episode8 第7話

 濡れ鼠で帰宅した俺は、オヤジに急かされるがまま風呂場へと押し込まれた。

「ふぅー」

 大きくため息を吐き出しながら、ファスナーを開けてホックを外すと、水を吸って重くなったスカートが足元に滑り落ちた。それを拾いあげて皺を伸ばすと、専用の洗濯ネットに入れる。無造作に脱ぎ捨てたブラウスや下着も同様にネットに入れて洗濯機へ突っ込む。

「女心というものは分からんものだな……」

 あの後、真夜花との間に微妙な空気になってしまった。それから、雨がやや小降りになったのを確認した真夜花が、軒先を飛び出したので俺もそれに倣った。が、うちに着く寸前で再びゲリラ豪雨に見舞われた。

 真夜花の方は大丈夫だっただろうかと思うも、俺にはそれを確かめる術がない。そもそも俺は彼女のことをよく知らない。まあ、今の世の中他人に対して無関心でいることは別段珍しい話ではない。そもそも俺の本来の目的は、あの学園での事件の調査にある。だから、このまま真夜花に深入りせずにおさらばしても構わない。むしろ探偵業に徹するならば、そうすべきである。だけど、なぜか彼女のことを気にしている自分がいるのもまた事実だ。

「イックシ!」

 盛大なクシャミが出る。濡れたまま脱衣所で考え事をしたせいですっかり冷えてしまった。

 下手な考え休むに似たり。このまま考え込んでもろくな答えには至らないだろう。風邪をひいてしまっても馬鹿らしい。

 素っ裸で浴場の扉を開けると、うちは二十四時間風呂でもないのになぜかホクホクと白い湯気が俺を迎えた。

「おっ、オヤジの奴が気を利かせて湯を張ってくれたのか?」

 ひとりごちながら、もやもやと漂う湯気の先を見てみると、そこには湯船に浸かるナナコがいた。

「なっ、なっ、なんで、お前がここにいるんだよ!」

 左の手のひらをいっぱいにして股間を隠し、右手で指差し確認をしながら叫ぶ。

「むな志が入れって言うから」

 いつものクールな表情でナナコが冷静に答える。その感情とは裏腹に、真っ白い肌が上気して若干赤みを帯びている。

「お、おう。そうか」

 オヤジがそう言うのならば仕方ない。

「それは、悪かったな」

 後ろ手に扉を開けて早々にその場を去ろうとすると、唐突にナナコが湯船から立ちあがった。

「ど、どうした?」

 直立不動のナナコ。実に堂々とした態度で、見ているこちらの方が恥ずかしい。女の子の大切な部分は、濡れたワカメのような黒髪が隠しているので大事にはなっていないが、個人的にはもう少し慎みというか、恥じらいを持って欲しいものだ。

「髪……」

「何?」

 ナナコは自分の髪をひと房掴むと、鼻先に持ってくる。

「ん?」

 俺はナナコの髪が汚れているのに気付く。湯に浸かっていた部分はそうでもないが、頭頂部に近づいていくほど汚れは目立って見える。

「お前、髪どうしたんだ?」

「雨、降って来た」

「ああ、それでか」

 どうりでこいつがこんな時間に風呂に入っているわけだ。

「で、髪が何だって?」

「むな志が髪を洗ってくれるって言っていた。でも、むな志は来ない」

 いつもはうちの女性スタッフが頼みもしないのにナナコと一緒に風呂に入って、面倒をみている。稀だが、誰もいない時はオヤジがその任を請け負うことになっている。しかし、今、オヤジはコンビニにいて席を外すわけにはいかないはずだ……。

 不意に、俺を風呂場へ押し込めた時のオヤジの意味深な顔が脳裏に浮かぶ。

「あの野郎……」

 オヤジのやつ、その役目を押し付けるために無理やり俺を風呂に入れたな?

 目の前には小首をかしげたナナコがこちらを不思議そうに見ていた。注意深く観察するとナナコの指がふやけて見える。首から下なんて、日焼けをしたように赤くなっている。

「お前、もしかしてずっと待ってたのか?」

 コクリとうなずくナナコ。

 いつもは天使の輪を輝かせている髪が、濡れてヘタっている。このままの状態でナナコに自分でシャンプーさせて、変な風になって学校へ行かせるのも忍びない。

「ったく、仕方ないな」

 覚悟を決めてナナコの方を見ると、既にプラスチックの椅子に腰かけていた。開いた両足に手を置いてリラックスしている。

 これが文字通り全裸待機というやつか。

 仕方ないので、俺は腰に巻いたタオルの結び目をきつく締めてナナコの後ろに膝をついた。

 バックから見ると、ナナコの髪は増えるワカメでもかぶせたように黒々と全身を覆っている。濡れているのに結構なボリュームで、後ろ髪がお尻まで覆い隠している。

「イッ、イクぞ」

 若干頭が傾いて、ナナコからOKのサインが出る。

 ピュッ、ピュッ、ピュッ、ピュッ、ピュッ、ピュッ、ピュッと、俺はシャンプーのポンプをプッシュして白濁色した液体を手のひらいっぱいに出した。それを両手のひらで広げて、黒々とした髪に馴染ませる。ヌルヌルの液体が全体にイキわたったら、指の腹を寝かせてワシャワシャと揉みしだく。

 結構絞り出したつもりだったが、思いのほか泡立ちが足りない。いかんせん髪の量が多いので、まだまだシャンプーが必要のようだ。追加で出した白濁液を、円弧を描いてねっとりと髪へと染み込ませる。

 シュッ、シュッ、シュッと大根の土汚れをこそぎ落とす要領で、首から頭頂部にかけて丁寧にもみ洗いを繰り返していく。爪を立てないように注意して、指をワシャワシャと動かすと、大量にぶっかけたシャンプーが気持ちいいほど泡立ち、白と黒のハーモニーを奏でていく。

 それにしても、他人の髪を洗うなんてことは初体験だが、やってみると案外面白い。癖のないナナコの真っ直ぐな髪は、俺の想いがそのまま伝わったかのように形を変えた。

 重力のまま垂れ下がる漆黒の髪を根元から掴んで、思いのまま天へと突き上げる。と、どこぞのバンドマンのような重力に逆らったツンツンヘアーになった。

 続いて、定番モノのちょんまげスタイルが頭に浮かんだので、シャンプーのぬめりで毛を束ねて頭頂部にのせる。しかし、髪の量が多すぎて、マゲがマゲの様相をなしていない。平らなきしめんになっているじゃないか。失敗作だ……。

 こうなったら名誉挽回。最後に、E難易度のソフトクリームに挑戦せざるを得ない。

 この男、近藤武蔵。同じ轍は二度と踏みはしない。

 きしめんをひも解き、今度はしっかりと一本の塊にしていく。おそらくさっき失敗した原因は、空気が髪と髪の間に入っていたから毛同士が疎結合になっていたからだろう。なので、今度は一本一本の髪を互いに絡み合わせるようにして密着させ、大きなウェーブを形作る。そして、それを綺麗な卵型した頭の上に慎重に乗せて土台を作っていく。この土台作りがこの作品の成否を分ける肝になる。

 まず円を描くように基礎の土台を作り、それが完成したら、その上にさらに小さめの土台を作る。そして、それが完成させたら……。その繰り返し。

 単調な作業なようで、地味に神経を使う作業だなこりゃ。こう、角度が難しいんだ、角度が。

「…………」

 息を止めてその作業に没頭する。円が大きすぎても小さすぎてもいけない。額に汗がにじむ。誤差一ミリ単位となる繊細な作業の末、俺はどうにか山頂部へと到達する。仕上げに毛先をクルンとホイップさせたら、ニュルニュルとトグロを巻いたソフトクリームの完成だ。

「成し遂げたぜ!」

 うんうんと、自身の最高傑作の出来にうなずく。思わずかぶりつきたくなる逸品だ。しかし、改めて見ると、そびえ立つように黒々としたそれはソフトクリームと言うよりはむしろ、ウン――。

 いやいやいや……。頭を振ってアホな考えを消し去る。そう、これはチョコレート味のやつだ。ソフトクリーム(チョコ)の完成だ。艶やかなキューティクルに絡まったシャンプー泡が輝いて、キラキラと高級感溢れるケーキのように見える。

「綺麗――だぁぁ!」

 びっくりして語尾が裏返る。

「…………」

 ソフトクリーム(チョコ)の向こうの鏡に映るジト目がこちらを見つめていた。夢中になり過ぎてナナコの存在そのものをすっかり忘れていた。

 我にかえった俺は、恐る恐るソフトクリーム(チョコ)のコーンの部分に視線を移す。隠すもののなくなった後ろ姿は、肌色全開。尻まる出しだった。

 突き刺さる視線。

「いや、ほら、これはあれだ。こう、髪を動かすことで毛根が活性されて、髪が綺麗になるって、たしか、テレビでモンタが言ってた、いや、ためしてガッタンだったかな?」

「そう……」

 咄嗟に口走った出まかせに納得したのか、ナナコは視線を正面に戻す。

 ホント、髪のように素直な性格してるよなこいつ……。

「って、お前にはその必要はないか。もう十分に綺麗だもんな」

 俺はポムっとチョップをして、ソフトクリーム(チョコ)を潰す。

 と、「ヘクチ」とナナコは可愛いくしゃみをした。

「悪い。すっかり冷えちまったな」

 そう言うと、俺はナナコに目をつぶるよう促すと、ソフトクリーム(チョコ)を洗い流した。



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