episode7 第24話

 何はともあれ、これでようやく一息つける。

「ふぅ~」

 安堵のため息が自然と漏れ出る。

 それから、これからのことを考えるため、腕組みをして緊張して凝り固まっていた首をひねってポキポキと鳴らした。

 しかし、怜子も不憫な人だ。選択肢さえ間違わなければ、きっといい研究者になれたかもしれないのに……。運命の悪戯とでも言ったらいいのか、俺たちを手の中で弄ぶ存在に辟易した。

 と、視界の端にフラフラとこちらへ歩いてくるナナコの姿が映る。

「おお。ようやく、復活した――」

 そこまで言いかけて俺は絶句する。

「お前、何やってんだよ」

 ナナコの手にはどこから取り出したのか、怪しく光るナイフが握られている。

「もう……。終わらせるわ……」

 くっ……。ここへ来てナナコの意識がなかったので失念していたが、こいつの望みはまさにそれだった。

 母の命を終わりにするため、自らの世界を終焉に導くため、一歩、また一歩とナナコは怜子へと近づいて来る。

「よせっ!」

 母子の間に割って入る。

「どいて! そいつ、殺せない!」

 それは、ナナコが初めて見せる表情だった。

 怒り、嫌悪、悲痛、恐怖。複数の負の感情が小さなナナコの体の中で、ない交ぜになってにじみ出ていた。

「言ったでしょ。この人を殺す。それが私と、兄の願いだって」

「それでも駄目だ! この世に良い人間でも悪い人間でも、殺していい人間なんていない。死んでいい命なんてないんだ!」

「何故? あなたは何故そんなことを言うの?」

 まぶたを開いたまま、瞬きもせずにナナコは俺を責めた。

「私が生きている理由を奪うって言うの? 何も持たずに産み落とされて、ナナオもいなくなって、私にはもうこうするしかないのよ」

 何かにすがるように、手の中のナイフを握りしめるナナコ。

 それがお前を支えているのか。それがお前にとっての世界の中心だと言うのか?

 そんなものにすがって、お前はこれからどうやって生きていくんだよ……。

 たった、ひとりきりで……。

 どうやって……。

「何もないなんて。そんなの嘘だよ……。お前はもう持っているじゃないか」

「何、言ってるの?」

 ナナコは首を横に振って、俺が何を言っているのか分からないとナイフを突き出す。

 そうさ。分かるはずがない。ナナコはもう既にそれを手にしているのだから……。

「俺はさ。お前がうらやましいよ……」

 ナナコは孤独なんかじゃない。

 本当に孤独な人間は、誰かと楽しんだり喜んだり出来ないだけじゃない。怒ることも憎しみ合うことさえ出来ないんだ。でも、お前にはこうして、憎しみをぶつけられる相手がいるんだ。

 それに比べて、俺の中にあるのは無だ。喜びも悲しみも何もかもの感情が俺だけの中で完結してしまっている。やり場のない孤独だけがずっと俺を支配していた。

「お前はひとりなんかじゃない」

 負の感情とはいえ、少なくとも、繋がってはいるのだから……。

 視界の端にわずかに映る怜子は、何を思っているのか視線をうつむかせている。

「お前には家族がいるんだ」

 今はただ、二人の見ている世界が、ほんの少しすれ違っているだけでしかないんだ。

 だから、繋げてやる。俺が……。俺が見たい世界で、繋げてやる。

 俺が見たいのは、優秀な人間だけがいる世界でも、見たくない誰かを切り捨てるような世界なんかじゃない。



 俺が見たいのは――。



 ナナコへと歩み寄る。

「これは誰かを傷つけるものなんかじゃなくて、大切な人のために料理をするためものだ」

 俺はナナコを刺激しないように、素手でそっとナイフを掴んだ。

 ナイフがビクッと震える。

 触れた銀色はとても冷たく、鋭利で、俺はそれを通してナナコの想いを理解した。

 悲しかったんだよな。寂しかったんだよな。それを隠すために、誰にも触れられないような、冷たく鋭利な刃物になるしかなかったんだよな。

 そうやって、心を閉ざせば、誰も傷つけずにすむし、誰からも傷つけられずにすむ。楽な生き方さ……。

 でも、それはとても辛く悲しい生き方だ。

「離して!」

 刃がほんの少し引かれる。その道すじに浮き上がる真っ赤なライン。手のひらの表皮が傷つき、その内側の柔らかな肉が傷ついた証拠だ。

 でも、こんな刃物では傷つかない。断ち切れないものが、俺の中にある。目の前の少女と繋がっている。

 それを信じて俺はナイフを握りしめた。

「離さない……」

 オヤジは、家族になるべき人がいると言っていた。

 俺は今それを手にしているんだと思った。だから、絶対に手放してはいけないんだ。

「そんな……。どうして……」

 自らが痛みを感じているようにナナコは顔を歪める。

「痛く、ないの」

 力を込めるほどに、俺の指は痛んだ。

「ああ。いたいよ……」

 だけど、それは俺にとって必要な痛みだった。

 子を生む時、母親は壮絶な痛みを伴うと聞く。でも、生まれてくる子にも痛みはきっとある。なぜなら、泣かずに生まれない子はいないのだから……。

 だから、これは俺が生まれ変わるための――

「いたいんだ……。俺はお前の側に、いたいんだ」

 ――この子と家族になるための痛みなんだ。

 もしも俺に生きている意味があると言うのなら、今この瞬間であって欲しいと願う。

 俺はお前と同じ時間を、世界を生きたい。

「ナナコ。おむすび、ありがとう……。美味かったよ。だから、また何か作ってくれよ」

 ほんのりとピンクに色づいた唇の向こう、白く光沢のある歯がカタカタと鳴った。

「わたしは……。わたしは……」

 ナイフに込められた力は抜け、地面で冷たい金属が落ちる音がする。

「そうだ。もう誰も傷つけなくてもいい。傷つかなくてもいいんだ」

 抱きしめると、ナナコも空になった手で俺の体を掴んだ。

「でも、ナナオは生まれてきたことを後悔していた。私は、私であっても私ではない。私は、ナナコでナナオ。だから、ナナオの望みを……」

 俺の背中を握りしめ、震える体。

「何でそうなるんだよ?」

「双子だから、何となく分かるの。ナナオが考えていることが……。だから私は、私たちを生みだしたママを憎んでいた。その人が死ねば、もう私たちが生まれることはなくなる。そして、その願いを叶えるために、私は今まで生きてきた……」

「それは違うわ。ナナオちゃんはそんなこと望んでなんていない」

 いつの間に移動したのか、フロアの隅に備え付けられている端末からオヤジが首を横に振った。

「オヤジ、あんた何やってんだよ?」

「ええ。みんなに見てもらいたいものがあってね」

 オヤジが、マウスをクリックすると、端末の画面が大型スクリーンに投影され映し出される。それと同時に、動画を再生するアプリケーションが起ちあがった。

「動画ファイル?」

「そう……。武蔵ちゃんの携帯端末のメールソフトに何故か保存されていたんだけど、ファイルが暗号化されていて復元するのにちょっと時間がかかってね」

「メールに?」

 そう言えば、端末にメールの受信確認のポップアップがあったけど、勝手に携帯端末に取り込まれたのか?

「別に化粧を直すのに手間取ったんじゃなくて、暗号復元の鍵がナナコちゃんの遺伝情報だったのよね~」と、オヤジはひとりごちる。

 それから、オヤジは瞬きを一つして真面目な顔をしたかと思うと、

「これ、ナナオちゃんが撮影したものよ」

 ピクンと俺の胸元に納まっていた体が震えた。



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