episode8 第10話
第三章 「ユメ」
「お先に失礼しまーす」
「お疲れ様でした~」
控室兼ミーティングルームになっている会議室を出ていく実習生たち。俺はレポートをまとめながら、他の実習生を見送る。その足取りは実に軽やかだ。それもそのはず、いつの間にやら教育実習期間も終盤。気が付くと、二週間の教育実習期間も、今日を含めて残すところ後三日になっていた。
俺は会議室内をぐるりと見渡す。そこに真夜花の姿はなかった。どうやら既に帰宅したらしい。彼女とはプールの一件以降あまり話せていない。オヤジのアドバイス通り、時間を見つけて真夜花とコンタクトを取ろうと試みるが、どうにもタイミングが合わずにいた。本格的に疎遠になってしまったようだ。
水面に映らなかった真夜花。どうにもその事実が気になって仕方ない。普通に考えれば、そんなことあるわけないのだが、この学園で起きている怪事件や幽霊の噂もある以上、もう一度その真偽を確かめようと思っていた。
今にして思えば、そもそも、あれだけ人がいてプールの水面が凪いだと思う方が不自然なのかもしれない。単純に俺の見間違いなだけとは思うが、真夜花には今日までまともに話せていないと言うか、避けられているような感じになっているので余計気になってしまう。オヤジは分からないことにはとことん向き合えと言ったが、向き合うべき相手がいなければそれは叶わぬ願いである。
それはそれとして、本筋の事件の方もいまだ解決の糸口が見えていないのも悩ましい。何というか今回の事件に関しては、物的証拠があまりにも少ない。目撃情報はそれなりにあるのだが、それらの証言が事件解決に直接繋がるとも思えなかった。当事者が何の前触れもなく単に意識を失うように倒れたのを見たというものばかりで、そこに第三者の関与があったという類の情報は皆無なので、あまり役にも立ちそうにない。被害者本人の証言としては、意識を失う直前何か不可思議なものを見たというものもあるにはあるが、それは参考程度、話半分だと思った方がいいだろう。
つまりは、今現在手詰まりな状況だ。
ものごとの結果には必ずそれが起きる原因があり、俺たち探偵は、その逆順を辿っていくことで事件を解決する。その作業は、完成済みのパズルを一度グシャグシャにばらし、そこにある全てのピースを正しく組み上げるのに似ている。
だが今、原因に遡れるだけのピースが絶対的に不足している。本腰を入れていないのか警察もお手上げ状態で、最終的には今回の件は、ただの貧血で事件の収束を図ろうとしている。職務怠慢にも思えるがそれも仕方がない。事件の概要だけ見れば、生徒が倒れ、そして、通常より長い期間眠り続け、目を覚ましただけの話だ。
だが俺は、被害者に実際に会って聞き込みをすることで、この事件がそんな単純なものではないことを知っていた。この事件にはきっと何か意味がある。
被害者――白雪姫ガールと呼ばれている生徒たちは実に真っ直ぐな心の持ち主だった。各々ジャンルは違うが、その分野で活躍している生徒たちだ。昏睡状態から復帰した彼女たちは、意識をなくしていた期間を取り戻すように、むしろそれまでよりも、より高い目標に向かって努力を続けていたのだ。そして、あの事件の被害にあったことで逆に、自身の才能が大きく覚醒するきっかけになったかのように話してくれた。
つまり、今回の一件は、当事者に限って言えば、結果としてプラスになったのだ。そう考えると、警察と同じ結論になるのだが、事件は事件だ。何らかの結果を出さなければ依頼者である学園は納得してくれないだろう。
それに俺自身思うところもある。
ここに来てまだ二週間も経っていないが、立場は違えど生徒たちと同じ時間を過ごした。授業に出て、共にチャイムを聴くことで、この学園に少しだけ愛着も湧いてきた。
情が移ったと言うか、共に同じ景色を共有することで至った境地。ここを去りゆく前に、事件の解決は出来なくても何らかの糸口くらいは見つけておきたいと思う。
ナナコや由愛が、この学園の生徒たちが、安心して学ぶことが出来るくらいには……。
色々と煮詰まった俺は、何か事件の参考になる資料でもないかと図書室へと足を向けた。
図書室の扉の前には、うず高く積まれた本を手にした由愛がいた。ハードカバーの本は見るからに重そうだ。
「それ全部読むの?」
由愛へと軽く声をかけて、扉を開けてやる。
「ムツミ先生」
顔の辺りまである本の山を避けるようにして、首を斜めに傾けると、由愛はにこーっと笑って、「はい、そうですよ」と答えた。
「へえ~」と相槌を打ちながら、由愛が持っていた本の半分を持つ。単純計算で重さは半分になっているはずなのに、それなりに重量がある。女の子がこれを全部持つには、相当な腕力が必要だろう。
「ありがとうございます」と言いながら由愛は図書室へ入ると、出入り口の近く、周りを本棚に囲まれて個室のようになっている席に腰を下ろした。それから、おもむろに制服の胸ポケットからメガネを取り出す。俺の方も本の山を机上へ置いて隣に座る。由愛は目尻を下げてお礼を言うようにこちらへと微笑むと、薄いフレームのメガネをかけて持ってきた本へと視線を落とした。
にしても、由愛の笑顔には不思議な魅力というか、人を引き付ける魅力――魔力のようなものがあるように思う。この子のためなら、何だってやりたくなりそうだ。そんな由愛はどんなことに興味があるのだろうと、運んだ本の一番上のタイトルを読み上げる。
「イメージと質量の関係性について?」
茶色い重厚なハードカバーで製本された、いかにも高そうな専門書。ペラペラとめくるだけで、小難しそうな単語がひしめきあっているのが確認できる。悲しいかな俺には内容が理解できそうにない。次の本のタイトルも『超ひも理論入門』と書かれていたので、何か編み物的な内容かと思ったら、予想の斜め上をいく難解な内容だった。
「これ、全部読むんだっけ?」
「はい。でも、私にもほとんど内容なんて分からないですよ」
顔を引きつらせている俺に気を使ったのか、由愛は下唇に人差し指で触れると、恥ずかしそうに笑った。考える人のように、アゴを引く形になっているので、楕円のメガネ越しに上目遣いになっていて、どこか悪戯っぽく見える。
「でも、いつかはきちんと理解出来るようにしたいんです」
由愛は数学の教科書とノートを開いた。
「そのために、まずは学校の授業を理解することから始めないといけませんよね」
ここにある本は、ざっとしか目を通していないが、理解するためにはかなりの専門的知識が必要だろう。少なくとも高校生が理解出来るような代物ではないように思った。彼女が言った『いつか』が一年後か、十年後か、はたまた数十年後なのか分からないが、その言葉にはいつかやり遂げるという明確な意思が込められていた。
ナナコの話では由愛の成績はクラスで一番、学年でも一桁の実力らしい。そんな優等生のノートはどんなに整頓されているのだろうかと、覗き見る。
「って、これ三年生が習うものじゃない」
「はい」と答える由愛の脇にある教科書の表紙にも、『数学Ⅲ』と印字されていた。
「どうして、こんなのをやっているの?」
驚いて声を上げそうになった俺は思わず手で口をふさいだ。
「一、二年生のものは一通りすませてしまいましたから」
由愛は涼しい顔で答える。いやいや、勉強熱心にしてもやりすぎだろ……。生き急ぎ過ぎだろ?
「矢追さんは、なぜそんなに頑張るの?」
俺の何気ない質問に、由愛はメガネを机に置くと姿勢を正す。それから、音を立てないように気をつけながら、椅子を体半分こちらに寄せると顔を近づけて囁く。
「これは私の夢なんです」
持ってきた本に手を置いて目を細める。
その仕草が流麗で、俺はつい見とれてしまう。その視線に気付いたのか、由愛はこちらへと微笑みかける。不意をつかれ、ドキリとした。
「厳密に言えば、借り物の夢、なんでしょうけど」
「借り物の夢?」
「はい……。私の母は凄い研究者だったんです」
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