episode8 第11話

 由愛がこちらに本の背表紙を向けると、著者名『矢追麻耶(まや)』と記されていた。それが、彼女の母の名なのだろう。

「私はその意思を継ぎたい……。母が見ていた世界を見たいんです。母は多くの研究をして、そのレポートを沢山残してくれました。でも、今の私にはそれらはチンプンカンプンで、理解するにはレポートの出典に明記されていたこの本を熟読する必要があるんです」

 ちなみに、これらはその一部なんですけどねと、ずらりと積まれた本を見て、嬉しそうに付け加える。

「レポートを残してくれた? もしかして、矢追さんが継ぎたい、お母さんの『いし』って、もしかして……」

「はい……。母は、私が生まれてすぐに亡くなったそうです。だから、母が叶えられなかった夢を実現させたいんです」

「あっ、ごめんなさい」

 由愛は気にしないで下さいと言ってくれたが、好奇心でつい口を付いて出た言葉に自己嫌悪する。そんな俺の微妙な表情に気が付いたのか、由愛は微笑む。

「寂しくないって言ったら嘘になりますが、母は私に大切なものを遺してくれたんです。これらの本やレポートを見ていると、何だか母と同じ時間を過ごせているような、その存在を近くに感じることが出来るような気がするんです」

「これも母がしていたものなんですよ」と再びメガネをかけると背筋を伸ばして、似合いますか? とでも言うように小首をかしげた。

「そう……」

 母親から娘へと遺したもの……か。俺には、その気持ちがよく分からなかったが、由愛にとっては本当に大切なものなのだろう。それだけは理解が出来た。だから、俺はうなずき微笑み返した。

 それに満足したのか、由愛は椅子を元の場所に戻すと教科書に視線を落として、普通の女子高生がやるにはかなり早い予習を進めた。

 ノートを覗き見ると、内容ごとに整理された公式やポイントが、綺麗な字で記入されている。勉強の出来る人は、ノートのとりかたも綺麗だというのは真実らしい。

 これが由愛にとっての、夢のための努力か……。

「苦にはならない?」

 ふと頭をよぎった疑問に、「全然」と由愛はかぶりを振って答える。

「それに、数学って面白いですよ。母が理系だったからかもしれませんが、割り切れない円周率をπ(パイ)で定義したり、現実には存在しない虚数i(アイ)を定義して、それを2つ掛け合わせると-1になったり。何だか夢があると思いませんか?」

「そ、そうね……」

 たしかに、パイには夢があるよな……。と、由愛は、うなずく俺が話に興味を示したと思ったのか、

「この無限等比級数の和にも面白い話があるのは知っていますか?」

 ノートに書いた数式を見せてくる。



 S = 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + ……



 その値を限りなく0にしながらも、無限に加算され続ける数式。

 答えは『1』か……。

 それはあくまで高校数学においてであり、厳密にはこの数式は永遠に『1』にはならずに、限りなく『1』に近づくだけだ。

「それって、『アキレスと亀のパラドックス』の話かしら? あの俊足の英雄アキレスと、歩みの遅い亀がハンデをもらって競争すると、アキレスが亀に永遠に追いつけないんだっけ?」

「はい。競争が始まると、まずアキレスは、亀のスタート地点へと走っていかなければいけません。でもその間、どんなに鈍足な亀もその間最初のスタート地点の先に進んでいます。そして、次にまたアキレスはさっき亀が進んだ地点まで走らないといけなくて、でも、亀もまたさっきいた地点から前にいるわけで……。そうやって同じことを延々繰り返すと、永遠にアキレスは亀に追いつけないというわけですね」

「それで、その話を亀に聞かされたアキレスは、勝負をする前に負けを認めてしまったという笑い話ね……」

「私は、このアキレスと亀のお話は、私自身と夢の関係に思えてしまうんです」

「矢追さんと、夢?」

「はい。私は日々、ずっと先にある自分の夢に向かっています。だけど、夢はたえず動いているんです。もちろん、夢が動くわけではありませんが、私が勉強して色々と知識を得るほどに、夢の大きさや夢へたどり着く本当の道のりを知ります。前に進むほどに遠ざかっていく夢。自分が今前に歩いているのか後ろに下がっているのか分からなくなって、最後には永遠に追いつけないように思います」

 由愛は積まれている本のページをめくった。一枚、一枚。歩みの重い亀のように。由愛がどんなに優秀だろうと、これらの本を読むのに何十時間、何百時間かかるのだろうか……。いや、たとえ何千時間つぎ込んだとしても、それが報われるとは限らない。

 限りなく近づけるのに、永遠に交わることが出来ない。それはもしかすると、夢の話ではなく、由愛とその母親の話なのかもしれない……。

「だから、やっぱり辛くないと言ったら嘘になります」

 いつの間にか、由愛の手が止まっていた。

「でも、私は知りたいんです。ページをめくった先に何があるのか。最後のページの結末は一体どんなものが書かれているのか。私はとても気になるんです。読んでいるのは難しい専門書なのに、私にはなぜかそれが、名作と呼ばれた物語を読み進めていくような、至福の時間なんです」

 再びめくられるページ。

「夢が叶うかどうかは分かりません。だけど、途中で諦めてしまったら、絶対に夢は掴めない。それだけは確かなんです。だから、私は諦めません。そして、夢に向かうその時間こそが母を感じられる、夢のような時間なんです」

 そんなことを言って胸の前で小さくガッツポーズしてみせる由愛が可愛らしくて、俺はつい顔をほころばせてしまう。

「何かおかしかったですか?」

「ごめんなさい。そうじゃないの。矢追さんって、可愛い顔して意外と熱い人なんだって思ったら、ちょっと……ね」

 笑いをこらえている俺に、

「そうなんですよ。私は熱い女なんですから」

 由愛は腰に手を当てて、エッヘンと胸を張ってみせる。

「すごく、大きいわね……」

 と、由愛が目を丸くする。俺も、「え?」と呆けた。

 そう言えば、俺の視線が、ツンと上向きをしたバストに向けられているのに気が付く。

「いえ、夢の話しよ。夢の!」

 なんとか誤魔化そうとそう口走ると、

「触ってみます?」

「いいの?」

 思わずマジになって、両の手のひらが綺麗なお椀型の形にスタンバイする。と、由愛は、「も~。冗談ですよ」と胸を隠しておどけてみせる。

「だけど、本当に夢って、そういう熱さやひた向きさ、矛盾を超えて努力した人だけが叶えられるのかなって。そんな風に思います」

「そうなのかもね」

 肯定はしたものの、俺には由愛が言っていることに手放しに共感出来なかった。なぜなら俺には――。

「ムツミさんの夢は先生になることですか?」

 ドキリとした。俺の中にあるわだかまりと言うか、スッキリしないものを見透かされた気がして心の臓が激しく跳ねる。

「え? 私? 私は……」

 思わず言いよどむ。

 改めて、『夢』なんて訊かれると返答に困ってしまう。

 今俺は探偵なんて真っ当でない職に就いている。それは俺を捨てた両親を捜すためであり、実際、両親を見つけたいとも思っている。しかし、それは夢と言うよりもむしろ、自分自身に課したノルマ――カルマと言った方が良いんだと思う。それに悲しいかなたとえ両親を見つけたとしても、具体的にどうしたいということもない。ただどんな奴から俺という人間が生まれたのか一目見たいだけだ。つまり、それは由愛の言う所の『夢』とは大きくかけ離れている。

「夢……か……」

 腕を組んであれこれと考えてみても、やはりちっとも思い浮かばない。

 仮とは言え、教育実習生にふんしているので、適当に「教師になるのが夢よ」と答えれば良いのだが、なぜかそうすることは躊躇われた。なぜならそれは嘘だから……。偽りの夢を答えることは出来ない。こんな俺でも夢に対して真摯でいたいとでも思っているのだろうか?

「う~ん。ちょっと今は思いつかないかな?」

 と苦笑いを浮かべる俺に、

「そうですか……」

 由愛は少し寂しそうな表情を浮かべたかと思うと、

「でも、それでいいんだと思います。夢って無理に見つけるものじゃないですからね。私自身、気がついたら今の夢を抱いていたって感じですかね? 何でもいいから自分に合うものを頑張って続けていれば、自然と夢は見つかるんだと思います」

 にこーと満面の笑顔を咲かせた。彼女には本当に驚かされる。どちらかと言えば後ろ向きな俺だが、由愛がそう言うだけで、なぜかそうだと信じてしまえるのだから。

 だから、俺も最高の笑顔で返す。

「そうね。そうだといいわね」

 フフフと二人で笑いあう。

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