episode8 第6話
放課後。体育準備室から出た俺は、大きく息を吐き出しながら、本日分の授業を終えた安堵感にしばし浸る。
大きく息を吐き出して天を仰ぎ見ると、空一面に薄く雲が広がっていた。遠くの空は、黒々とした色をしているが、まだこちらに来るには時間がかかりそうだ。いっそ降り出してくれた方が楽が出来たのになと思ったが、今となっては意味がない。
それにしても体育の実技二連戦は、さすがにこたえる……。って俺は特別何もしていないんだけど、立ちっぱなしの作業というのは結構腰にくる。実際、何かしていた方が気が紛れるくらいだ。
凝り固まった腰をトントンと叩きながら、教育実習生の控え室に入る。
薄暗い教室の中に一人の実習生がいた。窓際に立って外を見ている。一瞬、昼間に耳にした幽霊でも出たのかと思ったが、それがすぐに杞憂だと分かる。後ろ姿でも分かる綺麗なフォルムな美女。
「赤糸さん……」
俺の呼びかけに気付いた様子もなく、真夜花は窓の外に視線を向けている。厳密には中庭に沿って歩く生徒の一団を見つめていた。そのせいか少し顔がうつむき加減になっていて、長いまつ毛が下を向いて憂いを帯びている。
その姿はとても美しくて、ずっと見つめていたいとも思ったが、このまま見ているのも気が引けるので、驚かさないよう注意しながらもう一度声をかけた。
「赤糸さん?」
今度は声が届いたのか、真夜花はハッとすると顔を上げこちらに振り返る。同時に、ふぁっさーっと音を立ててひるがえる髪を手で押さえつける。
「近藤、ふぁん!?」
押さえきれなかった後ろ髪がわらわらと口元を覆う。ウェーブがかった毛先がほんのりピンク色をした唇に張り付いて真夜花の美声を邪魔する。
「何を見ていたんですか?」
「も、もうすぐ雨が降りますね」
「?」
思いがけない回答に俺は頭にハテナマークを浮かべた。
「天気が悪いと湿度で髪のクセが増すんです」
真夜花が、手グシで髪を整えながら照れ笑いを浮かべる。
笑ってはいけないと思いながらも、こらえ切れずに口元を隠して噴き出す。完璧な美貌を持ちながらも、意外とお茶目な所もあるんだなと、そのギャップにやられそうになる。
「ああ、それで外を見ていたんですね? それで、まだ、帰らないんですか? 他のみんなはもう帰ったみたいですけど」
「あ……。はい」
基本、実技実習のある体育担当の俺が実習生の中で一番遅い。次に遅くなる実習生は決まっていないのだが、移動教室で実習授業のある生物担当の真夜花もそれなりに居残りの機会があるようだ。
「早く帰らないと、この学校、幽霊がでるみたいですよ」
「幽霊?」
うらめしや~の格好でおどけてみせる俺に、真面目な顔で真夜花が首をかしげる。
「え、ええ……」
居住まいを正して答える俺。正直、美人の真顔は、綺麗だけどかなり怖い。
「生徒が言っていたんですけど、何でも少し前からこの学園で幽霊を見たって噂があるらしいですよ。まあ、でも学生が言うことですから……。そういえば、赤糸さんは生物専門ですから、こういうオカルト系は信じてませんよね」
肩をすくめる俺に、
「そう……ですね……」
真夜花は、濡れたように艶やかな下唇をゆがめると、曖昧に微笑んだ。
どうにも意味深な笑みを尻目に鞄を開けて帰り支度を整える。と、鞄の中にレポート用紙があるのに気付く。
「これは……」
レポート用紙を取り出すと、その隙間からポロリと実習初日に渡されたプリントがこぼれ落ちた。
手にとって見ると、そこには今回の実習のスケジュールが書かれている。探偵業に時間をとられたせいで、実習の資料を鞄に入れっぱなしにしていた。直近で何かイベントはあっただろうかと、目を通した俺は背中に嫌な汗を感じた。
何と、実習中間報告レポートの提出日に、今日の日付が印字されていた。俺は念のためレポート用紙を手に、パラパラとめくってみたが、当然のように真っ白だった。
プルプルと震えている俺に、「どうかしました?」と真夜花が声をかけてきたので、無言で新品同様のレポート用紙を渡した。
「あらあら……」
顔を見合わせて苦笑いする。
「期限はたしか今日の5時までですよ。大丈夫ですか?」
「だ、だ、だいじょ――ばない」
思わず泣きが入る。が、教科が違うので彼女のレポートを写すわけにもいかない。絶体絶命のピンチである。
教育実習自体は本来の任務ではないが、仮にとはいえ教育実習生になった手前、その役になりきるためにはきちんとその責務を果たさなければならない。潜入任務とはそういうものである。少しでも手を抜けば、そこから探偵の身分がばれてしまう可能性がある。だから、やるべきことはきちんとやるべきであるとオヤジが言っていた。
仕方がない。俺は改めて椅子に座って、レポート用紙を広げた。それから、これまでやってきたことを思い出す。
「…………」
取りあえず、頭に浮かんだことを書いてみる。初日のオリエンテーションに、初授業に、実技……。
「う~ん」
ポリポリとボールペンの尻で頭をかく。目の前には自分がやったことの羅列ばかりでごちゃついている。どうにも上手く自分の書きたいことが表現しきれていない。
「書きたいことや考えが上手くまとまらない時は、まず完成図をイメージするんです。そして、そのイメージに向かってあった出来事を書いていけば分かりやすいレポートになりますよ」
頭を振り子のように揺らしていた俺に、真夜花が隣の席に腰を下ろしてそんなことを言ってくる。
レポート用紙を覗き込むため、真夜花がこちらへと近づいてピッタリと二の腕が密着する。顔が近くて、すぐ側にある。髪をかき上げて耳にかけるとほんのりと香る女性特有のいい匂いがした。
それから、真夜花は、「ちょっといいですか」とレポートを自分の手元に引き寄せると、サラサラとペンを走らせて俺が書き連ねた文字列を順序良く組み直していく。簡潔で、変に小難しい言葉は一切使っていない。丸っこく優しい印象の文字だけど、きちんと伝えたいことが実に分かりやすく書かれている。
「おお~。分かりやすい」
自然と称賛のため息が漏れる。
「まず結論を、この文章で何を伝えたいか? それを強く意識して、その日何をしたのか、その結果どうなったのか。この実習で得たものは何なのかを書いていくと、明確で分かりやすいレポートになりますよ」
「なるほど、まず結論、結果が先にあるというわけね。逆転の発想って所かしら?」
「そうですね。そんな感じですかね。どんなものでも、完成をイメージしなければ、おかしなものが出来ますからね。家を建てたり、車を組み立てるのだって、完成図と言うか最初に設計図を描いてから作業に取り掛かりますよね。それと同じなんだと思います。今回は、教育実習のレポートです。自分が教師になれるだけのスキルがあると証明することをきちんと記述することが大切です」
う~ん。妙に説得力があり、何だか納得してしまう。
俺は何かスイッチが入ったように、熱弁してみせる真夜花が微笑ましくて、つい笑ってしまう。
「ごめんなさい。何だか赤糸さん教えるの凄く上手くて、本当の先生みたいだなって。赤糸さんならきっと立派な教師になれますね」
「そんなこと……」
真夜花は、照れくさそうに頬を染めると体を縮こませた。
*
「私は白金の方です」
無事レポートの提出を終え学園から退散しようと下駄箱に向かっている途中、今更ながら真夜花の居所を訊くとそんな答えが返ってきた。
「白金ですか。これまた結構なお住まいですね」
ハハハと俺は苦笑いを浮かべる。
白金はこの辺の地域ではセレブの住む小高い丘の上の街で、俺の自宅兼コンビニはその麓にある。
見目麗しい姿だけじゃなく、生まれにおいても真夜花は一流の人間のようだ。まあ、白百合女学園自体がお嬢様学校なので、別段驚くようなことでもないのだが、流石に違う世界の人間なんだと実感してしまう。
「それじゃあ、途中まで一緒ですね」
と、二人で校門を出るまでは良かったのだが、五分ほど歩いた所でどしゃ降りに見まわれた。
とっさに、シャッターの下りた店屋の軒下に避難したので、大惨事はまぬがれたが、それなりに濡れてしまった。
「びっくりした~」
俺は化粧が崩れないようにハンカチを額に当てながら水滴を拭う。
「本当、急ですよね。凄く大きな雨粒。これがゲリラ豪雨というものなんでしょうか?」
前髪を整えながら真夜花が水しぶきを避けて一歩後ずさる。
「ですね」
まさに、その通りだろうと、うなずいて返す。
校門を出るまでは、薄い曇り空だったはずなのだが、ポツリポツリと降り出した雨はものの十秒も経たないうちに本降りとなった。
二人、肩を並べて黒々とした雨雲を見つめる。
「…………」
「…………」
気まずいというほどでもないが、俺もそうだが、真夜花の方も普段実習生同士であまり会話をしていないので何となく押し黙ってしまう。共通の話題的なものでもあればいいのだが、真夜花が何を好きなのか分からないし、昔から何の気なしにする雑談は苦手な方だ。聞こえてくるのは、せっかちな雨音だけ。
何となく俺は横目で真夜花の様子をうかがう。
スーツの下の白いカッターシャツが雨に濡れて体に張り付いている。その下には、凝った装飾を施した下着が透けていた。黒か紺かはっきり分からなかったが、そのまま見ているわけにもいかないので、しぶしぶ視線を上に向かせる。と、真夜花は恨めしそうに、雨粒を降らせている雲を見つめていた。
「雨はお嫌いですか?」
「嫌いです……」
上を向いたまま即答する。
「その髪のせい?」
真夜花は雨に濡れ、もわもわとボリュームを増した髪の毛先を、指でクルクルといじっていた。
「意地悪、なんですね」
そう言うと、真夜花はプックリと頬を膨らませる。怒っているわけではなさそうだが、何だか話しかけにくい雰囲気になってしまう。
じっと遠くを見つめている真夜花。ボリュームはたしかに増えているが、髪全体がしっとりと湿り気を帯びて妙に艶っぽい。水もしたたるいい女とはまさに彼女のことだろう。くっきり二重まぶたが軽く瞬く。透き通るような真ん丸いブラウンの瞳が、潤い輝いた。
どこか吸い込まれそうな瞳に見とれていると、俺の前髪にかかっていた細かな水しぶきが寄り集まり、一滴の雨粒となって地面に落ちる。とっさにハンカチを取り出そうとポケットに手を突っ込む。と、昼に由愛からもらったクッキーの小袋を見つけた。
「あの、良かったらこれ、どうですか? その……。赤糸さんのおかげで無事レポートも提出出来たし。お礼と言ってはなんですが……」
話のネタにでもとクッキーを差し出す。ポケットに入れっぱなしだったせいで、両耳が欠けたトロロを不思議そうに見つめる真夜花。
「生徒が調理実習で作ったクッキーです。甘いものが苦手でなければ、いかがですか?」
素直にクッキーを受け取った真夜花は、正体不明のUMAと化したトロロの頭部を控えめにかじる。大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
「凄くおいしいですよね――」
「これは!」
真夜花が、俺の言葉にかぶせて、「これは、誰が作ったんですか?」と詰め寄る。
「え? ええ……。さっきも言いましたけど、生徒の一人が作ったんですよ。一年の矢追由愛さんです。知ってます?」
「あの子がこれを……」
真夜花が睨むようにして頭部を無くしたトロロを見つめてつぶやく。
「はい。すごく目立つ子ですよね。クラス委員で、成績優秀、スポーツ万能。おまけに料理まで出来るなんて天は二物を与えずどころか、三物くらい与えているんじゃないでしょうかね?」
真夜花は、そんな俺の言葉なんか耳に入っていないようで、クッキーを噛み締めている。
「どうですか? もしかしてお口に合いませんでした?」
俺は真夜花がクッキーを完食するのを待って、声をかけた。が、その言葉に真夜花は反応せず、どこか魂の抜かれたような顔色をしていた。
「赤糸さん?」
流石に不安になって肩に手を置くと、真夜花はビクンと体を震わせてこちらを向いた。
「どうかしました?」
それはこちらの台詞だと言いたかったが、そこはあえてスルーして、
「クッキーどうでした?」
「え……。あっ、はい……。もちろん、おいしかった……ですよ」
真夜花は湿った前髪をかき上げる。どこかぎこちないようにも見えたが、明確に何かがおかしいと指摘出来そうもない。まあ、人はおいしいものを食べると自然と無口になるのは自然の摂理だ。さっきの彼女もきっとおいしいクッキーを口にして無言になっただけだろう。そう結論付けると、俺はおもむろに由愛から貰ったレシピをバッグから取り出して真夜花に渡した。
「それ、矢追さんに貰ったクッキーのレシピです」
一枚ペラのコピー用紙を手に真夜花は、眉を逆ハの字にした。それから、レシピを穴が開きそうなほど厳しい視線で見つめる。随分と熱心だ。そんなに気にいったのだろうか?
「何でも子供の頃に作ったものらしいですよ」
「ええ……。しって――」
真夜花が何かを呟いたかと思うと、ザアアア――と雨足が強まりその言葉をかき消す。水しぶきが目に入ったのか、瞬きをすると同時に雫が頬を伝いこぼれ落ちる。
降りしきる雨。A4の紙が湿り気を帯びて、クシャリとへたった。
*
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