episode8 第25話

 由愛の家は、白金の端。小高い丘の上に立っていた。辺りに他に民家らしき建物はない。これが、彩音の言っていた矢追教授の残した豪邸か。年季が入ってはいるが、廃れた感じがない。きちんと由愛が手入れをしているのだろう。

 と、悠長にしている時間はない。スクーターのアクセル全開でここまでやってきたが、真夜花の存在は少しずつ透明に近づいていた。その存在を少しでも認識しようと、俺たちはどちらからともなく手を握り合っていた。

「それじゃあ、行こうか」

 扉の前、軽く真夜花の手を握ると、返事の代わりにギュッと手を握り締められる。

 それを合図に俺は一歩踏み出した。その瞬間、フッと真夜花の手を握っていた腕が軽くなるのを感じた。見ると、真夜花が薄い光に包まれていた。

「どうやらここまでみたいです」

 淡い粒子に包まれ、はにかむ真夜花。

「そんな、なんでだよ……。会いに行くって、約束したのに、なんでもうすぐそこに由愛がいるのに……」

 いや、理由なんて考えている場合じゃない。

「俺の夢を吸うんだ」

 時間稼ぎになるかどうか分からないが、今はこんな案しか思い浮かばない。

「でも……。だけど……」

 奥歯を噛み締めているのか真夜花の頬がキュッと引き締まる。迷い、ためらい。そんな想いがありありと見てとれる。

「いいから、早く。君を由愛に会わせること。それが俺の願いだ」

 これで俺も眠り姫の一員だな……。だからと言って、俺は被害者ではない。ましてや加害者ですらない。俺はただ自らの願いを――夢を叶えるだけだ。

 目を覚ました時、真夜花はもういないだろう……。だけど、別に死ぬわけではない。真夜花はきっと大丈夫だ。一人でもやれるさ……。それに保険も既にかけてある。だから――。

「俺に夢をみせてくれよ。さいっこうに幸せな夢をさ」

 ニヤリと口の端を上げて見せる。

 それで覚悟を決めたのか、真夜花の眉がキリリと持ちあがる。

「分かりました……。でも、少し恥ずかしいので、目を閉じてください」

「ああ……。これで、お別れだ」

 最後に、その姿を目に焼き付けて俺はゆっくりとまぶたを閉じた。

 優しく肩に触れる指先。徐々に顔が近づいてくるのが分かる。漏れる吐息まで聞こえてくる。

「ありがとう……。そして、さよなら……です」

 心地よい囁き。首筋を熱い感触がなぞる。意識が遠のくほどの、熱い。とても熱い口づけだった。

「――――!」

 その瞬間、真夜花が過ごしてきた日々の記憶を垣間見た。由愛と出会い、共に過ごし、別れ、見守り続ける日々の出来事。真夜花が歩んできた16年という歳月。それはとても辛く、険しいものだった。だけど、その困難な道のりはどこか温かなものだった。向日葵のような眩しい笑顔。握り返された手のひら。そんな由愛との思い出が真夜花をずっと支え続けていた。

 眠気は一切感じず、それどころか、目尻に熱いものが込み上げる。

 目を開けると、満面の笑みを浮かべた真夜花がこちらを見つめていた。その笑顔はまるで既に夢を叶えたように清々しいものだった。

 ややたれ目がちな優しい瞳が、俺の目の奥をジッと覗き込む。

「これが私の姿……。ようやく本当の自分に会えた……」

 眩しい光に包まれていく真夜花。

「近藤武蔵さん。本当にありがとうござしました……。今の私には、そんなものしかあげられないけど……」

 人差し指で、艶っぽい唇に触れる。

「まさか、俺の夢じゃ駄目だったのかよ……」

 俺は、真夜花が口づけをした首筋に触れる。

「私の夢。あなたに託します」

 願いと同時に、涙がこぼれ落ちる。それを受け止めようと手を出したが、雫が俺の手のひらをすり抜けていった。

「これで、本当にいいのかよ? こんな結末で満足なのかよ!」

「いいんです。多分、私はこの瞬間のために生まれてきたんです……。あなたの言う通り、私は願っていたんです。あの子を見守っていたいと。日々立派に成長していく姿を見続けていたいと……。でも、本来の願いを叶えるのは私じゃない。だから、この体、本来の持ち主へお返しします」

 胸の前で手を組み目を閉じると、真夜花は祈るような格好をした。

「そうだったのね。彼女が私を縛っていたんじゃない。私が彼女を縛りつけていたのね……。本当に消えたくなかったのは私……」

 真夜花のお腹を中心にして光が収束し――弾けた。

 辺り一面を眩い光が満ちたと思ったら、一瞬にして光は消え去った。

 暗闇に目がついていかず、俺は目をしばたたかせた。と、真夜花がいた辺りに人影が浮かび上がってきた。

 姿かたちは真夜花と同じだったが、どうにもその雰囲気はさっきまでそこにいた人物と違って見えた。少しだけ大人びているように感じる。

「君は……、真夜花なのか?」

 俺の問いかけに目の前の女性の顔つきが変わる。

「そうであるとも言えるし、そうでないとも言えます。私は真夜花であり、矢追麻耶でもあります」

「あなたが、矢追麻耶教授……。そうか……。これがあなたの望んだ結末というわけか……」

 目の前の女性は薄く口の端を上げた。その反応は、肯定とも否定ともとれた。どちらにしろ、彼女は現実ではありえない存在だと俺は直感した。

「それで、真夜花は消えてしまったんですか?」

「それは分かりません。真夜花は、私でもあるんです。厳密にいえば、さっきまでの私は、出産する前の、妊娠が分かった頃の私なんだと思います」

「それってどういう?」

「妊娠中、悠人さん(パパ)は、『子供が産まれたら最初になにしたい?』って、いつも私を励ましてくれたの。それで、私は、抱き締めてあげたいって、まず、この子のぬくもりを感じたい、そして、私のぬくもりを感じて欲しいって、そんな風に言っていたわ。でも、その願いは叶わなかった。由愛を、この手に抱く前に私は……」

 ぐったりと麻耶はうなだれてしまう。

「だから、悠人さんは、その願いを叶えるため、自らを犠牲にしてしまった。私の望みなんて、そんなのいいのに……。でも、うまくいかなかった。本来、出産後の私がイメージされ、由愛の前に現れるはずだったのに、その少し前の私が形作られてしまったの。あの頃の私は、お腹にいる娘のためにも立派な母親にならなきゃって、娘をきちんと育てないといけないって、そんな風に強く思い過ぎてしまった。そのせいなのか、真夜花という由愛を立派な娘に導き見守るような私になったんだと思います。そして、あなたのおかげで、真夜花は願いを叶え、本来の私に戻ることが出来たんです」

 俺は、ポリポリと頬をかいて、思考を巡らせ今の話をまとめる。

「すいません。どうにもうまく理解が出来ませんけど……。とにかく、由愛さんのことはあなたに任せても大丈夫ってことでいいですね」

 長い年月をかけ、彼女は自らの願いを叶えにここにやって来た。なら、邪魔者は退散だと、俺は踵を返す。

 と、「あっ」とかすかな声が背中にかけられた。

 振り返ると麻耶が満面の笑みをしていた。

「?」

 リアクションに困っていると、麻耶は真剣な表情になった。

「近藤武蔵君。キミにはこれから起きる結末を見届ける義務があるわ」

「義務? 権利ではなくてですか?」

「そう。だから、私と一緒に来て欲しい……」

「いや、そうは言っても、せっかくの親子水入らずの所に部外者がいるのも……」

 つつしんでお断りしようとしていると、麻耶がはにかんだ。

「ごめんなさい。本当のことを言うと、少し怖いのよ」

「怖い?」

 自ら待ち望んで、ようやくたどり着いた場所だと言うのに、そんな馬鹿な。しかし、麻耶のその言葉が正しいと証明するように、自らが右手で掴んだ左腕が震えている。

「おかしいよね。いざその瞬間になってみると、震えが止まらないの」

 言われてみればその通りなのかもしれない。夢が叶う瞬間というものは、誰だって初体験だ。緊張するものなのだろう。ましてや麻耶は、由愛と面と向かうのは初めてだったな……。

 ここまでくれば、一蓮托生だ。俺はうなずき、改めて二人で矢追家の扉に向き合う。と、それを待っていたかのようなタイミングで玄関の扉が開かれた。

「由愛……さん」

 由愛は後ろ手に扉を閉めると、キョトンとした顔でこちらを見つめていた。

「あれ? 呼び鈴、押したかしら?」

「あ、いえ、何だかさっき外が急に光ったような気がしたので、様子を見に来たんですが……。えっと、近藤、ムツミ先生? ですよね?」

 由愛は訝しげに、こちらを見ると首をかしげた。そういえば、学園で化粧を落としてほぼそのまま来てしまったので、今の俺の格好はカツラをかぶった変な女装野郎でしかない。まあ、元々ベースは俺自身なので劇的に違いはしないが……。少しでも違和感を無くそうと、俺は顔を整えた。

「ごめんなさい。ちょ~っと化粧が落ちちゃったみたい。それよりもなんて言うか、由愛さんに会ってもらいたい人を連れてきたって言うか……」

 俺の後ろで隠れている麻耶のことをどう説明しようかと言葉を選んでいると、

「お母さん……。ですか……?」

「え?」と背後で漏れる呟き。

「どうして……? 分かるの?」

「いえ……。分からないんですけど、分かるんです。いつかこんな日が来るような気がしていましたから。それに、いつさっき、ちょっとウトウトしちゃって、その時母に会う夢をみたような気もするんです。だから……」

 背中越しの震えに、俺は鼻の奥がツンと痺れるのを感じた。

「そっか……。そういうものなのかもしれないわね。そう……。由愛さんの願いはようやく叶ったのよ。ご両親の研究が身を結んで、二人をめぐり合わせたの」

 俺は一歩横にずれて麻耶を前面に押し出した。

 が、なぜか麻耶は無言で顔をこわばらせている。やはり、何と声をかければいいのか分からないのだろう。その緊張につられて、由愛も俺もどうしていいか分からなかった。

 と、坂の下から、テクテクと規則正しい歩みでナナコがやって来た。

 手に持っているコンビニ袋をこちらに掲げて、

「持ってきた」

 空気を読まない落ち着いた声色に、三人の緊張がとれるのを感じる。真夜花のために用意した保険がきちんと役に立ったようだ。

「待ってたわ」

 俺はナナコが持ってきたブツを受け取る。うんうん。きちんと言われた通り用意出来たみたいだ。ナナコのはじめてのお使い成功だ。きちんと成長していて実に喜ばしい。

 何はともあれ、どうやらこれで役者が揃ったようだ。



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