れているのかしら? 由愛さんは、母親の記憶と混同しているみたいだったけど、小さな頃、あなたと過ごした記憶があるって言っていたわ。その時のことを話せば分かってくれるはずよ」
「あの子が今も私のことを、覚えている……?」
うつむいていた首をかしげる。
「最近はもうそんなことを言っていなかったはずなのに……」
ほんの少し柔らかになる表情。だが、それはすぐに苦悶のそれになる。喜び悲しみ。自分の中にある色んな想いがないまぜになっているかに見えた。
「だから、会いに行こう」
「だけど、私は本当の母親でもないのに……」
「誰かを大切に想うのに親とか子とか、自分が何者かなんて関係ないはずでしょ!」
いまだ尻込みをしている真夜花を思わず一喝する。
「ごめんなさい……。でも、どうして、そんなに自分を卑下するの?」
「言ったでしょ。私は誰でもないのよ」
「誰でもないって、そんなこと言ったら、今のあなたは一体誰なの?」
「私はあなたが望んだからここにいるんです。あの日、教育実習に一緒に出てくれる人をあなた願ったから、私はそれにひかれただけ。他の人には私はただの誰かで、そこにいないのと同じなのよ。そうやって、私は誰かに紛れることであの子の側に居続けた。だから、私は誰でもない。もう私自身にも、本当の姿を思い出すことが出来ないわ」
左の手のひらで顔を覆い隠す真夜花。
「あなたには私が何に見えるの?」
指の隙間から覗く眼光が妖しく光る。
「私にはあなたが、由愛さんの母親――麻耶さんに見えるわ。だから、あなたの不審に気付くことが出来た」
「そう。あなたには母親がいないって言ってたわね……。だから、私のイメージがオリジナルのものになったのね」
「オリジナル?」
「そうよ。本来、私は心の隙間を埋めるように、もう会うことが出来ない誰かの姿に見えるはずなのに、あなたにはそういう人がいないのね。だから、オリジナル――あの子の父親がイメージした母親がもとになって生まれ出でた。まがい物の母としての役目を受け、私はそれをやり終えた。だから、これからは、あの子が自分の足だけで歩く番……。私は、もう必要なんてないのよ」
「どうして、そういうこと言うの? あなたはあなたじゃない。ちゃんとここにいて、誰かのじゃない、自分の言葉でしゃべっているじゃない……。それは、あなた自身の想いなんでしょ?」
「想いなんて、ないわ」
「想いはあるわ。あなたは夢(む)から――ゆめから生まれたって、自分で言ってたじゃない。だから、あなたにもあるはずよ。他の誰かのなんかじゃない、あなただけの願いが……。夢が……」
「違うわ。ゆめじゃない、何もないの無(む)よ……無。私には何もないもの……。ましてや、夢なんて、あるはずないじゃない……」
「嘘ね」
「何を根拠に……」
「何の願いも持たない人が、他人の夢を奪う危険をおかしてまで、誰かを傷つけたと悲しんでまで、由愛さんの側にいようとするかしら?」
「それは、ただあの子が心配だったから。だから……」
机を抱えるようにして寝息を立てている彩音に視線を向けると、真夜花は顔を伏せた。その拍子にひと房の髪がはらりと落ちる。
「だけど、それはもういいのよ。最後に彼女の夢を垣間見て分かったもの。由愛は私なんかよりもずっと上手に支えてくれる人がいるってことに……」
彩音の肩にそっと手を置く真夜花。
「私は役目を果たせた……。もしも今も夢というものが私の中にあるのなら、穏やかにこのまま消えてなくなることを願うわ……」
そう言って顔を上げた真夜花の言葉が真実だと証明するように、その横顔は実に慈愛に満ちていた。
それが、真夜花の夢?
大切に想う人とその友のために、自らは人知れず身を引くことが望み。それも一つの愛の形だと思う……。それは、子を想う、母の愛なのかもしれない。
俺にはよく分からないが、本当の家族でしかたどり着けない境地なのだろう。なら、これ以上何も言うことはない。
「そう……。あなたの想いはよく分かったわ」
真夜花を説き伏せるのは無理だと、そう思った瞬間――。
月光に輝くひと雫。
頬を涙が伝う。
「な……に……?」
真夜花自身、自分に何が起きているのか分かっていないようだ。
「悲しくなんて、ないはずなのに、どうして、こんなものが……」
こぼれ落ちた雫を目にしても、その想いを否定する。頭で分かっているけど、心がそれを拒否しているのだろう。十六年もの間、見守り続けてきた子との別れになるのだ。そんな簡単に割り切れるものじゃない。
ずっとその姿をとらえてきた眼(まなこ)が、ささやかな抵抗を続けている。それをゴシゴシとこすり上げて無理やりなかったことにする。
「別れは寂しい。誰だってそうだわ。そして、それが、あなたの本心なのよ。なのにどうして、自分に嘘つくの?」
「嘘? 私は嘘なんてついていないわ。私は本当に、このまま……」
今度は、大粒の涙が偽りの望みを覆い隠す。
「こんなの嘘よ」
言い訳も出来ないほどに歪んだ表情。
「いいじゃない。本当のことを言ったって。夢なんて自由で自分勝手なものよ。もっと自分の欲望に素直に、わがままになってもいいんじゃないかな? どんな形であれ、せっかく生まれてきたんだもの。やりたいことをやればいいと私は思うわ」
俺の身勝手な発言に、真夜花が鋭い視線で睨みつける。
「あなたに私の何が分かると言うんです? やりたいことをやる? そのなれの果てがその姿なのかしら?」
「私の姿?」
一体何を言われているのか、すぐには分からなかった。だが、間髪入れずに真夜花が言い放つ。
「あなたの方こそ、偽りの存在じゃない……。女装なんかしている人に、そんなこと言われたくないわ」
「なっ!」
自分でも分かるくらい頬が熱くなる。すっかりこの姿が板についてきて自分の今の格好を失念していた。説教まがいのことをたれておいて、その実、そいつが女装趣味の変態野郎だったなんて、どれだけ俺の姿は滑稽に映っただろう。
「ナンノコトカナ?」と思わず棒読みで誤魔化す。
「私はただのマヤカシ。だから、他人にはぼやけて見えるけど、その代りに私はその人の真実の姿が見えるのよ。あなたのこと、悪い人には見えなかったから、何か理由があってそんな格好をしていると思っていたんだけど、それがあなたのやりたいことってわけ?」
「そう……。最初から、知っていたのね……」
わざとらしく、「いや~。自分では結構イケてると思っていたんだけどね」と照れ笑いを浮かべてみる。
だが、真夜花は至極真面目な顔で、
「あなたは一体何者なの?」
「私は……」
言いかけて、俺は被っていたカツラを掴んだ。そして、簡単に外れないように編み込んだ地毛ごとブチブチと頭からはぎ取った。
もう何も偽る必要はない。
スカートのポケットから取り出した携帯用のメイク落としで、化粧を拭って素顔を晒す。
「これが、私の――」
その顔に似つかわしくない、高い声色を発生させているネックレス型変声機をスカートのポケットにしまって、「んん」と一つ咳払いをした。
「これが俺の本当の姿だ」
頭部は男、体は女。そんな半分女装姿の俺を、真夜花は怪訝そうに見つめた。だけど、そんな侮蔑の目を吹き飛ばすくらい堂々とした態度で自己紹介をする。
「名前は近藤武蔵。探偵業をやっている。この学園には、原因不明の眠り病事件の調査でやって来た」
真夜花は興味があるのかないのか、表情を殺したまま無言を貫いている。
「その初日に真夜花と出会い、そして、相棒のナナコの紹介で由愛とも知り合ったんだ。これはきっと運命で、俺たちは出逢うべくして出逢ったんだと思う。だから、俺は君と由愛のために何か出来ないかと考えている」
「何かしたいなんて、そんなことしてあなたに何の得があるんですか」
「そう言われると何もないんだと思うよ。でも、俺は近藤武蔵だ。探偵なんだよ。だから人助けをする。ただそれだけだ」
身の潔白を示すように、両手を広げて見せる。
「もう俺は何も偽っていない。だから、今度は真夜花が本当のことを言う番だ」
「本当のこと? これまでさんざん、この学園の生徒に嘘をついてきたあなたが、今さら何を言っているんですか?」
「ああ。そうだな……。たしかに、俺は生徒たちにとって見た目は本当の自分じゃなかったけど、その心まで偽ったことはないよ」
「ココロ……?」
「そう心さ……」
真夜花から流れ出した心の欠けら――机の上にこぼれ落ちた雫を人差し指ですくう。指先に冷たい感覚。
「君が本当に望むこと、好きなものをもう一度思い描いて欲しい」
そう言って、親指を心の臓へと突き立てる。真夜花はこちらを値踏みするように、真実の姿が見えると言った目で見つめた。俺の方も、それに負けじと真夜花の瞳の奥を覗く。
自然と絡み合う視線と視線。長いまつ毛に包まれた綺麗なブラウンの瞳が、その心を投影するようにわずかに揺れている。もしかすると、まだ彼女も迷っていんじゃないのだろうか?
今なら、俺の言葉を素直に受け入れてくれるのかもしれない。そう思った矢先、教室内が漆黒に包まれる。どうやら再び月が雲に隠れてしまったようだ。
俺は何も言えなくなる。ここで真夜花にかける言葉を間違えたら二度と彼女の心を開くことは出来ないだろう。それ故、表情の読み取れない今、下手に動くのは得策ではない。
嫌な汗が背中を伝う。
無言のプレッシャーが肩に重くのしかかる。
緊張で喉が渇く。早く何か言わなければと思えば思うほど、生唾を何度も飲み込む。
長い沈黙の末――。
グ~。
闇をつんざく、間抜けな響きが教室内に響き渡る。それに呼応したのか眩しいくらいの月光が差し込んできた。
無慈悲な視線に肩をすくめてこたえる。
「悪い」
本人の意思とは関係なく悲鳴をあげる腹をさする。ったく、大人しくしてろよな。
シリアスなシーンのはずなのに、締まらない自分に苦笑いする。
「そう言えば、夕飯食べそびれたからな……。許してちょんまげ」
この際このままシリアスブレイクしようと発したベタなオヤジギャグにも動じることなく、真夜花は呆れ顔で首を横に振っている。一周回って逆に新鮮かもと思ったが、クスリともしていない。
「やっぱり私には、あなたが分からないわ」
「奇遇だな。俺にもさっぱり分からないよ」
「ふざけてるんですか?」
「そうじゃないさ。本当に俺は俺が分からない。生まれてすぐに、親に捨てられたって言ったろ? だから俺は本当の自分が何者なのかを知らないんだ。何のために生まれて、何をすればいいのか誰も教えてくれなかったからな……」
前髪が垂れてきたので、俺は手グシでそれをかき上げる。いつもは引っかかりのない直毛が、カツラをかぶって蒸れたせいか、ごわついて少しだけ痛みを感じた。
「でもさ、俺はたしかにここにいる。生きているから笑いもするし、腹だって減る」
そう言うと、上着のポケットに忍ばせた二つのおむすびを取り出して、その一つを真夜花へと差し出す。
「私はお腹なんて空かないわ」
「でも、食べることは出来るんだろ?」
渋る真夜花に、「いいからいいから」と強引におむすびを握らせた。
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