episode8 第1話

第一章 「運命の女(ファム・ファタール)」




 六月末。梅雨特有の、多分に湿気をはらんだ風が俺の股の間を吹き抜けていく。

「これがスカートというやつか……」

 無防備に晒された股間がスースーして、初めての経験に武者震いをする。女ってのはいつもこんなものを履いているのに、よく風邪をひかないなと感心する。

 それにしても任務のためとは言え、この俺――近藤武蔵(こんどう むさし)が女装をして女子高前に立つだなんて夢にも思わなかった。

 それに、立つだけならまだいい。今なら只の変態野郎ですむ。が、俺はあまつさえ女装という変態行為に加え、今まさに男子禁制の薔薇の園、いや百合の園とでも言った方がいいのか? とにかく俺は、その禁断の園へと足を踏み入れようとしている。

 回れ右したいのを何とかこらえて、俺は改めて校門に掲げられた『私立白百合女学園』の校名を仰ぎ見る。

 レトロな雰囲気をかもし出している門構え。その鉄格子の向こうには、レンガ造りの校舎が見える。色褪せてはいるが、どっしりと重厚感溢れる意匠をしている。

 この古き良き伝統を現代に伝える名門お嬢様学校が、コンビニ探偵である俺の今回の任務の舞台だ。

 依頼者の話によれば、何でもこの学園の生徒が何の前触れもなく意識を失い、そのまま眠りに落ちるという原因不明の事件が発生した。そこで、学園はその原因究明のため、俺の所属する探偵事務所へと調査依頼を行なったのだ。

 そこで今回の事件を解決するためにはまずは現地調査が必要だと、探偵事務所の所長であるオヤジが、俺に学園潜入任務を課した。そして、丁度いいことに――俺にとっては悪いことに――今日から教育実習期間が始まるらしく、俺は今こうしてロングヘアーのカツラを被り、スカートスーツに身を包んで教育実習生に紛れようとしているのだった。

「全く、正気の沙汰じゃないぜ」

 登校ギリギリまで登校をごねていたせいで辺りに他の実習生らしき姿はない。一緒に校舎まで行ってくれる人がいれば少しは気も紛れるのだが、それは叶わぬ夢ということか……。

 任務だと割り切ればいいのだが、女装をして女子高に潜入するのはかなりの勇気が必要だ。男子禁制だとか、生徒たちに不信感を与えないためとか、もしもこの事件に犯人がいるなら気付かれてはいけないとか、女装するに足る理由は色々あるけれど、どうにも校門をくぐる踏ん切りがつかない。

 左腕にした可愛らしいデザインの腕時計を見る。短針がもう少しで8の数字に差し掛かろうとしていた。事前に渡された資料には午前8時に会議室に集合の旨記述されていた。今なら走ればギリギリ間に合うといった所だ。

 ため息を吐き出しつつ、俺は覚悟を決めて校門に一歩踏み込む。と、梅雨雲の隙間から差しこんだ光に思わず目がくらんだ。あまりに不意打ちだったので、足元がふらついて体勢を崩す。慣れないシューズでうまく踏ん張りがきかないせいもあり、大きく右へとスライドしていく体。そのまますっ転んでしまうかとも思ったが、顔面が何かにぶつかって俺の体を押しとどめ、転倒には至らなかった。

 石造りの壁にでも激突したかと思ったが、俺がぶつかったそれはかなり柔らかかった。流石は名門校。生徒が怪我しないように壁にエアバッグでも仕込んでいるらしい。何と言うか天国にでもいるような心持ちだ。丁度天日で干したばかりのふかふかの布団に包まれているような感覚。このままこの物体に沈み込んでひとつになりたいとさえ思う。しかし、無情にもかすかに聞こえるチャイムの音が俺を現実へと引き戻す。

 仕方なく顔を上げて姿勢を正すと、目の前には一人の女性が不思議そうにこちらを見つめていた。

 年の頃は俺と同じくらい、二十歳前後といったところだろうか。漆黒のスーツ姿に長い髪。ややたれ目がちで何となく優しそうな印象を受ける。いやそんなことよりも、上着と白いシャツに隠しきれないほど自己主張しているバストが強烈なイメージとして俺の目に焼きついた。

 なるほどあの胸が天然のクッションになって俺を救ってくれたというわけか……。

「あの……。支えてもらったみたいで助かりました」

 男っぽい言葉づかいにならないように注意しながらお礼を言って、軽くお辞儀をする。

 目の前の女性はなぜがキョトンとした顔でこちらを見ていた。まるで変なものでも目にしたような顔をしている。

 俺はハッとする。

 ――まさか男だとばれた?

 だとすれば、有無を言わさず通報ものだ。

 もしかして、首に下げたネックレス型変声機がうまく機能していないのか? 今朝きちんとテストしたはずだが、万が一ということも無きにしも非ずだ。いや、そもそもこの格好がおかしいのではないだろうか? 男には分からなくても、女には一目で女性ではないと分かる何かがあるのかもしれない。いや、もしかすると――。無数の可能性が頭の中を駆け巡る。

 ここで下手に行動を起こすのは事態を悪化させかねない。結果、俺は一歩も身動きが出来なくなる。背中に緊張が走り、ゴクリと喉が鳴る。ここは大人しく相手の出方を待とう。

 と、女性はキョロキョロと辺りを見回すと、ぷっくりと膨らんだピンクの唇をかすかに動かし、

「私……ですか?」

 小鳥がさえずるが如き美声で、首をかしげる。

 俺は、無言でうなずいた。どうやら不審者だと認定されたわけではく、俺の彼女への発言を、自分へのお礼だと認識していなかったようだ。

 変態疑惑から解放されホッと胸を撫で下ろす。にしても、ここには俺たち二人しかいないはずなのに、何だか変な反応だなと戸惑ってしまう。

 改めて目の前の女性を観察する。

 率直な感想だが、綺麗な人だ。生まれて十八年。美人と接する機会は少なからずあったが、彼女の美貌は今まで見てきたそれとは明らかに違うものだった。腰まで伸びた長い髪が背中越しに風に揺れてたなびき、それが朝日を受けて輝いている。その光景は神秘的で、まるで後光の差した女神のようだった。

 それにしても、ついさっきおろしたようなパリッとしたスーツだ。アイロンのかかった清涼感のあるまっさらなシャツ。化粧なんかも全然していないように見える。このまま就職活動の面接に行っても違和感ないだろう。

 と言うか、この時間にこんな格好でこんな場所にいるということは……。

「もしかして、あなたも教育実習で?」

「教育……実習……?」

「はい。この学園、今日から教育実習で、もしかしたら、あなたもと思ったんですが」

 俺の問いかけに、女性は一瞬硬直したかと思うと自身の体を動かしてみたり、ペタペタと両手で全身の感触を確かめ始めた。しばらくして、唐突に動きを止めると自分の中で何か納得がいったのだろうか、校舎の方を見上げてボソボソと何かを呟いた。

 何だろうか。もしかするとこれが不思議ちゃんとか電波系とかいうやつなのか?

「あ、いや、違うならいいんです。それじゃあ、私はそろそろ行きますね」

 早々にここを立ち去ろうと校門へと向き直ると、

「いえ、そうです。私も教育実習で来ました」

 予想に反して、満面の笑みが返ってくる。ようやくの普通の反応に少し安心する。これでどうにか話が出来そうだ。実習初日で色々と緊張していたんだろう。俺自身もさっきまで変にテンパっていたので、はたから見ればこんな感じだったかもしれないと思い苦笑する。

「ああ、やっぱり。そうじゃないかと思いました。私は、近藤ムツミって言います。同じ実習生同士、今日からよろしくお願いしますね。ちなみに担当は保健体育です」

  首をかしげて、「コンドームツミ? さん?」と俺の偽名を反すうするように口にする女性。いや、コンドームにツミはないんだけどねと、心の中で突っ込みを入れる。

「あ、えっと、私の方は、赤糸真夜花(あかし まやか)です。担当は、生物です。こちらこそよろしくお願いしますね」

 そう言って微笑む真夜花は、初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい感じがした。



 それから、俺たち二人は集合時間ぎりぎりに会議室に滑り込んだ。

 一時間目はオリエンテーションで、今回の実習では主に一年生のクラスを受け持つようになっているらしく、そのせいか一年の学年主任が俺たちの研修のとりまとめを行うとの説明があった。

 オリエンテーション終了後、各々、自分が選択した教科の担当教師へ付いて本格的に実習開始となった。

 俺の担当の先生は四十過ぎの小柄なおばさんだった。小西のぞみ先生。旧姓、佐久間のぞみ。二児の母親で、大学で知り合った旦那さんも教師だとか、どうでもいい身の上話をこちらが訊いてもいないのに色々と話してくれた。そんなおしゃべりな小西さんの長すぎる自己紹介で午前中のカリキュラムは終了した。

 そんなこんなで昼休み。

 俺は事前にこの学園に潜入している相棒と合流するため、約束どおり中庭へとやって来た。中庭には既にランチボックスを広げた生徒たちが思い思い昼食をとっている。

 梅雨とは言え今日は快晴なので、外で食べる食事は普段の二割増しでおいしく感じられるだろう。しかし、本来日陰ものの探偵がこんな目立つ場所で落ち合うのはどうかとも思ったが、下手に人気のない場所で合流して他の生徒に噂になっても馬鹿らしい。結果、教室以外で生徒の最も多い中庭ということで落ち着いた。

「ふぅ~」

 俺は大きく息を吐き出して、くだんの待ち人を探す。目立たないようで意外と目立つ奴なので、見つけるのにそんなに時間はかからないだろう。そんなことを考えていると、

 クイッ――。

 と、スーツが後ろに引かれる。

 振り返ると、そこにはちっこい少女が、俺の上着の端を掴んでこちらを見上げていた。

「武蔵……」

「お、おお。ナナコか」

 少女へと振り返りその名を呼んだ。目の前の小さな少女。夏用の白いセーラー服に身を包んだ女生徒が、今回の潜入捜査の相棒のナナコだ。

「悪い遅くなった」

 ナナコは俺の謝罪に、フルフルと頭を左右に振って大丈夫だと意思表示している。相変わらず無口で冷静な奴だ。おろしたての真っ白い夏服に黒い髪が、強いコントラストとなって目に眩しい。見慣れていないせいか、ナナコが女子高生の姿をしているのは妙な違和感をおぼえる。

 と言っても俺たちはそんなに親しいわけではない。知り合って一ヶ月経つか経たないかくらいの関係だ。

 この子は、ゆえあって親元を離れ、うちの探偵事務所で預かっている女の子だ。なので、本来、『お客様』的立場なので俺たちの仕事の手伝いなんてしなくてもいいのだが、『働かざる者食うべからず』と、自主的に探偵仕事の手伝いを所望してくる。

 そういう姿勢だけは評価するのだが、ナナコは口数が少なく社交的な捜査には向いていないので、いつもは難易度の低い猫捜しなんかを手伝ってもらっている。しかし、今回は女子校への潜入任務ということとオヤジの指示もあって、急遽俺のパートナーとしてこの学園に転入、潜入してもらっている。

「それにしても、もう少し小さなサイズの制服はなかったのか?」

 ナナコが着ている制服は明らかにサイズが合っていない。

「これが、一番小さなサイズ」

 冷静に答えるナナコに、俺はそうだろうなと納得する。

 年齢不詳の、自称十六歳のナナコだが、その風貌は普通の女子高生とはかけ離れた容姿をしている。良くて中学生、悪くすると小学生といった感じだ。

 それは、ナナコの生い立ちに起因するものであり、ナナコは愛情遮断症候群――愛情遮断性小人症とも言われる一種の病で、そのせいで本来十六歳の女の子が享受すべき発育が阻害されている。詳しい原因ははっきりしていないが、子供の頃、両親や家族、他の人と関わらず、十分に愛情を受けずに過ごすと、身心の成長障害や発達障害が起こって身長や体重が十分に成長しない子供になるらしい。

 だが、その原因となるものは前回の任務で解決した。医者からは、病気も回復しこれからは十分に成長すると言われているので、いずれはこの制服もナナコに合うんだとオヤジは言っていた。ともあれ現在の率直な印象としては、制服に着られている感は否めない。

 しかし、当の本人はそんなことはあまり気にしていないようで、マイペースで気ままにやっている。

 ナナコは俺の相棒(バディ)ではあるが、ナイスバディではないと言うわけだ。

 と、俺はナナコが手ぶらなのに気付く。

「あれ? お前、お弁当どうした?」

 オヤジは毎日ナナコのために弁当を用意していたはずなのだが、どうにもそれを持参していないようだ。

「こっち」

 ナナコは中庭の外れを指差し、そちらへと歩いて行く。もう既に場所でもとってあるのだろう。まあ、ここで立って食べるわけにもいかないしな。

 俺は素直にナナコの尻を追いかける。

 前髪同様真っ直ぐ切り揃えられた後ろ髪が、スカートの裾辺りで左右に揺れている。

 俺は肩まで伸びたカツラを着用しているが、ナナコの髪はお尻まで伸びている。あまり手入れをしている風でもないのになぜか綺麗な真っ直ぐな髪をしている。その持ち主の心でも投影しているのだろうか? 素直すぎる髪質だ。

 ナナコは、良く言えば真面目。悪く言えば融通が利かない性格だ。今もナナコは事前に準備した場所へと連れていくために、雑談もせずに黙々と歩いている。それはあまり集団生活では喜ばれない傾向にある。

「その、なんだ……。学校、どうだ?」

 ナナコからは俺の姿は見えないはずなのに、何だか照れくさくて頬を手でかきながらその背中に問いかける。

「どう? とは?」

 質問の意図を理解出来ないのか、足を止めて前を向いたまま訊き返される。

「調子というか、何て言うか、学校で浮いたりしてないか?」

 ああ、とナナコは質問を理解したのか再び歩き出す。

「大丈夫。問題ない」

「そうか」

 その回答にほっと胸をなで下ろす。と、ナナコは歩いたままの姿勢で、ほんの少し首をひねると、

「そもそも浮くはずがない。わたしに飛行能力はないわ」

 俺を諭すように告げた。

 どうやら大真面目で言っているようだ。

「あ、そうなのね……」

 ナナコのマジボケに、俺はただそう返すしか出来なかった。



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